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ヒマラヤ山岳の国と地域
Nation and Entity in Himalayan Range
序説Forward
青山貞一
掲載月日:2013年12月10日、更新:2021年10月17日, 更新:2024年2月17日
独立系メディア 
E-wave Tokyo


シッキムのユムタン河渓谷を通るユメソンルート。 出典:Wikimedia Commons
ヒマラヤ山岳の国と地域
序説 ブータン ザンスカール
アルナーチャル プラデーシュ ネパール カラコルム山脈
チベット カシミール フンザ渓谷
シッキム チベット亡命政府 ワハーン回廊
青山貞一・池田こみち:チベット少年の亡命生活を描いた「オロ」鑑賞記

 世界の屋根、ヒマラヤ山岳地帯には、小さな国や地域がたくさんあります。それらは私たち日本国民には、あまりなじみのない地域や国といえます。

 しかし、いずれの国、地域にも、数1000mの山脈や高原、谷と湖など世界的に見ても秀逸で希有な自然と文化があります。またチベット仏教やヒンズー教のふるさとでもあり、多くの宗教建築物やその文化、生活を見ることができます。

 一方、これらの国や地域をめぐってチベット、中国、カシミール、シッキム、パキスタン、インドなどによる国境紛争、地域紛争、内戦などが頻繁に勃発し繰り広げられ、人々はそれらに翻弄されながらも慎ましやかな生活と崇高な精神文化のもとで生活を営んできたといえます。

 本論考では、ウィキペディアの情報、トリップアドバイザーの写真、グーグルマップの地図をもとに、それらの日本国民にあまり知られていないヒマラヤ山岳の国と地域を紹介します。また行き方、費用についても情報提供します。


ヒマラヤ山岳の国と地域  Source:Wikipedia をもとに青山作成

 以下の出典はWikipedia

自然

 ヒマラヤ山脈の植物相と動物相は、気候、雨量、高度と地質によって分類することができる。 気候は山脈の麓にある熱帯から始まり、氷床と雪に覆われた高山帯まで変化する一方、年間降水量は西より東の地域の方が多い傾向がある。 気候、高度、雨量と地質の複雑な変化が多様な生態系を育んでいる。

 以下はヒマラヤ山脈地域の植生、地形、地質区分である。

・テライ・ベルト(Terai belt)

・ババール・ベルト(Bhabhar belt)

・山地森林帯(Montane forests)

・高山帯 (Alpine shrub and grasslands)


プレートテクトニクス

 インド大陸は6000㎞以上を移動し、4000万年から5000万年前にユーラシアプレートと衝突したヒマラヤ山脈は地球上で最も若い山脈の一つである。現代のプレートテクトニクス理論によると、ヒマラヤ山脈はインド・オーストラリアプレートとユーラシアプレートの間の沈み込みで起きた大陸同士の衝突による造山運動から生じた。

 衝突はおよそ7,000万年前後期白亜紀に始った。そのころ、インド・オーストラリアプレートは15 cm/年の速度で北上し、ユーラシアプレートと衝突した。


インド大陸は6000㎞以上を移動し、4000万年から5000万年前に
ユーラシアプレートと衝突した 出典:Wikipedia

 約5,000万年前、このインド・オーストラリアプレートの速い動きによって海底の堆積層が隆起し、周縁部には火山が発生してインド亜大陸とユーラシア大陸の間にあったテチス海を完全に閉ざした。 これらの堆積岩は軽かったので、プレートの下には沈まずにヒマラヤ山脈を形成した。 今もインド・オーストラリアプレートはチベット高地の下で水平に動いており、その動きは高地に更に押し上げている。 ミャンマーのアラカン山脈とベンガル湾のアンダマン・ニコバル諸島もこの衝突の結果として形成された。かつて海だった証拠として、高山地帯で貝などの化石が発見される。

 今もインド・オーストラリアプレートは67 mm/年の速度で北上しており、今後1,000万年の間でアジア大陸に向って1,500 km移動するだろうと考えられている。 この動きのうち約20 mm/年の分は、ヒマラヤの南の正面を圧縮することによって吸収される。 結果として約5 mm/年の造山運動が発生し、ヒマラヤ山脈を地質学的に活発にしている。 このインド亜大陸の動きにより、この地域は地震の多発地帯となっている。


氷河と河川

 航空機から見たヒマラヤ山脈。いたるところ氷河に覆われている。

 ヒマラヤ山脈には有名なシアチェン氷河を含む非常に多くの氷河が存在し、面積は極地を除く地球上では最大である。他に主な氷河としては、ウッタラーンチャル山系のガンゴートリー氷河、ヤムノートリー氷河、カラコルム山系のヌブラ氷河、ビアフォー氷河、バルトロ氷河、シッキム山系のゼム氷河、エベレスト山系のクーンブ氷河などがある。

 ヒマラヤ山脈の麓は熱帯気候や亜熱帯気候に属するが、頂上部は万年雪に閉ざされている。これらの万年雪は巨大な2つの河川の水源となっている。

 西への流れはインダス盆地に流れ込む。インダス川はその西方水系の中で最も大きな河川である。インダス川はチベットでセンゲ川とガル川の合流地点から始まり、ジェーラム川、チェナーブ川、ビアス川、サトレジ川などの河川と合流、パキスタンを南西方向に横切り、アラビア海に流れ込んでいる。


ブータンの氷河湖  出典:Wikipedia

 インダス川方面以外のヒマラヤ山脈の水源の多くはガンジス・ブラマプトラ川流域に流れ、両河川に合流する。ガンジス川はヒマラヤ南麓にあるガンゴートリー氷河に流れを発するバギーラティー川を源流としている。氷河の下からバギーラティー川が流れ出す地点はゴームク(牛の口)と呼ばれ、標高3892mである。

 その後、下流でやはりヒマラヤから流れ出したアラクナンダ川と合流し、そこからガンジス川という名に変わる。アラクナンダ川のほうが長いが、ヒンドゥー教の文化や神話ではバーギーラティー川のほうが真のガンジスの源流であるとみなされている。その後、リシケーシュで山脈から離れ、ヤムナー川と合流したあと、北インドのヒンドスタン平原を南東に横切る。


国際宇宙ステーションから撮影したヒマラヤ山脈、チベット高原から南方を見た時の図。エベレストが中央付近に見える。 出典:Wikipedia

 ブラマプトラ川は、西チベットに発するヤルンツァンポ川が、チベットを東に流れ、アッサム平野を西に流れていく。ガンジス川とブラマプトラ川は、バングラデシュで合流し、世界最大のデルタ地形を形成して、ベンガル湾へ流れ出ている。

 ヒマラヤ最東部の河川はエーヤワディー川を形成している。エーヤワディー川は東チベットから始まり、ミャンマーを南に縦断、アンダマン海に流れ込む。

 サルウィン川、メコン川、長江と黄河は、ヒマラヤ山脈とは地質学的に区別されるチベット高原から始まるので、本来はヒマラヤ山脈を水源とする河川ではないと考えられている。一部の地理学者は、ヒマラヤ外縁水系の川と分類している。

 近年、ヒマラヤ山脈の全域で顕著な氷河後退現象が観測されているが、世界的な気候変動の結果であると考えられている[7]。この現象の長期的な影響は未知であるが、乾季の生活を氷河を水源とする北インドの河川に頼る数億の人々に甚大な影響を与えると見られている。


湖沼

 北シッキムに数百ある湖のうちの一つ。この湖の高度は約5000mである

 ヒマラヤ山脈には何百もの湖が点在している。大部分の湖は5,000 m未満の高度に存在し、高度が上がるとともに湖の規模は小さくなっていく。

 最大の湖はインドとチベットの境界に横たわるパンゴン湖で、4,600 mの高度に位置し、幅8 km、長さは134 kmに及ぶ。

 高い標高を持つ湖沼のなかで顕著なものとしては、標高5,148 mにある北シッキムのグルドンマル湖がある。そのほかの主な湖沼としてはシッキム州とインドシナの境界にあるツォンモ湖などがある。


北シッキムに数百ある湖のうちの一つ。この湖の高度は約5000mである
 
出典:Wikipedia

 氷河活動に起因する湖沼はタルン (en:tarns) と呼ばる。タルンは5,500 m以上のヒマラヤ山脈の上部で見つかる[9]。


ヒマラヤの地政学と文化

 巨大なヒマラヤ山脈は、何万年もの間、人々の交流を妨げる障壁となった。 特にインド亜大陸の民族と中国・モンゴルの民族が混ざり合うのを妨げ、これらの地域が文化的、民族的、言語的に非常に異なっている直接の原因となった。

 ヒマラヤ山脈は軍の進撃や通商の妨げともなった。たとえば、チンギス・カンはヒマラヤ山脈のためにモンゴル帝国をインド亜大陸に拡大することができなかった。


ヒマラヤ山岳の国と地域  出典:グーグルマップ

 急峻な地形と厳しい気候によって、孤立した地域が生まれ、独特の文化が育まれた。これらの地域では、現代でも交通の便が悪いため古い文化・習慣が根強く残っている。

 ヒマラヤに大きな影響を与えているのは、北のチベット系民族と南のインド系民族である。山脈の大部分はチベット系民族の居住地であるが、南からやってきたインド系民族も低地を中心に南麓には多くすむ。チベット系民族の多くは山岳地域に住み都市文明を持たなかったが、ネパールのカトマンズ盆地に住んでいるネワール人は例外的に肥沃な盆地に根を下ろし、カトマンズ、パタン、バクタプルの3都市を中心とした都市文明を築いた。

 カトマンズ盆地は18世紀にインド系民族のシャー王朝によって制圧されたが、ネワールは力を失うことなく、カトマンズなどではネワールとインド系の文化が重層的に展開した姿が見られる。カトマンズ以外のネパールはインドと文化的なつながりが強く、チベットともややつながりがあるが、中国文化圏との共通性はほとんど無い。

 宗教的にも仏教徒は少なく、ヒンドゥー教徒が多く住む。これに対し、その東隣にあたるシッキムやブータンはチベット文化圏であり、住民は仏教徒がほとんどである。

 しかし19世紀以降、地理的条件の似ているネパールからの移民が両国に大量に流入し、シッキムにおいてはネパール系が多数派となり、ブータンにおいても一定の勢力を持つようになった。これは両者の対立を引き起こし、この対立が原因でシッキムは独立を失い、ブータンでも深刻な民族紛争が勃発することとなった。

  ヒマラヤ地域に広く分布するチベット民族は顔つきこそモンゴロイドだが中国文化圏との共通性は低く、インド文化圏とも共通性は少ない。チベットは古くからその孤立した地形によって独立を保ち、独自のチベット文化圏を形成している。


The Himalayas between India and China illustrated in the Jami' al-tawarikh
歴史書『集史』に描かれたインドと中国の間のヒマラヤ  Source: Wikipedia

注)Jami' al-tawarikh(『集史』)
 イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅令(ヤルリク)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。(Wikipediaより)

 ヒマラヤ西部のパンジャーブ・ヒマラヤではイスラム教圏の影響が強い。カシミールはイスラム系住民が多数を占める地域である。カシミールの北にあるラダックは19世紀よりジャンムー・カシミール藩王国領となっていたが、もともとチベットとのつながりの深い地域であり、住民もチベット系民族であって宗教もチベット仏教である。

 その西はパキスタン領のバルティスターンであるが、この地域は歴史的にラダックとつながりが深く住民もチベット系であるが、宗教はイスラム教であり、インド・パキスタン分離独立の際起きた第1次印パ戦争ではパキスタン帰属を選択した。

 ヒマラヤ東部ではインドや中国文化圏の影響を受けるがそれほど強くはない。西部に比べると地味が良く食糧事情がいいので、少数民族が多く存在する。中には日本やベトナムの文化・言語と強い関連性を持つ民族もいる。


宗教

 ヒンドゥー教においては、ヒマラヤはヒマヴァット神として神格化されており、雪の神としてマハーバーラタにも記載されている。彼はガンガーとサラスヴァティーの二人の河の女神の父であり、またシヴァ神の妻であるパールヴァティーも彼の娘である。

 ヒマラヤの各地には、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、仏教、イスラム教の施設が点在している。

 著名な宗教施設としては、ブータンにはじめて仏教をもたらしたパドマサンバヴァによって建設された僧院とされているパロのタクツァン僧院などがある。


ブータンのタクツァン僧院。「虎の巣」との異名でも知られている 
出典:Wikipedia

 チベット仏教の僧院の多くは、ダライ・ラマの本拠を含むヒマラヤに位置している。チベットにはかつて6,000以上の僧院があった。チベット人のイスラム教徒もおり、ラサとシガツェにはモスクが建設されている。


チベットのラサにあるポタラ宮  出典:Wikipedia


政治情勢

 ヒマラヤの20世紀後半の政治情勢は、南北の2大国である中国とインドの影響力拡大と角逐の歴史であるといえる。ヒマラヤ北麓のチベットは清朝時代から中国の影響下にあったが、半独立状態を保っていた。しかし1950年の中国のチベット侵攻により完全に中国領となり、1959年にはチベット動乱によってダライ・ラマ14世がインドへと亡命し、ヒマラヤ南麓のダラムシャーラーにチベット亡命政府を樹立した。


ダライラマ 14世
Source:His Holiness the Dalai Lama Responds to the Passing Away of Nelson Mandela

 一方、南麓のインド側ではイギリス領インド帝国の支配のもと、ジャンムー・カシミール藩王国などいくつかの藩王国が存在し、また中国との間の緩衝国としてネパールとブータンが独立国として存在し、また両国の間にはシッキム王国がイギリスの保護国として存在していた。しかしインドで独立運動が盛んになり、1947年8月15日にインド・パキスタン分離独立がおこると、各地の藩王国はどちらかへの帰属を迫られるようになった。

 ジャンムー・カシミール藩王国は藩王がヒンドゥー教徒であるが住民の80%以上はイスラム教徒であり、藩王が態度を決めかねる中イスラム系住民が蜂起してパキスタン帰属を要求。これに対し藩王はインドの介入を求め、これが引き金となって第一次印パ戦争が勃発した。この戦争の結果、カシミールはインド領のジャンム・カシミール州とパキスタン領のアーザード・カシミールとに分断されることとなった。

 その後、インドと中国はカシミール北東部(アクサイチン地区)やマクマホン・ラインなどの国境線をめぐって対立を深め、1962年には中印国境紛争が勃発した。この戦争で中国人民解放軍は勝利してアクサイチンやインド東北辺境地区を軍事占領し、東北辺境地区からは撤兵したもののアクサイチンは実行支配下に置いた。

 この戦争ののち、インドはヒマラヤ地域への影響力を強化していく。1975年には先住民のブティア・レプチャ系(チベット系)と移民であるネパール系の間で政治的対立の生じていたシッキム王国を制圧し、シッキム州として自国領土へと組み入れた。さらに1987年には直轄領であった係争地・インド東北辺境地区をアルナーチャル・プラデーシュ州へと昇格させ、支配を強化した。

 この動きを見たブータン王国は自国のアイデンティティの強化に乗り出し、1985年には国籍法を改正するとともに、1989年には「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施して自国文化の振興に努めるようになったが、これはブータン南部に住むネパール系住民を強く刺激し、民族間の衝突が繰り返され多数の難民が流出することとなった。


第5代国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク
Source:English Wikipedia 

 一方、ネパールにおいては民主化運動によって1991年に複数政党制が復活したものの、一向に進まない国土の開発に不満を持ったネパール共産党統一毛沢東主義派(マオイスト)が1996年に武力闘争を開始。

 さらに2001年6月1日にはネパール王族殺害事件が発生し、ビレンドラ国王が殺害されてギャネンドラ国王が即位した。ギャネンドラは専制的な政治スタイルをとって国勢の回復をめざしたが、国民の不満は高まる一方で、国土のかなりの部分をマオイストに征圧される事態となった。2006年には王制が打倒されて民主化され、マオイストとも和平が成立し、2008年には正式にネパールは共和国となった。

 上記の出典はWikipedia

ヒマラヤ山岳の国と地域
序説 ブータン ザンスカール
アルナーチャル プラデーシュ ネパール カラコルム山脈
チベット カシミール フンザ渓谷
シッキム チベット亡命政府 ワハーン回廊
青山貞一・池田こみち:チベット少年の亡命生活を描いた「オロ」鑑賞記

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