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シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

コッレール美術館2
(Museo Correr)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆コッレール美術館(Museo Correr)2

コッレール・コレクションからベネツィア市民博物館へ

 新しい作品のいくつかは、複数の重要なヴェネチアの家族から寄贈されたコレクションでした。その中には、モーリン家(Molin)、ゾッペッティ家(Zoppetti)、ティロニ家(Tironi)、サグレド家(Sagredo)、そしてチコーニャ家(Cicogna)などがあり、寄贈された作品には貴重な絵画、マヨリカ焼きの陶器類、硝子作品、そしてブロンズ作品なども含まれていました。1887年、さらに増大化したコレクションがコッレール宮から近くのトルコ人商館に移され、新たな展示としてレイアウトされました。しかし、1922年、コッレール美術館は再び現在のサンマルコ広場に移動したのです。

 1990年代、市民博物館のシステム全体が再編成され、すべてがひとつの博物館として管理されるようになりました。1996年、イタリア文化省との協定のお陰で、聖マルコ広場博物館券が開始され、コッレール美術館だけでなく、ドゥッカーレ宮殿(Doge's Palace)や国立考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale)、そして国立マルチャーナ図書館の記念碑のような巨大な部屋(MonumentalRooms of the Biblioteca Marciana)にも入ることが可能となりました。そして最終的に2008年3月、コッレール美術館は、ヴェネツィア市民博物館財団の一部となったのです。

美術館


One of the decorative rooms in the Museo Correr, a museum in San Marco, Venice.
Source:Wikimedia  Commons
CC BY-SA 4.0, Link

 サンマルコ広場の端までを取り囲む建物は、ナポレオン時代の棟として知られています。建物の設計と初期の建築工事は、ヴェニスがイタリア王国(1806-1814)の一部であった時期からのもので、当時、ナポレオンは副元首ユージン・ド・ボーハルネ(Eugene de Beauharnais)に総督代理をさせていました。広場の長さにまで広がった2つの長い棟は、ベネチア共和国の主要な何人かの個人の事務所と住居を収容していた旧行政館(Procuratie Vecchie)と新行政館(ProcuratieNuove)です。

 ヴェニスの町がナポレオンの支配下となった時、フランスの皇帝とその廷臣は帝国の権力を公に代表する者が、ある種の物流上および政治上の問題を提起していたことに気づきました。複雑な過去があって、ドゥカーレ宮殿を拒絶したため、広場の南端に沿ってサンマルコ財務官(Procurattie di San Marco)のかつての住居である新行政館(Procuratie Nuove)に戻りました。

 1582年にヴィンセント・スカモッツィ(Vincenzo Scamozzi)によって設計されたこの構造そのものは、当時、サンマルコ広場の改造のための巨大なプロジェクトを完成させるためのものであり、16世紀半ばにサンソヴィーノ(Sansovino)によって始められたものでした。

 1586年~1596年の間にサンソヴィーノ図書館(Sansovino's Library)の向こう側まで延びた10のアーケードの工事は完成し、さらに1640年頃にバルダッサーレ・ロンゲーナ(Baldassarre Longhena)によって新行政館(ProcuratieNuove)の残りの部分も完成しました。そして、この建物が1807年1月までに、ナポレオンが皇帝の宮殿とすると命じた建物でした。

 新行政館のすべての内装は、新古典派様式を反映したものに造り替えられました。同時に、聖マルク教会の反対側に建っている、ジュゼッペ・ゾーリ(GiuseppeSoli)とロレンゾ・サンティ(Lorenzo Santi)の設計によるナポレオン時代の棟(Naporeonic Wing)は、宮殿に内包されました。

 1814年にヴェニスがオーストリアの支配下に入った時、宮殿は1815年までハプスブルグ家の皇帝フランシス1世が住居として使用していました。

 1866年、ヴェニスが統一イタリアの一部となった後、宮殿はサヴォイ家に譲られました。1919年、イタリアの王ヴィクトール・エマニュアル3世(Victor EmmanuelIII)は、教育省として使用するため宮殿の建物を国に引き渡しました。その後、1920年には国立考古学博物館として利用され、その後、1922年にはそれ以外の部分がコッレール美術館の拠点となりました。

新古典派宮殿とカノーヴァ・コレクション


Ballroom 大広間
Source:Wikimedia  Commons
CC BY 3.0, Link

 控えの間(前室)は、サンマルコ広場の向こう側にあるナポレオン美術館に通じています。舞踏場(ボールルーム)、玉座の間、宴会場で構成されており、アントニオ・カノーヴァ(Antonio Canova)の作品を展示している宮殿の公共エリアの中核となります。
 

コッレール美術館3つづく