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スコットランド独立の背景

(2)ローマ帝国時代

青山貞一 Teiichi Aoyama

September 5 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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※独立系メディアの<スコットランド>スレッド

 スコットランドの歴史は先史時代にさかのぼるが、ここでは、文字の史料があるスコットランドの時代、すなわちローマ帝国のブリタニア侵攻から始めたい。

 それは、有名なローマ帝国がブリテン島に侵攻してきた時代にさかのぼる。ブリテン島とは、現在、スコットランドやウェールズ、イングランドがあるグレートブリテン島と呼ばれている島である。
 
 ローマ帝国がスコットランドやイングランドに侵攻、支配していた時代の遺跡、史蹟はブリテン島には沢山存在している。

 2012年7月の私達の現地視察では、ハドリアヌスの長城と呼ばれるそれらの遺跡、史蹟も視察した。 以下はローマ皇帝・ハドリアヌスの長城について書いた私たちのブログである。

 今でも<ハドリアヌスの長城>の大部分はスコットランドとイングランドの境界線上に存在し、世界遺産として保存されている。遺跡は誰でも見学でき以下のように写真も自由に撮影できる。

<参考ブログ>
※ 青山貞一・池田こみち:ローマ皇帝・ハドリアヌスの長城


◆ローマ帝国のブリテン島支配    参考出典:Wikipedia

 ローマ帝国のブリテン支配以前のスコットランドを伝える唯一の史料は、紀元前325年にマッサリア、現在のマルセイユのギリシャ人ピュテアス(Pytheas)によるブリテン島探検の手記だけである。

 ローマ帝国のグレートブリテン島(現在のイギリスが存在する島)への侵攻は、紀元43年に始まる。

 ローマ軍はイングランドにあたるグレートブリテン島南部地域を征服したのち、将軍グノイウス・ユリウス・アグリコラは西暦79年、グレートブリテン島北部のスコットランドに侵攻した。

 カレドニア(スコットランドの先祖)の先住民たちは激しい抵抗をみせた。しかし、ローマ帝国は82年〜83年に艦隊をスコットランド北部のオークニー諸島にまでスコットランド沿岸に展開して威嚇し、84年のモンス・グラウピウスの戦いでスコットランドの先住民であるカレドニア人を破った。
 
 そしてアグリコラ将軍の部下たちは、グレートブリテン島全土の平定を宣言した。その後、約300年にわたってローマは当地を支配しつづけることになる。

 さらに、300年の間に、ローマは防御線を建設し異民族からの防御をかためた。最古のものはパースシャーのガスク・リッジとよばれるもので、70年代から80年代にかけて建設されたと考えられている。

 120年代、ローマ皇帝ハドリアヌスは、タイン川からソルウェイ河口にかけて、ハドリアヌスの長城の建設を命じた。

青山貞一:ローマ皇帝の歩いた道〜末路を見つめたハドリアヌス

 私たちは、下の地図の西端にあるカーライルから東端のニューキャッスルまで半日かけ視察している。


ハドリアヌスの長城の位置(カーライルからニューキャッスルまで)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25


プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスの誕生
出典:NHK「ローマ皇帝の歩いた道 後編-末路を見つめたハドリアヌス」

 20年後、ブリタンニア総督ルリウス・ウルビクスがアントニヌスの城壁と呼ばれる長城を、さらに北に建設した。

 下図にあるようにアントニヌスの城壁はハドリアヌスの長城の半分の長さしかなく、その短さが防御に適していると考えられたが、結局その防御線を維持しえたのはわずか20年にすぎなかった。

 アントニヌスの城壁の右端は現在のスターリングに近い位置くの湾奥であり、エジンバラにも近い。


アントニウスの長城とハドリアヌスの長城の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 下は現在のスコットランドに残るハドリアヌスの長城の一部である。万里の長城になぞらえ、ハドリアヌスの長城と呼ばれている。


現在のスコットランドに残るハドリアヌスの長城の一部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


残存するハドリアヌスの長城
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2012-7-25


下部が土に埋もれたハドリアヌスの長城
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012-7-25

 160年ごろにはローマの北端はふたたびハドリアヌスの長城まで後退し、ローマ人たちはカレドニアの直接支配を諦めた。

 理由は、人口密度が低すぎて徴税効果が上がらないであろうこと、および気候・風土がローマ人に合わなかったことなどであったと考えられている。

 これについては、以下の青山の論考をご覧いただきたい。


つづく