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米軍基地と公共工事
のまち沖縄県,
関係者インタビュー
辺野古への普天間基地移設問題
浦島悦子氏

宇都宮朗、青山貞一
武藏工業大学大学院 環境情報学研究科

2007年12月15日

転載禁


 武蔵工業大学大学院環境情報学研究科修士2年の宇都宮朗さんの研究「在日米軍基地及び公共事業の環境・財政への影響に関する研究〜沖縄県を事例として〜」の一環として、2007年2月青山、宇都宮、坪根の3名で沖縄県への現地調査を行った。この現地調査は、何はともあれ現場を見ることに重点をおいた。

 そして2007年11月29日から12月2日にかけ、同じメンバーで沖縄県に3泊4日の現地調査に出かけた。今回は研究テーマに関連する調査、研究、活動をしている者、首長などの行政関係者、環境保全に係わるNPO・NGOなどに直接会い、話しを伺うとともに議論を行った。

2007122(日) 14:00〜15:00
場所:名護市辺野古港
テーマ:名護市辺野古への普天間基地移設問題
ヒヤリング対象:フリーライター 浦島悦子氏


浦島悦子さんへのインタビュー調査

辺野古は元々、貧しい地域であり、過疎が進む地域である。基地問題が最初に起こった時、住民はあまり乗り気ではなかった。

 沖縄県の西側に比べ、過疎が進み貧しく、西側の人々は辺野古に対して、関心がなく住民投票をしても賛成するのではないかという不信感があった。反対運動を通して、西側の人々との交流が生まれ、西側の人々も基地の建設には反対だということがわかり、運動も広がっていき、不信感が払拭されていった。

沖縄県の南北問題は、南の那覇市を中心に豊かであり、北は貧しいという面があり、東西では西側はリゾート地であるが、東側はそのような観光地はない。辺野古地域は、南北格差と東西格差のすべてを背負っているために経済差別がある。嫌なものが全て押し付けられている。住民はそれに対する怒りを持っていた。

名護市との合併後、名護市全体の廃棄物の最終処分場が建設された。さらに基地までもが押し付けられようとしている。辺野古ではなぜ、名護市と合併したのかという意見すらある。(1970年、名護町・羽地村・久志村・屋部村・屋我地村の5町村が合併し、名護市になる)名護市との合併で、軍用地料が名護市にも入り、西側の人々のために使われていた。基地を抱える地域への恩恵が少ないと不満がある。

 部落の有力者、発言力のある人は基地移転の賛成派に多かった。11人の声を聞くと基地移転に反対であるが、その声が反映されることはない。

 沖縄の米軍基地は、戦時中に日本軍が使っていた飛行場や基地を米軍が接収したものや暴力的に土地を取り上げた所もあるが、キャンプ・シュワブは戦後、約10年経ってできたもので、「唯一、住民が受け入れた基地」と言われている。

 しかし、必ずしも住民は受け入れたわけではない。「暴力的に米軍に土地を接収されるのを見せ付けられ、それならば条件付で基地を受け入れる方が」という意見から、キャンプ・シュワブができた。基地の建設に伴い、沖縄本島・離島から仕事を求め、人が集まり、辺野古周辺の部落は以前より大きくなり、そういう意味での米軍きちの恩恵もあった。

 同時に訓練など基地による被害も受けてきた。キャンプ・シュワブと周辺部落とは身近であり、米軍と住民の間でのコミュニケーションもとってきた。今の基地はいいが、新しい基地建設には反対であるという姿勢である。

 
199712月、名護市では辺野古への基地移転の是非を問う住民投票が行われた。賛成は37.19%しかおらず、住民の過半数は反対という結果であった。しかし、名護市長が選挙結果を無視し、基地建設の受け入れを表明した。反対運動を続けてきた人たちには、この精神的なダメージ、いくらがんばっても駄目だという思いを与えることとなった。


浦島悦子さんと一緒に。

 血と汗の結晶を一言で無駄になってしまった。いくら反対の行動を起こしても、声を聞き入れられないことから、反対運動が衰退していった。気持ちでは基地建設反対であるが、住民にはどうしようもないと思いが強まっていった。行政の方としては、反対住民を手懐けようとして、住民投票の頃から地域振興補助金が、
10の集落に年6000万円、1つの集落に平均600万円が入るようになった。

 そのお金は部落の首長や役員の給料に上乗せや住民に少しずつ還元されてきた。それにより、じわじわと補助金に蝕まれてきた。新しい基地には関係なく今あるキャンプ・シュワブの迷惑料として、各公民館が防衛庁予算で新設された。政府は、お金貰うと言い難くなる状態を作っていった。

 部落の首長たちは、「気持ちはあくまでも反対であるが、いくら反対しても国が強行する。だから、強行された時のために条件付賛成として、もらえるものは取っておく。」という意見になっていった。お金と暴力的に圧力によって、反対運動を衰退させ賛成せざるおえない事態に切り崩されていった。