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池上本門寺の塔頭
    
妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺

青山貞一・池田こみち・ 斉藤真実
April ~May, 2018  独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

 塔頭① 塔頭とは、本行寺
 塔頭② 実相院、真性院、西之院、厳定院、南之院、理境院
 塔頭③ 覚源院、本成院、本妙院、常仙院、中道院
 塔頭④ 東之院、安立院、法養寺、永寿院、心浄院
 塔頭⑤ 妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺

・玄性山妙雲寺 旧本山:小湊誕生寺 法縁:通師雑司谷法縁
 妙雲寺、〒146-0082 東京都大田区池上1丁目19ー40 


出典:グーグルマップ


妙雲寺の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-5-16


出典:グーグルマップ


妙雲寺の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


妙雲寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


妙雲寺の松
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


出典:グーグルマップ衛星写真

・妙雲寺の概要
 日蓮宗寺院の妙雲寺は、玄性山と号します。智雄院日正上人(寛永14年1637年寂)が、元和年間(1615-1623)に創建したといいます。

・妙雲寺の縁起
妙雲寺は、智雄院日正上人(寛永14年1637年寂)が、元和年間(1615-1623)に創建したといいます。

・池上の寺めぐりによる妙雲寺の縁起
妙雲寺

 元和年間(1615-1623)長勝寺と同じ智雄院日正上人により開創。小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃かと思われ、のちに妙雲寺が別当となる起因となった。
 駐車場入口にある庚申塔は青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言わざる」の謹慎態度を示して浮彫りにされたもので、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられている。(池上の寺めぐりより)

・新編武蔵風土記稿による妙雲寺の縁起
妙雲寺

 年貢地、村の北方養源寺の東にあり。法華宗、房州長狭郡小湊誕生寺の末山、玄性山と号す。開山智雄院日正は寛永14年3月18日示寂す。本堂5間6間半、本尊三宝祖師を安ぜり。門柱間9尺、巽に向ふ。妙雲寺の三字を扁す。
 三十番神社。本堂に向ひ左にあり。本社1間四面、拝殿2間四方。神体束幣の像、三十体いづれも長7寸許。
 木下順庵墓。此地は公のみゆるしをうけし墓地にて、村民をして守らしむ、順庵の事蹟は人も知りたることなれば略せり。よりてただ男寅亮の撰せる行賞、及びこの地に建る碑銘のみを左に録せり。(中略)旧蹟。中正庵蹟。稲毛道の北にあり。今廃て旧蹟となれり。(新編武蔵風土記稿より)

出典:猫の足あと

※妙雲寺と曙楼門柱跡


曙楼門柱についての解説板
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


曙楼門柱があった場所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


曙楼門柱について話す地域住民と池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

 地元住民の方は庭の手入れの手を止めて、この辺りの昔の様子についていろいろお話をして下さいました。この地に住んで三代目とのことで、昔は茅葺き屋根の家だったとのことです。家の前の料亭「曙楼」を出入りする人々の様子を先代から聞き及ぶとともに、ご自分でも戦後の様子を記憶していらっしゃいました。人力車や馬車で料亭の客を大森駅まで送迎していた様子などをお話ししていただき、今ではこの辺りの歴史を知る人もほとんど居なくなり寂しいこととおっしゃっていました。

※ 曙楼の跡  明治になって、この地で鉱泉が発見されると、明治十九年(1886)に河野実成が大料亭「明ぼの楼(明保乃楼、曙楼)」を建て、光明館などの池上温泉場が設けられた。池上本門寺に連なる台地斜面にあり、遠く房総を望む景勝地であったことから、多くの政治家や著述家たちが訪れた。田山花袋の『東京近郊』や徳富蘆花の『富士』などにも登場する。庭には無数の梅や南天等が植えられていたといい、今も庭内に残る二本の梅の木は、三代将軍家光(1624~50)のお手植え梅と伝えられる。

 下は大正年間に撮影した曙楼の入り口(玄関)。


大正年間に撮影した曙楼の入り口(玄関
出典:不詳


大正年間に撮影した曙楼の入り口(玄関
出典:東京名所 本門寺と池上温泉


・長荘山養源寺 旧本山:池上本門寺 法縁:池上神楽坂法縁
 養源寺、〒146-0082 東京都大田区池上1丁目31


出典:グーグルマップ


養源寺の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-5-16


養源寺山門  出典:猫の足あと


養源寺山門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


養源寺山門前にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


養源寺本堂  出典:猫の足あと


養源寺本堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


照栄院の地蔵群
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


照栄院の庭とネコ
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


出典:グーグルマップ衛星写真

・養源寺の概要
 日蓮宗寺院の養源寺は、松平右京大夫隆政の母、養源院殿妙荘日長大姉の発願により、荏原郡浜竹村(東蒲田付近)にあった本成寺を松平家の所領であった当地に移転、池上本門寺十八世日輝聖人を迎えて慶安元年(1648)に開山しました。養源寺は、池上本門寺歴代住職の隠居所となり、八代将軍吉宗が鷹狩りの際には御膳所となっていたといいます。池上七福神の一つ恵比寿さまを祀ってあります。

・養源寺の縁起
 養源寺は、松平右京大夫隆政の母、養源院殿妙荘日長大姉の発願により、荏原郡浜竹村(東蒲田付近)にあった本成寺を松平家の所領であった当地に移転、池上本門寺十八世日輝聖人を迎えて慶安元年(1648)に開山しました。養源寺は、本門寺歴代住職の隠居所となり、八代将軍吉宗が鷹狩りの際には御膳所となっていたといいます。池上七福神の一つ恵比寿さまを祀ってあります。

・池上の寺めぐりによる養源寺の縁起
 慶安元年(1648)松平右京大夫隆政の母、養源院殿妙荘日長大姉の発願により、荏原郡浜竹村にあった本成寺を松平家の所有地であった当地に移し、養源寺と改称、開山に本門寺十八世日輝聖人を迎えた。享保4年(1719)、同6年(1721)の二度、八代将軍吉宗が鷹狩りの際には御膳所になったという。文化元年(1804)火災で全焼し、以後智海院日勝尼を初代として、昭和20年(1945)まで尼僧寺であった。池上七福神の一、恵比寿さまを祀る。(池上の寺めぐりより)

・新編武蔵風土記稿による養源寺の縁起
養源寺

 除地1段7畝8歩、村内にあり。当院は池上本門寺歴代の隠居所にて、彼寺の塔頭なれば開闢の由来等は本門寺塔中に出せり。(新編武蔵風土記稿堤方村項より)

養源寺
 檀林の東の方につきてあり。境内除地518坪。其余山2段5畝27歩は見捨地なり。これらは皆堤方村の地なり。開闢の由来をたづぬるに、松平右近太夫その母養源院、菩提のために建立して、両山十八世日輝上人を開祖とす。これ承応元年のことなり。その時浜竹村にありし長勝山本成寺と云寺院を移して、今の寺号に改めしと云。本尊三宝は日蓮上人の作なり。寺宝に、日蓮の筆一部一巻細字の法華経あり、養源院感得の経文なりといふ。その余にも什寶ありといへり。当院は本門寺歴代の隠居所なり。享保4年11月6日、同6年11月11日、有徳院殿この邊御遊歴のとき、当院御膳所となりしとなり。(新編武蔵風土記稿池上村項より)

出典:猫の足あと


・朗慶山照栄院 旧本山:池上本門寺 法縁:池上柳島法縁
 照栄院、〒146-0082 東京都大田区池上1丁目-31-10


出典;グーグルマップ


照栄院の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-5-16


照栄院の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


出典:グーグルマップストリートビュー


照栄院山門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


照栄院本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


照栄院の本堂を撮影する池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16



照栄院本堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

 以下、照栄院の境内に掲示されている大田区の文化財の概要です。


日朗聖人座像  東京都大田区文化財
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


三宝尊像      東京都大田区文化財
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


南谷檀林「板頭寮」遺構(非公開)     東京都大田区文化財
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


南谷檀林諸堂の棟札     東京都大田区文化財
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


古文書     東京都大田区文化財
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


寺宝 三法尊像  出典:照栄院l公式Web


寺宝 日朗聖人坐像   出典:照栄院l公式Web


寺宝 妙見菩薩立像   出典:照栄院l公式Web

・照栄院の概要
 日蓮宗寺院の照栄院は、朗慶山と号します。照栄院は、正応4年(1291)日朗聖人の庵室として創建、日鏡上人が中興したといいます。寛文四年(1664)には加藤清正の娘瑶林院が、夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して妙見菩薩立像を当院に奉納した他、元禄年間(1688-1704)には当院内に南谷檀林が開設され、檀林所となっていたといいます。大坊本行寺、理境院と共に池上三院家の一つです。

・照栄院の縁起
 照栄院は、正応4年(1291)日朗聖人の庵室として創建、日鏡上人が中興したといいます。寛文四年(1664)には加藤清正の娘瑶林院が、夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して妙見菩薩立像を当院に奉納した他、元禄年間(1688-1704)には当院内に南谷檀林が開設され、檀林所となっていたといいます。大坊本行寺、理境院と共に池上三院家の一つです。

・池上の寺めぐりによる照栄院の縁起
照栄院

 正応四年(1291)日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間(1441-1444)に再興された。元禄二年(1689)南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治二年(1869)に廃されるまで多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文四年(1664)加藤清正の娘瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して奉納したもの。(池上の寺めぐりより)

・新編武蔵風土記稿による照栄院の縁起
南谷檀林照栄院

 南の谷にあり。ここを寺窪と云り。日朗聖人幽栖の跡なり。元應二年正月遷化の後、六十年来紹続する人なきにより、殆ど荒涼に及べり。然るに本山第七世日寿上人のとき、日鏡上人かの日朗師舊蹟の空く泯没せんことをなげき、再び草蘆を興して日朗を開祖とせり。しかりしより此かた十六世にして、本山第二十二世日玄上人のとき、元禄二年四月鎌倉比企谷寶篋堂檀林を此地に移して、南谷檀林と呼び朗慶山立善講寺と号せり。故に檀林の歴代の日玄上人を開祖として、今六十五代にをよべり。三院家のその一なり。

門。南に向ふ前に石階あり。この所より本門寺門前石川流の傍に至るまで数百歩の間は、檀林の門前にて左右に学寮あり。その入る処は西に向ひて常宣坊の門に並べり。

講堂。則照栄院の本堂なり。九間に七間、立善講寺の四字を扁す。本尊釈迦佛及び持国毘沙門の像を安ず。鳥居左京太夫の建立せし所なり。又有章院殿の御位牌を安ず。これは其乳母満智院日景妙徳尼有章院殿御菩提のために檀林相続の料として、黄金そこばくを寄附せしゆへなり。堂の四面に所化年﨟の次第を掲ぐ。開闢以来衆僧つどひて夏冬の講究をこたらずと云ふ。

鎮守堂。東の方山上に在。妙見大士を安ず。傍に書して云。祈請紀伊国大守亜相頼宣卿之、現安後善而奉造立之、于時寛文四年甲辰七月と有。

玄寮。講堂より東南にあたりて山下にあり。檀林の學業を司るもの居れり。

板頭寮玄寮の側にあり。或は板寮とも号す。この寮主すべて檀林寮仲修造以下の俗事つかさどれり。(新編武蔵風土記稿池上本門寺項より)

・照栄院所蔵の文化財
・南谷檀林の棟札(大田区指定文化財)
・南谷檀林「板頭寮」遺構(大田区指定文化財)
・照栄院文書(大田区指定文化財)
・日朗聖人坐像(大田区指定文化財)
・三宝尊像(大田区指定文化財)
・南谷檀林の棟札
・南谷檀林は、元禄期(1688-1704)に池上本門寺に附属する僧侶の学校として二二世日玄によって開設された。
・檀林の施設は、現存する板頭寮のほかに、講堂や学僧の寮等の諸施設が建てられ、整備された寺観を有していたという。
・この「棟札」は、建築、修復の年代等を伝える十三枚が残されており、すべて本尊(大曼荼羅)形式で書かれている。
・これらから、講堂は元禄元年(1688)に建立され、寛政六年(1794)再建され、嘉永元年(1848)に屋根が葺き替えられたこと等がわかり貴重な資料である。(大田区教育委員会掲示より)
・南谷檀林「板頭寮」遺構(大田区指定文化財)
 南谷檀林は、池上本門寺に附属する僧侶の学校として、元禄期(1688-1704)に、本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。

 「新編武蔵風土記稿」によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、談合場、食堂、妙見堂等の施設を備えていた。

 「板頭寮」は、檀林の事務所にあたり、板頭(事務経営の長)の居室でもあった。

 現存している建物は、天保七年(1836)、江戸後期に再建され、池上山内の木を用いて建てられたと伝えられる。

 現在、屋根は草葺きの保護のため上から銅板で覆う等、当院の庫裏(寺の台所、居室)として利用されてきたため、一部改造が行われている。(大田区教育委員会掲示より)

照栄院文書(大田区指定文化財)
・古文書二十七点
・古記録二点
・大曼荼羅三十九点
・勧募講金本尊八点
・絵画七点
・当院は、本門寺二世日朗の庵室で、正応四年(1291)に開創されたと伝えられる。
・元禄期(1688-1704)に、僧侶教育のため池上南谷檀林が開設された。いつのころからか大坊本行寺、理境院と並んで本門寺塔頭三院家の一つとなり、重要な役割を果たした。
・南谷檀林に関する史料をはじめ、貴重な資料が多く伝存している。(大田区教育委員会掲示より)
・日朗聖人坐像(大田区指定文化財)
・木造寄木造、彩色、玉眼、像高五十センチ。
・当院の開山、本門寺二世日朗(1243-1320)の像である。
・像底の銘文により、元和七年(1621)に造られ、本門寺十六世の日樹により開眼されたことがわかる。
・区内に現存する開山像の中でも最古に属するもので、また「不受不施派」の中心人物であった日樹の自筆銘文が書かれた像としても注目に値する。
・近年、補修彩色が行われ、像底の下部が半分ほど塗りつぶされ、銘文が判読できなくなってしまったのは惜しい。(大田区教育委員会掲示より)

・三宝尊像(大田区指定文化財)
・寄木造、彩色、玉眼。
・「南無妙法蓮華経」の題目の宝塔を中央に、その左側に多宝如来坐像、右側に釈迦如来坐像を配置している。日蓮宗の本尊のまつり方のひとつで、一塔両尊と呼ばれる形式のものである。
台座裏に記された銘文によると、天正三年(1575)、月村入道宗観の逆修供養のため造像されたもので、月村家の菩提寺である当院六世日説が開眼したことがわかる。近年まで同家の内仏として伝えられてきた。(大田区教育委員会掲示より)

出典:猫の足あと


 
※ 妙見堂
 実は照栄院のすぐ右隣りには、110段の階段があり、標高33mある池上台地の最上部に通じています。その最上部には、以下の妙見堂があります。下の写真は照栄院の側からあ110段ある階段を見たものです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

 一方、以下は110段上の妙見堂側から照栄院側を見た写真です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

 下の写真は妙見堂です。


妙見堂  出典:妙見堂公式Web

・妙見堂のいわれ
 照栄院は朗慶山と号し日蓮宗に属す池上三院家の一つです。昔は「向林庵」あるいは「南谷檀林立善講寺」とも呼ばれていました。 当院に奉安する開運除厄妙見大菩薩は、寛文四年(1664)に、肥後之守加藤清正公の息女、瑶林院殿が夫君の紀伊国太守亜相源頼宣卿の現世安穏後生善処のために、本門寺へお納めした室町時代の御尊像です。

  元禄2年(1689)、本門寺第22世妙悟院日玄聖人の時代に、それまで鎌倉にあった「宝筺(ほうきょう)学室」をこの地に移し、「南谷檀林」という名の僧侶の学校を作りました。その時一宇を創立してこの御尊像を安置、檀林の鎮守としました。   以来、全国各地から集まって南谷檀林で学ぶ僧侶が朝夕ご宝前に祈請を凝らし、帰依の近在近郷の善男善女も増加して、その霊応妙験は四隣に響き渡りました。

 明治初年に南谷檀林は廃檀となりましたが妙見堂は今に残り、例年、冬至星祭りには、終日読経の妙音が長栄山にこだまし、連なる参詣者に大変賑わいます。 毎月15日がご縁日で、参詣者は、読経唱題に行を積み法話に耳を傾けます。

出典:照栄院公式Web


妙見堂全景
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

 妙見大菩薩を奉安するお堂です。慶応2年(1866)の再建で、明治時代に増築工事が行われました。小さなお堂ですが、銅板の屋根と欅の柱のバランスが大変よくできているといわれます。以下は、その妙見大菩薩についての解説です。


妙見堂の妙見菩薩立像の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16




撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


・覚応山長勝寺 旧本山:小湊誕生寺 法縁:潮師法縁
 〒143-0024 東京都大田区中央6丁目6ー5


出典:グーグルマップ


長勝寺の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


長勝寺の山門にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18



出典:グーグルマストリートビュー


出典:グーグルストリートビュー 


長勝寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18



撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18

・概要
 長勝寺は、正保3年(1646)田中長勝が創建したと伝えられます。新編武蔵風土記稿には、長勝寺二世日言が寛文11年(1671)寂と記載されていますが、これは不受不施派に対する禁令後の世代と思われます。

・「大田区の寺院」による長勝寺の縁起
 寺伝によれば、正保3年(1646)田中長勝により開創された。新編武蔵風土記稿には房州長狭郡小湊誕生寺末で、覚應山と号し、開山日繕、開闢の年代は伝えないが、2世日言が寛文11年(1671)入寂であるから、それほどの古寺ではないとある。(「大田区の寺院」より)

・新編武蔵風土記稿による長勝寺の縁起 長勝寺
 除地1段1畝12歩。八幡宮(現太田神社)の並びにあり。法華宗、房州長狭郡小湊誕生寺末、覚應山と号す。開山陽善院日繕上人、開闢の年代を傳へず。二世日言寛文11年入寂すといへば、させる古寺にはあらず。本尊三宝客殿に安ず。(新編武蔵風土記稿より)

・長勝寺所蔵の文化財
・日樹上人供養塔(大田区指定文化財)
・日蓮聖人坐像(大田区指定文化財)
・日樹上人供養塔

 幕府の施物は、信仰による布施でないとして、これを受けることを拒否し、純信性を唱え、日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした
不受不施派の巨頭、池上本門寺十五世、長遠院日樹(1574-1631)の供養塔である。

 寛永7年(1630)、受側を代表する身延と不受を主張する池上は公庭に対決し、(身池対論)幕府の裁許により池上方は破れ、日樹は信州飯田に流された。
この塔は、日樹の三十三回忌に、近在の信徒集団によって建てられたことが、銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。(大田区教育委員会掲示より)

・日蓮聖人坐像
 木造寄木造り、彩色、玉眼、像高36.7cm。

 本像は台座裏に銘文があり、寛文元年(1661)に杉本七良右衛門と奉加の人びとにより、野口彦右衛門が施主となって造像されたことがわかる。

 開眼の僧は、大野法蓮寺(千葉県市川市)十八世日完上人で、彼は同5年(1665)12月禁教不受不施派のリーダーの一人として、伊予吉田に配流された。

 この像は、もと了性寺の祖師像として造立されたと記されており、この期に了性寺が不受不施派として弾圧をうけたため、同派縁故の当寺に移されたものと推定してよかろう。(大田区教育委員会掲示より)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18

出典:猫の足あと


・法寿山本光寺 
旧本山:池上本門寺 法縁:池上芳師法縁
 現住所 東京都大田区久が原2-19-17


出典:グーグルマップ


本光寺の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


出典:グーグルマップ


本光寺の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


本光寺の山門の前で
撮影:池田こみち Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


本光寺の七面堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


本光寺七面堂
出典:グーグルマップ

 本光寺には七面堂があります。このお堂には七面天女像を安置してあります。七面天女像は元禄12年(1699)5月、紀州家から寄進されています。これは七面堂向拝の鰐口の刻銘によって分かります。

本光寺と七面堂の沿革
 慶長二年(1597)、当地に創建。開山十乗院日能。
 昭和31年本堂改築、庫裡も同年改築、48年七面堂再建改築。
 七面堂の七面天女像及び鰐口は元禄12年に紀州家より寄進された。
 19世・21世聞寿院日篤は池上安立院19世へ、23世摂仙院日栄は三鷹真福寺22世へ、
 26世日宣は本山龍口寺13世へ。


本光寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


本光寺本堂の扁額
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18



本光寺の本堂前の池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


本光寺七面倒
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


本光寺の庭
撮影:池田こみち Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18



出典:グーグルマップ

 雨戸を閉めかけていた若いご住職にお尋ねしたところ、この高野槙は自分が子供の頃にはあったので、少なくとも30年以上は経っているとお話しして下さいました。なぜ、門の前で大きく曲がっているのかについては不明とのこと。とても立派な高野槙でした。


本光寺の高野槇
撮影:池田こみち  Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18



光寺の高野槇
撮影:池田こみち  Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18

※高野槙(Wikiより)
 コウヤマキ(高野槙、高野槇、学名:Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウ
ヤマキ科の日本および韓国済州島の固有種。常緑針葉樹で高木となる。別名ホンマキ。コウヤマキ科は1属1種であり、コウヤマキのみを含む。
 かつては世界中に広く分布していたが、新第三紀では北アメリカで、更新世にはヨーロッパでも滅びて、日本と韓国済州島にだけ残存している。庭園に植栽し、材木としても利用される。世界三大造園木の1つで、木曽五木の1つ。古代には、棺材として最上級とされた。弥生時代や古墳時代には木棺として用いられている。水に強くて朽ちにくいことから、現在でも湯船材や橋梁材として重宝されている。和名は、高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来する。また、高野山では霊木
とされる。

・本光寺の縁起
 本光寺は、十乗院日能上人(慶長14年1609年寂)が開山となり創建したといいます。

「大田区の寺院」による本光寺の縁起
 当寺は池上本門寺12世仏乗院日惺(1550-98)の弟子、十乗院日能が開基した寺である。日能は慶長14年(1609)に没しているから、この頃創建されていることが推察される。以来池上本門寺の末寺となり現在に至っている。

 本堂の南側に七面堂があり、七面天女像を安置してある。この七面天女像は元禄12年(1699)5月、紀州家から寄進されたことが、七面堂向拝の鰐口の刻銘によって知られる。(「大田区の寺院」より)

・新編武蔵風土記稿による本光寺の縁起
(久ヶ原村)本光寺
 除地五段六畝二十二歩、小名家村にあり、法華宗池上本門寺末、法壽山と號す、開山十乗院日能上人慶長十四年二月十四日寂す、本堂六間半に九間半、本尊三寶祖師を安ず、門内東に向ふ、門内に石階十一級あり。

・子安七面堂。
 本堂の北の方にあり、九尺四面、この七面は傳教大師の作にして、身延山に安置する所の像と同體なりといふ。前に鳥居をたつ、又その前に石階二十一級あり。

・八幡社。
 七面堂の南の方山上にあり、二間に三間、身體は長七寸許の木像甲冑を帯して坐せる状なり、村の鎮守なり、勧請の年代を傳へず、社前に石の鳥居及石階七級あり。(新編武蔵風土記稿より)


 
出典:猫の足あと


・法光山善慶寺 旧本山:品川本光寺 法縁:什師法縁
 善慶寺、〒143-0023 東京都大田区山王3丁目22ー16


出典:グーグルマップ


善慶寺の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


出典:Wikimedia Commons


善慶寺の山門の前にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


善慶寺境内から山門を見る
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


善慶寺本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


善慶寺の石仏群
撮影:池田こみち Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


出典:グーグルストリートビュー・衛星写真

・法光山善慶寺の概要
 日蓮宗寺院の善慶寺は、法光山と号し、天正年間(1573-92)に開創したとされています。正応4年(1291)、当地の増田三郎右衛門が、中老僧和泉阿闍梨日法上人(1252-1341)に帰依して善慶寺を創建、以来身延山末でしたが、12世日好の代に品川本光寺末となったといいます。江戸時代までは、山門奥にある山王熊野神社、及び環七を越えた南方にある新井宿春日神社の別当を勤めていました。
境内には、年貢減免を直訴しようとした新井宿義民六人衆墓があります。

善慶寺の縁起
 善慶寺は、正応4年(1291)、当地の増田三郎右衛門が、中老僧和泉阿闍梨日法上人(1252-1341)に帰依して善慶寺を創建、以来身延山末でしたが、12世日好の代に品川本光寺末となったといいます。江戸時代までは、山門奥にある山王熊野神社、及び環七を越えた南方にある新井宿春日神社の別当を勤めていました。境内には、年貢減免を直訴しようとした新井宿義民六人衆の墓があります。

・「大田区の寺院」による善慶寺の縁起
 正応4年(1291)3月28日、増田三郎右衛門が、日法(1252-1341)に帰依して当寺を建立した。11世日円の代までは身延山末であったが、12世日好が勝劣派の教えに従い、品川本光寺末となった。昔は近くの熊野神社、春日神社両社の別当を兼ねたが、三派合同により日蓮宗となる。新井宿六人衆処刑に際し、20世日応は死骸を当寺墓地に葬った。(「大田区の寺院」より)

・新編武蔵風土記稿による善慶寺の縁起
善慶寺
 境内1段4畝12歩、地頭免除、池上往来のかた不入斗村の堺にあり。法華宗、品川本光寺末、法光山と号す。昔当所の人増田三郎右衛門と云者、中老僧和泉阿闍梨日法上人に帰依して当寺を建立す。時に正応4年3月28日なり。其後世々の住僧連綿として身延山の末寺なりしに、第十二世経王院日好上人の時勝劣派の教に帰依し、遂に離末して本光寺の末山となれり。本堂4間四方、本尊三宝及諸尊、四菩薩、四天王、文殊、普賢、不動、愛染、大黒天等の像を安置す。
鬼子母神社、本堂にむかひて左にあり。9尺四方。(新編武蔵風土記稿より)

出典:猫の足あと

 ※ 大田区山王(旧新井宿)の歴史
 かつては文化人や実業家、政治家の邸宅が並ぶ住宅地であった。江戸時代は平間街道(現池上通り)ぞいの宿場町として
新井宿と称した。大森駅前の山側は将軍家の御狩場で低地部は田畑となっていた。明治5年に鉄道が開通し(新橋~横浜間)、大森停車場が開業(明治9年)すると、多くの外国人が移り住み、開発が始まった。明治20年には大森八景園が開業し、京浜の新名所となる。

 なお、新井宿村は正式には武蔵野国荏原郡新井宿村である。
 
出典:Wikipedia


 善慶寺の境内には、新井宿義民六人衆の墓や記念碑があります。

 ※ 新井宿義民六人衆の墓


撮影:池田こみち Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18


撮影:池田こみち Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18

 以下は義民の霊廟です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18

 以下は六士霊位之碑です。


六士霊位之碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpixs 9900 2018-5-18

 ※ 新井宿義民六人衆墓について

 現在の善慶寺のある山王は、江戸時代までは新井宿村(正式には武蔵野国荏原郡新井宿村)と呼ばれ、旗本の木原氏の領地であった。元々当地一帯は湿地帯で、農耕にはあまり適さず、当地の農民は農耕以外にも生計の道筋を立てていかないと暮らしていけない地域であった。

 不正な検地や周辺の他の地域よりも高めの年貢率など既に江戸時代初期には新井宿村の農民は貧窮する一方であったと言われている。

 木原兵三郎重弘が統治していた延宝元年(1673年)、大規模な干魃となり、さらに翌1674年には近隣の多摩川が氾濫、当地の農作物は壊滅的な被害を受け、ついに農民たちは限界に達した。同年と翌1675年に年貢の減免を申し出る訴状(十九ヶ条の訴状。後に写しが東京都指定文化財になる。)を領主宛てに書いたが、却下される。

 1675年12月、村人の代表者である酒井権左衛門(名主)、間宮太郎兵衛、間宮新五郎、鈴木大炊之助、平林十郎左衛門、酒井善四郎の6人が江戸幕府へ直接訴えるべく、江戸へ赴くことを決意する。

 しかし、江戸入り後、あと一歩のところで木原家のものに捕えられる。(木原氏サイドにあらかじめ密告があったという説がある。) 当時、農民が幕府へ直訴するという行為は大罪とされており、彼らは翌1676年の1月に江戸の木原本邸にて斬首刑に処された。

 天下の大罪人となった6人の亡骸は新井宿村でも迎え入れる者はなく、彼らの話をする事さえもご法度とされた。残された遺族にも厳しい処遇が待っていた。

 そのような中、当時の善慶寺住職・日応上人がタブーに近い決断で6人の遺体を引き取った。そして当村の村民・間宮藤八郎が1679年に表向きは自分の父母の墓という形で、密かにこの6人の戒名も書いた墓を建てた。これが「新井宿義民六人衆墓」である。

 その後大正時代から「六人衆」と呼ばれるようになり、六人衆の墓は1931年に東京府により旧跡に指定された。1972年に道路拡張により、現在地に移転。

 現在では、毎年2月11日に六人衆を弔う法要が行われ、地元の人が中心となって多くの人が参列している。

 出典:善慶寺公式Web

 善慶寺は法行山と称し、正応5年(1292)増田三郎右衛門にて建立、中老僧和泉阿闍梨日法上人をもって開基草創となす。大田区山王の地は昔武蔵野国荏原郡新井宿村といわれ徳川の旗本木原氏の領地であった。延宝年間の4代将軍家綱の頃領主の圧政に苦しむ村人を代表し6名の人達が直訴しようと義挙の行為を起こしたが捕らえられ斬首の極刑に散った義民である。1 

義民6人衆霊住法号と俗名

 賢栄信士 間宮新五郎 47歳
 道春 〃 間宮太郎兵衛 39
 宗圓 〃 酒井権左衛門 38
 嘯慶 〃 鈴木炊之助  47
 椿荵 〃 平林十郎左衛門 55
 是信 〃 酒井善四郎   53

御命日 延宝5年1月11日(1677年)
義民6人衆 墓 昭和6年12月2日 東京府史蹟特定          
昭和47年6月8日 境内地に移転
・新井宿村名主惣百姓衆 訴状写し 昭和39年4月28日東京都指定有形文化財
・飼葉桶 6人衆の遺体を運ばれた同志一兵衛の馬 赤・黒二頭使用のもの
・のり甕と古銭 義民6人衆が埋葬されていた甕 昭和47年6月発掘 のり甕 口径78cm 胴回り262cm 高さ80cm  古銭 大観通宝(宋銭)6枚

・時の住職
  第19世 遠妙院日宣上人 延宝4年5月2日 遷化
 証源院日応上人 享保20年5月2日 遷化

 江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで旗本木原氏の知行地であった。 4代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮ははなはだしく、苛酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、19条の訴状(東京都指定有形文化財「新井宿村名主惣

 百姓等訴状写し」を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓6人は、将軍家綱に越訴しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)正月2日密告により捕らえられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現在の千代田区内神田1-2-4)で処刑されたといわれている。

 新井宿義民6人衆による越訴事件は村人の中に語り継がれ、延宝7年(1679)義民と縁故筋に当たる間宮藤八郎が、両親の墓を立てると称して6人の法号を刻んで密かに設立したのがこの墓石である。

 正面に父母の、裏面に6人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取り付けられ、その間をくり抜いて連結し、1ヶ所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。近年の寺域整備により改葬され、その際出土した甕棺と義民6人衆の遺骸引き取りの祭に使役した馬の飼葉桶は境内に展示公開されている。

 平成13年3月31日設置 東京都教育委員会


本稿はこれで終了です!!