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西千仏洞(百度百科4)

(West Thousand Buddha Caves,中国甘粛省敦煌市)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日  更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

◆西千仏洞(百度百科4)

洞窟紹介

西千仏洞第7窟


出典:中国 百度百科

 この窟は、北魏時代に建設されたもので、西千仏洞で現存する最も古い洞窟です。洞窟の平面は四角形で、莫高窟の北魏時代につくられた中心に塔柱のある窟とよく似ています。前面にあった、杉綾葺きの屋根は既に破壊されています。 

 後部は窟に直結しており、その天井には中心塔柱が立てられ、塔柱のまわりには仏教信徒が右回りに周りながら礼拝できる通路があり、上方には平らな格天井が作られていて、中心塔柱の4面それぞれに仏壇が設置され、その内外には塑像が多く設置され清時代に修復されましています。

 正面の仏壇(龕)には、腰掛けた姿の仏像があり既に切断されて居ましたが、唯一、北魏時代原作の塑像が残されていました。その仏像は、両肩は丸く、袈裟を身体にまとい、(龕)から漏れて見える身体の輪郭はゆったりとしていて、衣には彫り込みで浅い階段状に滑らかに流れるような襞をつけています。

 塑像づくりの表現手法は西域様式と中原式(中華文化の発祥地である黄河の柱下流にある平原を指す)の両方の特徴を持ち、これは北魏早期の曹衣出水や秀骨清像のような、洗練された風格を持つ過渡的な代表的作品の一つといえます。

 この窟の壁画のレイアウトは、莫高窟の北魏洞窟と同じで、上、中、下の三段に分かれていて、上部の寺院内の格天井には人・蝶・鳥などが軽快に舞う様々な姿が描かれ、天宮で活発に音楽を楽しむ様子が描かき出されています。

 中央部の広い面には、一面に千仏が描かれ、下部には力強く誇張された荒々しい金剛力士像が描かれています。洞窟内の壁画の風格は莫高窟と同時期の壁画と同じく、人物の造型は健康的で力強く、適度な大きさで、西域スタイルの服飾をまとっています。それらは、西域式の凹凸のある濃淡のある(隈取りのある)染色方法で、人物の顔の表現や果等の立体感を出しており、色彩は素朴でどっしりと重みがあります。ラピスラズリ(石青)、孔雀石(石緑)などが、下着の土紅色の下地の色に映えて、荘厳で熱烈に見え宗教的な雰囲気を強く醸し出しています。

 注)曹・呉二体の曹衣出水 コトバンク
  中国,北斉の曹仲達と盛唐の呉道子の2人が取上げた仏画のスタイル。前者の
  仏像は着衣が体に密着し,あたかも水中から出てきたように見え「曹衣出水」と
  呼ばれ,後者の衣服は風に翻るように見え「呉帯当風」と呼ばれた。このスタイ
  ルは唐,宋時代に仏画家が準拠すべき画体とされたが,前者の描線は鉄線描 (→
  十八描法 ) 形式,後者のはやや肥痩を伴う遊糸描であったと推測される。また
  墨線で描き軽く着彩した「呉装」と称する画風は,北宋から南宋初めに盛行した。

 注)「秀骨清像」と「曹衣出水」について  中台世界博物館Webサイトより
  (前略)
  朝の晋・梁時代に於いて異文化と中国の伝統的な中原文化を融合させて一体化
  させた、新しい漢風の審美基準を表す様式と巧藝手法を前面に押し出した新しい
  表現法が、載逵の生きた晋・梁の南朝時代から段々と大衆の中に広がって、首が
  細くて全身が流麗で仏の面相は深思しながらも端正で洗練された風格を持つ「秀
  骨清像」に見出される様な、芸術的な風格を表現した仏像の制作を促進して花開
  き始めた。南朝の教養ある士大夫階級の人々の社会的・文化的に高い水準の好み
  を中心にした、華人大衆の新しい心情や漢風の流麗で洗練された好みを、仏像を
  含めた芸術作品類上に影響させて表現したいという自然な心理的要求を反映した
  仏像や絵画が現れ始めた。華夏の両文化が融合し一体化されて、その一体化され
  た融合体の上に、「儒・仏・道」の三つの精神的・社会的・文化的な要素が結合
  した華人の美的感覚と芸術性を中心に制作された芸術重視の社会的な傾向と結び
  合って、新しい中原文化を産み出したのである。(後略) 

 注)褒衣博带(ほういはくたい)
  大きな裾の服と広い帯のことで儒者の服のこと。また、儒者や学者、文人のこと。
  「褒衣」は裾の大きい服のこと。

西千仏洞第19窟

 此の窟は五代時代に建設され、洞窟の形は比較的独特で、垂直な壁に円形の天井となっています。正面には大きな仏壇(龕)があり、その中には、腰掛けた姿の本尊があり、これは西千仏洞の中でも保存状態が最もよい窟で、五代時代の彩色された塑像が残されています。

 その仏像の身体は丹精に整い、表情は厳かで恭しく、肌は豊満で丸く、衣服は質素で色彩は清楚で上品、十分に唐時代の彫像の特徴風格を現しており、東西両側の壁には像を載せる台があり、当初は十六羅漢像が設置されていましたが、現存しているのは十三体のみとなっています。これらは、敦煌石窟の中で唯一、塑像の形で十六羅漢を題材として表現したものです。

 歴史資料の記載によると南朝の張僧繇(ちょうそうよう)、唐時代の廬楞伽や王維、その他の画家たちが十六羅漢を描いたとされています。しかし、五代時代にいたるまで、その十六羅漢音の壁画と塑像な中原エリアではもてはやされませんでした。この窟の十六羅漢像の出現は、敦煌仏教芸術と中原地区の仏教芸術が基本的に同一歩調で発展してきたことを示すものです。

 この窟の壁画はすべて五代時代にオリジナルが描かれたもので、正面の壁の仏壇(龕)には仏の十大弟子、六菩薩、天龍八部(仏法を守護する八神)、四天王などが描かれています。東西両方の壁には天井から下まで、すべて羅漢像が描かれており、敦煌石窟の中でもこれほど多く羅漢像が壁画と塑像両方で描かれたものはみられません。そのため、この窟は専門家により、羅漢堂と呼ばれています。

 注)張僧繇(ちょうそうよう) コトバンク
  中国,南朝,梁の画家。呉県 (江蘇省蘇州) の人。顧 愷之 (こがいし) ,陸
  探微と並ぶ大家で,諸大寺の壁画に腕をふるった。画法は西域から伝来の立体画
  法で,一乗寺に描いた凹凸花は遠くから見ると目がくらむほどの立体感があった
  という。大阪市立美術館蔵『五星二十八宿図巻』は彼の絵の模本と伝えられるが
  確証はない。
   武帝に仕え多くの寺廟の壁画を描いた。色のぼかしにより立体感を出す手法を
  用いた。生没年未詳。

交通情報

 敦煌市からタクシーで西千仏洞前まで行くことができます。

ホテル情報

 敦煌莫高窟ホテルは、1990年10月にオープンし、2005年2月に部分的に改修されました。6階建てで客室数は全84室、スタンダードが15㎡の広さです。

 ホテルは、敦煌市中心部から500mほど離れており、車で5分です。ただし、鉄道駅からは105kmあります。空港からは15km、車で20分ほどです。長距離駅からは0.5kmほどの距離です。

食事 

 魚と野菜の炒め物が美味しい

買物

 敦煌は瓜の名産地で、甘くて美味しいメロンや葡萄を生産しています。十分な日照が高品質の果物をつくります。杏や桃なども美味しく、以下のような高級品の銘柄があります。

 李廣杏、紫陽桃、鳴山大棗、陽関葡萄、沙瓤西瓜、白蘭瓜、黃河蜜瓜、冬果梨、蘋果等です。観光客は食べてみて非以上に驚きます。こうした人気を背景に最近敦煌では各種のくだもので、ドライフルーツ製品をつくり販売しています。これらのドライフルーツ製品を観光客は手軽に持ち帰ることが出来ます。


視察1へつづく