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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

マルコ・ポーロ(Marco Polo)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆マルコ・ポーロ(Marco Polo)


マルコ・ポーロのポートレイト
Source:Wikimedia  Commons
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 マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』 ( 写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』 もしくは 『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもあります。

概略

 マルコ・ポーは商取引を父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロに学びました。

 1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅します。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されますが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となりました。

 1299年に釈放された後、マルコ・ポーロは豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれました。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会に埋葬されました。

 マルコ・ポーロの先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成されました。またクリストファー・コロンブスなど多くの人物に刺激を与えました。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジにも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作されています。

注)クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus、1451年頃 - 1506年5月20日)は探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人。定説ではイタリアのジェノヴァ出身。大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達した。

生涯

幼少時


 マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測です。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものです。

  生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれていいます。

  生家は代々続く商家で、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつありました。 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着きました。

 政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かいました。

 『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているといいます。 この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育されました。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わりましたが、ラテン語を履修する機会は持てなかったようです。




マルコポーロの旅の行程
Source:Wikimedia  Commons
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 1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会いました。そして1271年後半に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発しました。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅でした。

 彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入りました。マルコは兵士として志願し従軍しましたが、ジェノヴァに捕らえられました。 数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサでした。

 しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまいました。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (Il Milione) として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらしました。

  マルコは1299年8月に釈放され、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷(contrada San Giovanni Crisostomo)に戻ることができました。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たしました。ただし、その後、マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れませんでした。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれました。


マルコ・ポーロ2つづく