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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

ドゥカーレ宮殿1
(Palazzo Ducale)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

ドゥカーレ宮殿1

 下はグーグルマップで見たドゥカーレ宮殿の位置です。サンマルコ寺院のすぐ隣なりになります。


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ

 下は海側から見たドゥカーレ宮殿の写真です。


海側から見たドゥカーレ宮殿
Source: Wikipedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 これはサンマルコ広場からみたドゥカーレ宮殿です。


サンマルコ広場から見たドゥカーレ宮殿
Source: Wikipedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンク


ドゥカーレ宮殿(イタリア語: Palazzo Ducale、英語: Doge's Palace)の概要

 ドゥカーレ宮殿((イタリア語: Palazzo Ducale、英語: Doge's Palace))は、ヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁であった建造物。8世紀に創建され、14世紀(1309年)-16世紀にかけて現在の形に改修されました。

 サン・マルコ広場に面して建造され、運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれている。外観はゴシック風のアーチが連続し、イスラム建築の影響も見られる細やかな装飾が施されています。
  
 現在内部は、ヴェネツィア市民美術館財団(MUVE)の運営する美術館の一つとして公開されています。


View of Piazzetta San Marco toward Grand Canal of Venice, at dawn, with
Doges' Palace on the left and Biblioteca Marciana on the right. The two
columns are, from left to right, Saint Mark's, protector of the city,
and Saint Theodore's.
夜明けのカナル・グランデ(大運河)に向かってサンマルコ広場の左側にドゥカーレ
宮殿、右側にマルシアナ図書館があります。奥にある2つの列柱は、左が街の保護者
であるセント・マーク、右側がセント・セオドアです。
Source: Wikipedia Commons
Public Domain, Link


ドゥカーレ宮殿の歴史

 810年に、元首アニェロ・パルティシパツィオ(Agnello Participazio)はマラコッコ島から現在のリアルトの地域に政府の中心を移しましたが、そのときはまさに、ドゥカーレ宮殿(“ducal palace”のラテン語)が作るべきであると決心した時でした。しかし、宮殿は10世紀に火災に見舞われ部分的に破壊されため、当初の9世紀の建物の痕跡は今は残っていません。

 その後の再建工事は元首セバスティアーノ・ツィアニ(Sebastiano Ziani:1172年-1178年)の命令により行われました。偉大な改革者であった彼は、サンマルコ広場の全体的なレイアウトを劇的に変えることになったのです。新しい宮殿は要塞から作られました。1つはピアツェッタ(Piazzetta)のファサードであり、もう1つは聖マルク湾を見下ろす建物です。

 宮殿の痕跡はわずかではありますが、1階にはイストリア風の石造りの壁の土台といくつかのヘリンボーン型(杉綾模様)のレンガ舗装などとともに、ビザンチン - ベネチアン建築の特徴がいくつか残っています。


ドゥカーレ宮殿
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 March 2006

 13世紀半ばの政治的変化により、議会の議員数がかなりの増加したため、宮殿の構造を再考する必要性が生じました。主にラグーンに面した建物に焦点を当てた新しいゴシック様式の宮殿の建築は1340年頃に始まりました。1424年、元首ジェ・フランチェスコ・フォスカリ(Francesco Foscari)は建て替え作業をピアッツェッタを見下ろす棟に拡大し、法廷としても機能させ、外側には1階にアーケード、1階のファサードにそってロッジアが設置され、建物にそった中庭をしつらえ、布告門(ポルタ・デラ・カルタ:1442)の建設で完成しました。

注)ロッジア(Wikipedia)
 ロッジアは、イタリアで生まれた建築意匠の一種を指す言葉で、ファサードに一方の側が外に開かれた廊下を配し、一定間隔の柱で支持するか、単に壁に開口部を設けた形状のものである。開廊、涼み廊下とも。地上階にある場合は回廊とも呼ばれるが、上層階に配する場合もある。

 1483年、元首の住居があった運河を見下ろす宮殿の脇で激しい火事が発生しました。またしても、重要な再建が必要になり、建物の建築には、新しいルネッサンス様式を導入したアントニオ・リッツォ(Antonio Rizzo)が任命されました。運河沿いに建てられた新しい建造物は、カノニカ橋(Ponte della Canonica)からパリア橋(Ponte del Paglia)まで伸びていて、政府の公的な部屋には、ヴィットーレ・カルパッチョ(ヴェネツィア派の画家)、ジョルジョーネ(盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家)、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ(15世紀に活躍したイタリア出身の画家)、ジョバンニ・ベッリーニ(イタリアルネサンス期の画家)らに依頼した作品が飾られています。

 1547年に発生したもう1つの大規模な火災により、2階の一部の部屋は破壊されましたが、幸いなことに全体としての構造を損なうことはありませんでした。 しかし、1577年に3回目の火事がおきて、投票室(Scrutinio Room)と議会棟(Great Council Chamber)が焼失し、そのときに一緒にジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano)、ピサネロ(Pisanello)、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ(Alvise Vivarini)、ヴィットーレ・カルパッチョ(VittoreCarpaccio)、ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini)、ポルデノーネ(Pordenone:本名Giovanni Antonio de' Sacchis)、そしてティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Titian)らの作品も焼失してしまいました。

 その後の再建作業では、影響力のあるルネッサンス建築家アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio)による新古典派の代替デザインの提案があったのですが、オリジナルのゴシック様式を尊重することが決定されました。しかし、いくつかの古典派の特徴を見ることができます - 例えば、16世紀以来、宮殿は「ため息橋(Ponte dei Sospiri)」で刑務所とつながっていました。


ドゥカーレ宮殿の図面、14世紀後半
Drawing of the Doge's Palace, late 14th century
Source: Wikipedia Commons
Public Domain, Link

※ため息橋(Wikipediaより抜粋)
 ため息橋(溜息の橋, Ponte dei Sospiri )とは、16世紀に架けられたヴェネツィアの橋の1つである。白の大理石で造られたこの橋には覆いがあり、石でできた格子の付いた窓が付けられている。Rio di Palazzoを渡り、ドゥカーレ宮殿(写真左手)の尋問室と古い牢獄(写真右手)を結んでいる。
 ため息橋からの眺めは囚人が投獄される前に見るヴェネツィアの最後の景色であった。ため息橋という名前は、独房に入れられる前に窓の外からヴェネツィアの美しい景色を見られるのは最後であるというので囚人がため息をつくというところから、19世紀にジョージ・バイロンが物語詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』の中でBridge of Sighsと呼んだのが初めである。実際には、厳しい取調べや略式の刑執行は橋が建設された頃には無くなっており、宮殿の屋根の下の独房も専ら短期刑の囚人のものであった。
 現在は、ヴェネツィアの観光名所となっており、ドゥカーレ宮殿のそばで海側のバリア橋(Ponte.Paglia)がため息橋を眺めるスポットとして有名な他、1つ内陸の橋(写真の奥に見える橋)からも見ることができる。また、牢獄も公開されており、ドゥカーレ宮殿からため息橋を渡って、外の景色を眺めることも可能である。


 ドゥカーレ宮殿は、元首公邸であるだけでなく、1797年に都市がナポレオンに
占領されて町の役割が必然的に変わるまでは、宮殿がヴェネツィア共和国の政治
の中心的な役割を果たしてきたのです。ヴェネツィアは最初にフランスの支配を
受け、その後オーストリアの支配を受け、そしてついに1866年にイタリアの一部
となりました。この間、宮殿は様々な行政機関が占拠していたただけでなく、国
立マルチャーナ図書館(Biblioteca Marciana)や市内の他の重要な文化施設も
占領されていました。

 19世紀の終わりには、建物自体は明らかに衰退の兆しを見せていました。そこで、イタリア政府はその修復のために多額の資金を確保し、役所関連のオフィスをあちこちに移動させましたが、歴史的遺跡保護のために州政府の建物はそのまま、今も宮殿の元首の建物に残されています。1923年に、建物の所有者であるイタリア国政府は、博物館として運営するため、管理をベネチアの地方自治体に委ねました。1996年以来、ドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア美術館ネットワークの一部となり、2008年以降は、ヴェネツィア市立美術館群財団(Fondazione MuseiCivici di Venezia)の管理のもとで維持されています。

※ヴェネツィア市立美術館群財団公式サイト http://www.visitmuve.it/en/home/
ヴェネツィアの11の美術館を網羅し、約70万点以上の作品を収蔵しその維持管理にあたっている財団。


ドゥカーレ宮殿2 つづく