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Eソレント歴史・文化の魅力の源泉
History of Sorrento
青山貞一 Teiichi Aoyama
 2008年3月8日
青山貞一 南イタリア短紀行  ソレント
@ソレントでフェラーリ
Aソレントから見たヴェスヴィオ
Bソレントの夕日
Cサンタニェーロからソレントへ
D秀逸なソレントの伝統工芸
Eソレントの歴史文化魅力の源泉
Fソレント半島西端のカントーネ

 ここでソレントの歴史について概観してみよう。

 ソレント市長がイタリア旅行情報サイトJAPAN-ITALY Travelの「市長が語る我が町観光自慢」で話している内容と、現地で撮影した写真などをもとに、ソレントのまちの歴史を概観したい。

 
ソレントでは切り立った海岸線、まさに息を呑むような美しい眺望、景観のパノラマが訪れる人を魅了する。それは青い空と紺碧の海に浮かんだような町だ。


切り立った海岸線の眺望・景観が人々を間違いなく魅了する海岸線
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10

 
伝説によれば、ソレントの海の中には、美しい歌声でユリシーズを誘惑しようとした妖精たちが住んでいたという。だが、誘惑に失敗して失望した彼女たちは岩礁に姿を変えた。

 それが現在のソレントからナポリ湾一帯にあるガッリ諸島になったと言いつたえられている。いわばホメロスの時代からソレントはひとびとの想像をかきたてるロマンチックな場所として知られていた。

 まず、ソレントは古い歴史のある場所だ。

 ソレント岬のニコルッチの洞窟には、先史時代に人が住んでいた跡が残っている。ナポリやソレント半島など、イタリアのカンパーニア州に居住した古代民族アウソーニア人によって築かれたソレントのまちは、ギリシア文明の影響を強く受けている。

 それは今でもパルサーノ港やマリーナ・グランデ港の都市設計の名残を見ることができまる。その後、ソレントはエトルリア人、オスク人、ローマ人に支配された。

 町の中心地にある主要道路の構造は古い時代のものを残している。また、町の守護聖人サンタントニオにささげた美しい教会がある。その側面の扉には古代寺院にあった円柱が2本使われている。サン・フランチェスコ教会の回廊にも同様のものが見られる。


ソレントの守護聖人、サンタントニオ像。タッソ広場の真ん中にある
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10

 ソレントは古代ローマの詩人ホラティウスなどに理想的な別荘地として褒め称えられた。ティベリウス皇帝の時代には、多くのローマ人たちがカプリを離れてソレントに住居を構えた。

 古代ローマ時代につくられた海沿いにある7つの別荘のうち、カンパーニア州に残る一つがポッリオ・フェリーチェの別荘である。海から、あるいはソレント岬から続く小道を通って別荘に行くことができまる。海岸線に沿って広がるこの古い別荘跡は当時の輝きを今に伝えている。

 常にバカンスの目的地だったソレントには、多くの詩人、作家、芸術たちが訪れた。

 ノルウェーの劇作家イプセン、ゲーテ、スタンダール、バイロン、ディケンズ、ニーチェ、ワーグナー、アナトール・フランス、トルストイ、アレッサンドロ・デュマ、ゴーリキなどなど、ここでインスピレーションを得た人たちは数多くいる。

 また、イタリアの有名な詩人トルクワート・タッソはこの地の出身である。海岸沿いには、1800年代のホテルを今でも見ることができる。

 ソレントを知るには歩いて散策することをおすすめしたい。

 マリーナ・グランデ、マリーナ・ピッコラ の漁村、ソレント港などを訪れ欲しい。

 ソレントの歴史的中心地としてはピエタ通り、サン・チェザレオ通りなど高地に位置した部分が最も古い場所である。ピエタ通りは古い地図では町の主要道路だったが、1861年にイタリア通りCorso Italiaがつくられた際に現在の姿になった。


1861年に建造されたというイタリア通りCorso Italiaに面するサンタニェーロの教会
ソレントを後にする2月25日、午前5時に撮影

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10


実は赤いフェラーリが走るこの道もイタリア通りCorso Italiaソレント駅近くで。
この部分は舗装されているが、サンタニェーロのイタリア通りは、今なお石畳みである。
撮影:青山貞一、デジカメ Nikon CoolPix S10


 ピエタ通りにはコッレアーレ館、ヴェニエーロ邸など、1700年代の貴族の住居が並んでいる。サン・チェザレオ通りには、アンジュー王朝時代につくられた門の台が残っています。スキッツァリエッロ広場には貴族たちが集まっていた場所が残っている。


タッソ広場の一角にある中世以前?の建造物
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10

 ソレントの歴史的中心地には「はめ木細工博物館」もある。また、ヴィッラ・フォンディには最近数十年の間に発見された考古学遺跡が展示されている。さらに、タッソ劇場でナポリの伝統音楽を楽しむことができる。

 ソレントから水中翼船に乗れば、カプリ島に15分で行くことができる。ポンペイ、アマルフィ海岸へ行く出発点にもなっている。また、ソレントの海洋公園は保護地域となっており、古い小道を散策するのがよいだろう。」

出典:イタリア旅行情報サイトJAPAN-ITALY Travel市長が語る我が町観光自慢  


 市長さんによるソレントの歴史の話しで、とりわけ感激するのは、イプセン、ゲーテ、スタンダール、バイロン、ディケンズ、ニーチェ、ワーグナー、アナトール・フランス、トルストイ、アレッサンドロ・デュマ、ゴーリキなどなど、ここでインスピレーションを得た人たちは数多くいたことだ。

 いずれも世界の希有そして秀逸な文学や音楽史に登場するひとびとばかりである。

 実は後述するアマルフィ海岸のラベッロなどを散策しているとワグナー通りなど、上記の文学や音楽者の名前が付いた道路や場所がある。

 なお、ソレントの中心地としてタッソ広場がある。この名の由来にトルクァート・タッソ(Torquato Tasso)がある。

 そのタッソは、ソレントで1544年に生まれ1595年に他界した16世紀のイタリアの著名な叙事詩人である。 タッソはエルサレム時代の第一回の十字軍遠征が終わるき、クリスチャンとイスラム教徒の間の戦闘を想像的表現した著作を残している。


トルクァート・タッソ(Torquato Tasso)
出典:資料画像

 タッソの詳細はこちら(英文)

トルクァート・タッソ(Torquato Tasso)

 
ソレントに生まれる。

 彼の父(Bernardo T,1493−1569)も詩人であった。パドヴァ大学で法律を学んだがやがてこれを断念し、1562年に叙事詩『リナルド Rinardo』を出版。

 フェラーラの枢機卿ルイジ・デステに仕え、1573年に牧歌劇『アミンタ Aminta』および叙事詩の傑作『解放されたエルサレム La Gerussalemme liberata』(1575年)を書いた。

 ルイジに従い1571年にフランスに赴き、詩人ロンサールに会う。帰国後エステ家のフェラーラ公アルフォンソ2世に仕え厚遇される。

 このころ大いに名声を博し、多くの模倣者を出した。公の妹レオノーラを恋し多くのソネットを捧げている。しかし『解放されたエルサレム』の内容が異端と見られることを恐れ、一部を書き改めたが、そのことを心痛し精神に異常を来し、公によって1577年に幽閉された

 。一度脱出したが再び聖アンナ病院に収容され、7年間を過ごした(1579年−1586年)。退院後ゴンザーガ家のマントヴァ公ヴィンチェンツォのもとに赴いたが、さらに流浪を続け詩作した。

 晩年、教皇クレメンス8世が彼を桂冠詩人に叙せんとしてローマに招聘したが、それに先だってローマの聖オノフリオ修道院で没する。その数奇な生涯はゲーテをはじめとして多くの作家の題材とされた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 アマルフィ海岸地域に行くとさらに顕著となることだが、シチリア島はじめソレントからバーリまでの南イタリアでは、モスリム、イスラム教の影響が建築物、建造物はもとより、生活から文化に至るまで、その痕跡が随所に大きく残っている。

 具体的には9世紀にはイスラム勢力が北アフリカからシチリア島に侵入した。831年にパレルモ(現在シチリアの州都)は陥落し、965年にシチリア全島がイスラムの手に落ちることになる。

 イスラム王朝の首都はパレルモに移され、この町には絢爛たるイスラム文化が花開いた。当時のパレルモの人口は30万に達し、モスクの数は300余、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して中世ヨーロッパには見られぬ繁栄を極めていた。

 シチリアだけでなくソレント半島など南イタリアには、その痕跡がある。たとえば、南イタリア南プーリア州アンドリアのサンタ・マリア・デル・モンテの近くに位置するデルモンテ城(Castel del Monte)はモスリムの痕跡といえる。


デルモンテ城(Castel del Monte)
出典:資料画像

 この城は軍事上でも居城でもなく別荘または客をもてなすために使用されたと考えられている。

 Wikipediaによれば、
1240年頃、シチリア王フェデリーコ1世(シチリア王としては1世だが、神聖ローマ皇帝としてフリードリヒ2世またはフェデリーコ2世として有名)によって建てられた。

  その後長い間放置され1876年にイタリア国家の所有となり1928年から修復が始まった。デルモンテ城は現在、世界遺産に登録されている。


デルモンテ城(Castel del Monte)の平面図
出典:資料画像


 私見だが、なぜソレントやアマルフィがかくも訪れる人、それも日本人ばかりか欧州の人々をも魅了するかの理由は、おそらくイスラムの影響にあると思う。

 この地では、ローマやバチカン、ミラノにはない歴史と文化、すなわちキリスト教徒イスラム教の融合から生まれ出た文物、精神文化があるのだろう。


 それが私たちを魅了し、魅惑するのである。

つづく