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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

高昌故城

(Gaochang ruins、新疆ウイグル自治区トルファン市)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月〜6月
独立系メディア E−wave Tokyo
 無断転載禁


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出典:青山貞一・池田こみち 2019 シルクロードの今を往く 

 次はトルファン市の高昌故城です。

高昌故(新疆ウイグル自治区・トルファン市)

 下は玄奘三蔵が説法を説いたと伝えられる高昌故城。 玄奘三蔵がインドへの旅の途中に滞在したことでも知られる高昌国の王城。後に唐によって滅ぼされ、今では風化した遺跡だけが残っている。


出典:阪急交通社

 以下の出典はWikipedia。

 高昌(こうしょう)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区・トルファン市に存在したオアシス都市国家である。元・明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)、「火州」、「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。


廃墟広場の北にある高昌(こうしょう)礼拝堂(モスク)の遺跡
( 42.854278° 89.527360° )
Source:Wikimedia  Commons


高昌遺跡、南西側の大仏教寺院
Source:Wikimedia  Commons


高昌古城遺跡
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


高昌古城遺跡
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


高昌遺跡トルファン市新疆中国
Source:Wikimedia  Commons


講堂、内部。 広大な精舎、高昌、新疆
講堂の内部は今日部分的なドームによる屋根を付けた側面にアーチ型壁龕のある
オープンスペースとなっている。唐時代のその外観は異なっていたかもしれない。
これはおそらく、玄奘三蔵が西暦628年に高昌を訪れたときに教えた場所である。
Source:Wikimedia  Commons


高昌古城遺跡
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900


高昌遺跡、南西側の小寺院。
Source:Wikimedia  Commons

吐魯番(トルファン)に至るまでの歴史

 756年に起こった安史の乱の後、唐の支配力が低下し、840年には漠北(タクラマカン砂漠北部)の天山ウイグル王国の支配下となる。宋の建隆年間、高昌のウイグルが朝貢している。明の永楽年間には中国側から火州と呼ばれ、1409年、1413年にも朝貢している。1414年には明の陳誠がこの地に派遣されている。明の英宗年間に吐魯番に併合された。

宗教
 天神を祭る一方、仏法も信奉する。五胡十六国時代にはゾロアスター教も流行したが、仏教が最も重要な宗教だった。道教も一時的に影響を与えている。

 高昌は玄奘三蔵の西域求法の発着点でもあった。630年に玄奘が出発した時は、文泰に歓待され、城内には50余りの寺院が存在した、と、『大唐西域記』に記している。その後、640年、玄奘がインド遊方の後に帰着した時には、高昌は既に滅んだ後であった。そのため、『大唐西域記』に記す際に、玄奘は「高昌故地」という表現を用いた。


 北周の時代の城数は16で、隋代では18、唐代になると21または22となる。

高昌城
 ルファン市街地の東40kmの所にあり、城址遺跡「高昌故城」として残っている。面積は200万平方キロメートル、周囲は5キロメートルで、外城上、内城、宮城の3つの部分からなり、建築物は破損が激しく、荒涼とした風景が広がる。

交河城
 高昌国の王都であり、かつての車師前王庭である。現在も「交河故城」として遺跡が残る。田地城…かつての戊己校尉所治であり、1万人の兵士が常駐していた。現在も高昌古城として遺跡が残る。

白棘城
 高昌を去ること160里の地点にある。


つづく