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日蓮の足跡を辿る東京の旅
池上本門寺再訪

    
18.日蓮と洗足池

青山貞一・池田こみち・ 斉藤真実
April ~May, 2018  
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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 塔頭① 塔頭とは、本行寺
 塔頭② 実相院、真性院、西之院、厳定院、南之院、理境院
 塔頭③ 覚源院、本成院、本妙院、常仙院、中道院
 塔頭④ 東之院、安立院、法養寺、永寿院、心浄院
 塔頭⑤ 妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺

 ところで、この洗足池も江戸時代、歌川広重により浮世絵に描かれています。以下はその一枚です。何とものどかな水辺風景です! 

 浮世絵の名称は、「名所江戸百景 千束の池袈裟懸松」ですが、千束の池袈裟懸松の意味は、日蓮聖人がこの地(千束池)を訪れた際、自身の袈裟を松の枝に掛けた、にあります。これについては後述します。


広重「名所江戸百景」に描かれた洗足池  名所江戸百景 千束の池袈裟懸松
歌川広重(うたがわひろしげ)(初代)画 安政3年(1856)刊
 出典:Wikipedia

 この洗足池も以下に示すように日蓮聖人に大いに関係しています。また時計回りで一周した最後の場所にある御松庵・妙福寺も同様に関係しています。

洗足池の名の由来

 この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られます。

 由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがあります。

 のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となりました。

 日蓮が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残っています。池の北側の中島には弁才天が祀られています。

 出典:Wikipedia 

 以下は桜広場の南側から妙副寺方面を撮影した写真です。 


妙福寺 境内の松 撮影;池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-4-4


 以下は洗足池の畔にある妙福寺の概要です。これを見ると、洗足池と日蓮の関係が分かります。

◆御松庵と妙福寺(みょうふくじ)
〒145-0063 東京都大田区南千束2丁目2~6


妙福寺の位置  出典:グーグルマップ


妙福寺(みょうふくじ)の山門
出典:Wikimedia Commons


妙福寺(みょうふくじ)の山門
撮影:青山貞一 Nokon Coolpix S9900 2018-4-22

 妙福寺(みょうふくじ)は、東京都大田区南千束2丁目にある日蓮宗の寺院です。旧本山は身延山久遠寺です。

 当寺院の歴史は、もともとは洗足池の池畔にあった鎌倉時代に創建された「御松庵」という庵に由来しています。御松庵は日蓮ゆかりの草庵です。日蓮が1282年に身延山から、武蔵国(現在の東京都)・池上にある池上宗仲の館(現在の池上本門寺)に向かう途中に、近隣の大池(千束池。現在の洗足池)にさしかかりました。

 その際日蓮はここで休憩を取り、傍の松の木に法衣をかけて(後にその松は「袈裟かけの松」と言われました)、池の水で手足を洗った。(これに因んでこの池を洗足池と言われるようになっています。すると、池から七面天女が現れたといいます。後にこのことを記念しようと七面天女を安置するお堂を建てたのが「御松庵」のルーツです。

 一方妙福寺は日慈が、現在の中央区の日本橋馬喰町に寛永年間以前に草創した寺です。しかし、1657年の明暦の大火のなどで本堂などが焼失し、浅草に移転しました。その後、1923年の関東大震災でまたも焼失して、1927年に当地に移転ています。既存の御松庵を合併という形で、再建されました。

出典:Wikipedia


境内と竹林
撮影:青山貞一 Nokon Coolpix S9900 2018-4-22

 下の写真は日蓮上人の袈裟かけの松についての由来です。



袈裟掛けの松の解説  
撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4-4


袈裟掛けの松    
撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4-22


袈裟掛け松の由来 
撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4-4

 ※ 袈裟かけの松の由来

 1254年(建長6年)、安房で法華宗を開いた日蓮は、鎌倉で布教を始めた。
1260年(文永元年)には、天変地異や疫病の原因は、法然の念仏宗や禅宗など
の邪宗を信仰するからであると記した『立正安国論』を北条時頼に提出している。

 それがきっかけとなって迫害を受け、1271年(文永8年)には佐渡流罪となった。
1274年(文永11年)には赦免されるが身延山に隠棲。
 
 1282年(弘安5年)、病気のため常陸へ湯治に行くため身延を下山するが、その
折、日蓮が休息し足を洗ったのが洗足池だと伝えられている。御松庵には、その折、
日蓮が袈裟を掛けたとされる松がある(現在の松は三代目)。

 その後、日蓮は、池上宗仲邸で死去し、身延山に葬られている。 



妙福寺 境内の松 撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4-4

馬頭観世音供養塔


馬頭観世音供養塔の解説 撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4-4


出典:馬頭観世音供養塔(大田区指定文化財) 文、写真を含め


馬頭観世音供養塔
撮影;青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-4-22

 天保11年(1840)に、飼い馬の健康と死後のめい福、交通安全を祈って、地元の馬医師や馬の持ち主らにより建てられました。もとは中原街道と現在の目黒区碑文谷ひもんやから池上に至る道との交差する所に、道しるべを兼ねて建てられていたと考えられます。

寺の主な施設
・祖師堂(旧七面大明神堂)(天保4年(1833年)の築。国の登録有形文化財)
・馬頭観世音供養塔(大田区指定文化財)
・小松稲荷
・日蓮上人袈裟掛けの松(洗足池の名の由来にもなっている日蓮が袈裟をかけたとされる松。(現在では三代目)
・日蓮上人像

 なお、以下は猫の足あとを出典とした妙福寺の歴史、縁起です。

・「大田区の寺院」による妙福寺の縁起


妙福寺(みょうふくじ)の山門     出典:猫の足あと


妙福寺堂宇   出典:猫の足あと

 当寺は千束池の池畔にある御松庵に、浅草永住町(台東区元浅草)にあった妙福寺が移ってきて合併した寺である。御松庵は日蓮に関する伝説がもとになって成立した草庵で、日蓮が弘安5年(1282)に身延山(山梨県)から常陸国の温泉に向う途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館に立寄るため、千束の池にさしかかったとき、池のほとりで休息をし、かたわらの老松に法衣をかけて、池の水で手足を洗った。

 このとき水中から七面天女が出現した。身延七面山頂の湖水にいて、日蓮が身延在山中守護していたが、日蓮が旅立ちをしたのでこれについて道中守護をしてきた旨を告げ、日蓮の読経を受けて消え失せた。その後、このことを記念して、土地の人達が、堂宇を立てて七面天女を安置したのが、御松庵のはじまりであるという。法衣をかけた袈裟掛の松を護る護松堂が建てられ、この堂名から御松庵と呼ばれるようになった。また日蓮が足を洗ったので、この池を洗足池と呼ぶようになったといわれている。

 妙福寺は持法院日慈(寛永6年示寂)が、日本橋馬喰町(中央区馬喰町)に草創した寺であるが、創立の年代は明らかでない。明暦3年(1657)1月18日の大火に罹災し、堂宇は灰燼に帰した。のち浅草永住町に換地を受けて移転し、堂宇を再建した。明治41年(1908)に墓地のみを堀之内(杉並区)に移した。

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、永住町の堂宇は再び焼失した。大正13年(1924)5月に仮堂宇が建設されたが、昭和2年(1927)2月に現在地に移転することがきめられ、同年12月に移転、合併の許可を受け、今日に至っている。(「大田区の寺院」より)

 
 今回、途中から風が強くなり、青山の目に入れてありますコンタクトレンズのなかに砂埃が入りました。そこで妙福寺の境内の一角で風をよけながら、池田が組んできた清浄な水でレンズをゆすいでから装着したことで、事なきを得ました。

 そのあと、3人で大田区区立図書館の脇を通り、洗足駅から大岡山まで行き、環境総合研究所(ERI)のオフィスに戻りました。池上本門寺で買ってきた名物の「葛餅」を、みんなで美味しく頂いて、春の城南桜名所巡りを終えました。


つづく