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円融寺短訪

    

 (東京都目黒区碑文谷)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
23 May, 2018  独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

        
        円融碑  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23

 池上本門寺やその塔頭を訪問、調査し論考を執筆するなかで、青山の自宅(東京都品川区小山)と通勤先の環境総合研究所(東京都目黒区大岡山)の中間点にある円融寺(東京都目黒区碑文谷)の名がたびたび出てきたことから、2018年5月23日、青山、池田で円融寺を訪問しました。

 円融寺の概要は以下の通りです。円融寺は歴史をたどると、もともと仁寿3年(853)に天台宗の寺院として創建された後、日蓮上人の高弟日源上人が日蓮宗に改めました。その後、再度元禄11年(1698)天台宗に改宗、天保5年(1831)経王山円融寺と改号しています。円融寺釈迦堂は、都内では東村山市正福寺地蔵堂に次いで古い建造物です。

 その意味で、円融寺は池上本門寺やその塔頭と関係が深い寺です。


出典:グーグルマップ

 円融寺の地番 〒152-0003 東京都目黒区碑文谷1丁目22番地22号

 以下は円融寺への交通の便です。

□JR目黒駅(西口) 東急バス(3番)大岡山小学校行(01系統) 乗車15分 
 「碑文谷二丁目」下車 徒歩3分
□東京メトロ「西小山駅」  徒歩15分
□東京メトロ「洗足駅」 東急バス 渋谷駅行(71系統) 乗車5分 
  (バス停は駅改札口裏にあります)  「円融寺前」下車 徒歩3分
□渋谷駅(東口ターミナル) 東急バス(52番)洗足駅行(71系統) 乗車約20分〜30分
 「円融寺前」下車 徒歩3分
□東急東横線「学芸大学駅」 徒歩20分

・碑文谷の歴史
 かつてはタケノコの産地として有名であったが、次第に宅地化されています。地名の由来としては、かつての荏原郡碑文谷郷、後の碑文谷村に由来しています。碑文谷の由来には碑文谷八幡宮内稲荷社に保存されている梵字を刻んだ「碑文石」のある谷(里)ないし秘文の谷(里)(「世田谷城名残常磐記」)が起源とするもの、鎌倉・室町期から檜の加工品「檜物(ひもの)」作りが盛んであったことに由来するなど、諸説あります。

  以下は、古地図の荏原郡碑文谷村に見る円融寺です。


古地図の荏原郡碑文谷村に見る円融寺(★印)    出典:目黒資料



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23


出典:『江戸名所図会』にみるかつての圓融寺(法華寺)  長谷川雪旦筆

・円融寺の概要
 天台宗寺院の円融寺は、経王山と号します。仁寿3年(853)に慈覚大師が当地に創建した天台宗法服寺を起源とし、日蓮上人の高弟日源上人が日蓮宗に改め、弘安6年(1283)妙光山法華寺と改号したといいます。

 末寺75ヶ寺を擁し、日蓮宗の名刹寺院として栄えましたが、不受不施派の拠点であったことから江戸幕府の弾圧を受け、元禄11年(1698)天台宗に改宗、天保5年(1831)経王山円融寺と改号しました。円融寺釈迦堂は、都内では東村山市正福寺地蔵堂に次いで古い建造物で国指定重要文化財に指定されている他、数多くの文化財を有しています。関東百八地蔵98番です。

 下は円融寺の境内案内図です。東京都内とは思えない緑と静けさと安らぎがあります。


境内案内図  円融寺の抗意識Webより


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23
 

円融寺の阿弥陀堂(本堂)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23

 旧本堂の後方に高くそびえる雄大な新本堂は、昭和50年(1975年)の建立で、設計者に佐々木嘉平氏、設計顧問に早稲田大学名誉教授工学博士・田辺泰氏をむかえ、
平安朝阿弥陀堂様式に則って建設されました。いまや圓融寺を代表するシンボル的な建築物で、境内の中でも一際異彩を放っています。本尊の阿弥陀如来は、仏像彫刻家の第一人者である松本昇氏の会心の作で、日野法界寺の国宝・阿弥陀如来の様式を模して作られました。大きさは半丈六(約140センチ)で、胎内には経典の他に、発願主である第十八世住職阿純雄の銘と作者の名が納められています。


円融寺の阿弥陀堂  円融寺の公式Webより

 以下は円融寺の釈迦堂です。釈迦堂は国指定重要文化財であり都内では正福寺に次いで古い建造物です。
 

円融寺の釈迦堂  出典:Wikimedia Commons

 仁王門をくぐると正面に、入母屋造りのたおやかな曲線を描いく屋根をもつ釈迦堂が見えます。室町初期の建立とされ、東京都区内最古の木造建築として知られています(都内では東村山市の国宝・正福寺地蔵堂に次いで2番目)。明治44年(1911年)に国の古社寺保存法により国宝に指定され、昭和25年(1950年)に国の重要文化財に指定されました。本来の屋根は茅葺きでしたが、火災予防の見地から昭和27年(1952年)に銅葺きに改められました。しかし、唐様建築の手法に和様を取り入れた優美なすがたは今日もなお残されています。


円融寺の釈迦堂(国指定重要文化財)都内では、正福寺に次いで古い建造物
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23


円融寺の釈迦堂(国指定重要文化財)都内では、正福寺に次いで古い建造物
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-23

 以下は、Wikipedia による円融寺の歴史です。

円融寺の歴史
 
 かつては、妙光山法服寺と称し、天台宗の寺院であった。寺伝では853年(仁寿3年)円仁(慈覚大師)が法服寺を建立したという。


 1283年(弘安6年)日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称した。


 中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数えた。1630年(寛永7年)身池対論には法華寺から日進が臨んでいる。法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされ、1698年(元禄11年)再び天台宗の寺院となった。

 1834年(天保5年)経王山円融寺と改称する。不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧された。日源の法脈は、当寺の改宗をもって完全に途絶えていった。当寺の尊像など、祖師像は妙法寺、三宝尊像は立源寺、釈迦如来涅槃之図は常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺など、所縁寺院に引取られていった。


出典:Wikipedia


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23

・円融寺の縁起
 円融寺は、仁寿3年(853)に慈覚大師が当地に創建した天台宗法服寺を起源とし、日蓮上人の高弟日源上人が日蓮宗に改め、弘安6年(1283)妙光山法華寺と改号したといいます。末寺75ヶ寺を擁し、日蓮宗の名刹寺院として栄えましたが、不受不施派の拠点であったことから江戸幕府の弾圧を受け、元禄11年(1698)天台宗に改宗、天保5年(1831)経王山円融寺と改号しました。

・目黒区教育委員会掲示による円融寺の縁起
 寺伝によれば円融寺は、仁寿3年(853)に慈覚大師によってこの地に開かれた天台宗法服寺がそのはじまりです。

 弘安6年(1283)日蓮上人の高弟日源上人により天台宗から日蓮宗に改宗しました。この時に寺号も妙光山法華寺と改めて、以後400年の間にわたり栄えた名刹でした。しかし、いわゆる不受不施の教義を強く主張したため江戸幕府の弾圧を受けることとなり、元禄11年(1698)に元の天台宗にもどされました。そして天保5年(1831)に山号寺号を経王山円融寺に改め今日に至っています。

 正面に立つ優美な姿の「釈迦堂」(国指定重要文化財)は室町時代初期に建てられたもので、東京都23区内では最も古い木像建築です。

 境内には他に、寛永20年(1643)に鋳造された「梵鐘」(国重要美術品)、仁王門(区指定文化財)に安置されている木像金剛力士立像(都指定文化財)や、日源上人の事績が刻まれている日源上人五重石塔(区指定文化財)などがあり、また本堂には中世宗教史研究上貴重な歴史資料である「円融寺板碑」(区指定文化財)があります。(目黒区教育委員会掲示より)

出典:猫の足あと

・円融寺所蔵の文化財
 ・釈迦堂(国指定重要文化財)都内では、正福寺に次いで古い建造物
 ・木像金剛力士立像(都指定文化財)
 ・仁王門(目黒区指定文化財)
 ・梵鐘(国重要美術品)
 ・日源上人五重石塔(目黒区指定文化財)
 ・円融寺板碑(目黒区指定文化財)
 ・仁王門(目黒区指定文化財)


円融寺の梵鐘     出典:円融寺公式Web


円融寺の梵鐘     出典:円融寺公式Web


円融寺の梵鐘(国重要美術品)

 仁王門に向かって右手に建つ鐘楼は平成元年記念事業で再建されました。その際、旧鐘楼の屋根の中から木札が発見されました。それによると、旧鐘楼は寛延四年(1751年)5月24日、中興代五世鑑古和尚の代に再建上棟され、願主は弟子の仏国心浄、助発願主は江戸麹町合羽屋二兵衛、大工棟梁は尾山村原田清右衛門であったことが分かります。

 仁王門は二間一戸、八脚、入母屋造、茅葺(現在は銅板葺)で、用材は主に欅と檜を使い、和様に唐様を取り入れた建築様式で、細部の虹梁、蟇股、懸魚などにも彫刻的装飾が多く施されています。
中央通路両脇に安置されている木造金剛力士像(都指定文化財)は、永禄2年(1559鎌倉扇谷大蔵法眼の作といわれ、簡素な中に力強さを秘めており、「黒仁王さん」または「碑文谷の仁王さん」として親しまれ、江戸時代末期に多くの人々の信仰を集めました。

 仁王門は木造金剛力士像の製作とともに建築されたものと推定され、部分的には中世的性質も残していますが、しかし寛文期(1661-1673)から元禄期(1688-1704)にかけての様式的特徴が見られることから、現在の仁王門は近世になって大改修が行われたものと考えられます。(目黒区教育委員会掲示より)


円融寺の仁王門  出典:Wikimedia Commons

 参道から階段を登ると、目の前に仁王門があらわれます。仁王門は檜と欅を用いた簡素な構成ながらも、唐風に和風を取り入れ、虹梁、蟇股、懸魚などにも様々な装飾が加えられています。建立時期ははっきり分かりませんが、永禄2年(1559年)に仁王像が作成されるのとほぼ同時期と考えられます。ただし江戸時代の寛文期(1661−1672)と永禄期(1688−1703)の間に大改修が行なわれたため、足利時代の面影はほとんど残っていないと思われます。茅葺きだった屋根は、2007年に銅葺きに改められました。


円融寺の仁王門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23


円融寺の仁王門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-23



円融寺の仁王門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-23



円融寺の仁王門の側面にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23



円融寺の仁王門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-23


・日源上人五重石塔
 総高は約4.4メートル。碑文によると、日源上人の追善供養のため寛永13(1636)年に建立され、その後文化11年(1814)に再興されている。この石塔は、軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石が高く、そのため雄大な五重塔となっている珍しい例である。各軸石には、上から「妙」「法」「法」「華」「経」と刻まれ、最下層の軸石には出来や造立者などが刻まれている。(目黒区教育委員会掲示より)

円融寺板碑
 板碑とは、生前の安楽と死後の往生とを祈願するために建てられた石製卒塔婆で、円融寺にあるものは、すべて緑泥片岩製の題目(南無妙法蓮華経)板碑である。年号のあるものは14世紀から16世紀のもので、最古のものは文保2年(1318)と刻まれている。題目板碑だけを多数所蔵する所は少なく、いずれも円融寺が法華寺として栄えていた頃の資料として貴重なものである。(目黒区教育委員会掲示より)

出典:猫の足あと


 下は日源聖人五重塔です。

 仁王門をくぐった左手に、小さな五重塔のような石塔があります。これは
圓融寺の前身である日蓮宗法華寺の開基日源上人(〜1315)の供養塔です。五重石塔といえば笠石(屋根の形をした石)が重なったような造りのタイプが一般的ですが、この石塔は大変珍しく、軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石の一つ一つに高さがあるため、高さ約4.4メートルという雄大な塔身をほこっています。各軸石には上から「妙」「法」「蓮」「華」「経」と刻まれています。

 また最下層の軸石には、造立の縁起が記されており、それによると、供養塔の建立時期は、寛永13年(1636年)8月で、遺骨が塵土に託しているのを惜しんで建てられた経緯が刻まれています。この時期は日蓮宗法華寺代十世日瑞上人の頃にあたります。

 さらに法華寺が天台宗に改宗されると、この供養塔は再び荒廃がすすみ、文化11年(1814年)7月16日に当寺に参った十方庵釈敬順の記録によると、茫々たる草中に苔むして、上部の三重は崩れて側に転がっていたそうです(『遊歴雑記』より)。

 しかし、供養塔の銘文には、同年8月に天台宗法華寺の第14世住職海順法印と村民たちによって再興されたとあるので、釈敬順が訪れた半月ほど後に今日見えるような五重塔に修復されたことが分かります。

 昭和55年(1980年)には、目黒区指定文化財になりました。


日源上人五重石塔   出典:円融寺公式Weg

 下は、園融碑です。

 
日源上人五重塔の手前にある大きな石碑は、文化功労賞者の豊道春海(豊道慶中)氏の筆によるものです。中央の「融」の字を○で囲み、右端に「無礙天真」と書かれています。「圓」は、まるく、あまねく、尽きないという意味で、「融」は、とけこむ、やわらぐという意味があります。また「無礙」とは妨げのないことをいい、「天真」とは天から与えられた人間の純粋な本性のことです。したがって「圓融無礙天真」とは、天から与えられた人間の自己本来の姿は何事にも妨げられることがなく、大宇宙の中に融け入って自由であるという意味です。 出典:円融寺公式Weg


園融碑  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23



円融寺の山門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23


山門までの参道
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-23