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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

ジョヴァンニ・ガブリエーリ
(Giovanni Gabrieli)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆ジョヴァンニ・ガブリエーリ(Giovanni Gabrieli)


ヴェネチアのサントステーファノにあるジョバンニ・ガブリエーリの墓
Source:Wikimedia  Commons
Attribution, リンクによる



Angelo Contarini's graves on the back facade of Santo Stefano church in Venice, Italy. Contarini died in 1657. PictureSource: by Giovanni Dall'Orto, August 12, 2007
Source: Wikimedia  Commons
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 ジョヴァンニ・ガブリエーリ(Giovanni Gabrieli, 1554年または1557年~ 1612年8月12日)はイタリアの作曲家・オルガニストであり、当時最も影響力のあった音楽家です。

 ヴェネツィア楽派の頂点に立ってルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期を代表する存在となりました。諸外国、とりわけドイツ語圏から留学生を受け入れ、分割合唱による作曲技法を国外に広めました。

生涯

 カルニア出身の父親のもとにヴェネツィアに生まれます。5人兄弟のひとりでした。

 幼少期についてはほとんど知られていませんが、おそらくおじのアンドレーアに師事していよう。後年の著述のいくつかから窺い知れるように、このおじに育てられたものらしい。ミュンヘンに留学し、バイエルン公アルプレヒト5世の宮廷にて高名なオルランド・ディ・ラッソに師事し、1579年ごろまで同地に滞在した可能性がきわめて高いと言えます。

 1584年にヴェネツィアに帰国します。

 翌1585年にクラウディオ・メールロの後任として、聖マルコ大寺院の首席オルガニストに就任します。翌年のおじの死に続いて、首席作曲家の地位にもなっています。この頃、おじの作品を出版にそなえて校訂しており、ジョヴァンニ・ガブリエーリの尽力がなければアンドレーアの作品は散逸していたかも知れません。

 というのもアンドレーアは、自作の出版にほとんど頓着しなかったからです。しかしジョヴァンニは、おじの楽曲が卓越したものだからこそ、多くの時間を割いて編集・校正に携わるのだと考えていました。

 スクォーラ・グランデ・ディ・サンロッコ教会のオルガニストにもなりました。これも終生にわたって暖め通したことにより、ガブリエーリの音楽活動はさらに勢いづきました。この地位は、ヴェネツィアのすべての宗教団体のうちで最も威信があり、かつ最も裕福であり、音楽体制の華やかさにおいては聖マルコ大寺院に次ぐ存在だったからです。

 ジョヴァンニ・ガブリエーリの作品のほとんどは、この教会のために作曲されましたが、それでもおそらく聖マルコ大寺院のために作曲された曲より多いということはないと言えます。

 聖マルコ大寺院は、卓越した音楽の長い伝統があり、ガブリエーリはそこで演奏された作品によって、ヨーロッパ中で最も有名な作曲家となりました。

 ガブリエーリの影響力のある曲集『宗教曲集』 (サクレ・シンフォニエ、Sacrae symphoniae)(1597年)の発行により、ヨーロッパ中の作曲家、とりわけドイツ出身の作曲家が、ヴェネツィアに留学することが流行り出しました。

 明らかにガブリエーリは新しい弟子たちに、イタリアで作曲されたマドリガーレを研究させ、壮麗なヴェネツィア楽派の複合唱様式だけでなく、より親密なマドリガーレ様式をも母国に持ち帰らせたのです。

 ハンス・レーオ・ハスラーやハインリヒ・シュッツ、さらにミヒャエル・プレトリウスらは、過渡期の初期バロック音楽を北国のドイツに移植し、その後の音楽史の動向に決定打をもたらしました。大バッハの音楽によって最高潮に達するドイツ・バロック音楽の諸作品は、ヴェネツィアに根を持つこの強力な伝統の上に築き上げられたのです。

 ガブリエーリは、サン・ロッコ教会ともつながりを持ち、その声楽家や器楽奏者たちとも共演しました。その演奏風景の記録は、イギリスの作家トマス・コライヤット(Thomas Coryat)の紀行文の中で伝えられています。

 ガブリエーリは、1606年ごろから次第に体調が悪くなり、もはや演奏活動がままならなくなったために、教会当局が後継者探しに乗り出しました。1612年に腎結石の悪化から亡くなりました。

音楽と作曲様式

 ジョヴァンニ・ガブリエーリは、当時流行の多くのジャンルで作曲したにもかかわらず、明らかに合唱のための宗教曲と器楽曲を好んでいました。

 声楽のための世俗曲は、すべてかなり初期の作品です。後半生においてガブリエーリは、声楽と器楽のための宗教曲に専念して、音響効果を最大限に追究しました。

 聖マルコ大寺院のジョヴァンニ・ガブリエーリに前後する作曲家と同じように、彼もまたこの大寺院の異例な空間配置を利用しようとしようとしました。左右両陣の互いに向き合う聖歌隊席(と、それぞれに1つずつしつらえられたオルガン)が、著しい空間効果――エコーやディレイ、一種のステレオ効果――が得られるのです。

 ほとんどのジョヴァンニ・ガブリエーリの作品は、合唱集団ないしは器楽集団が、まずは左手から聞こえ、それを右手の音楽家集団が追うというように、一種のアンティフォナ様式によっています。

 このような分割合唱様式は、数十年来の伝統があり、少なくともヴェネツィアにおいて開祖はおそらくアドリアン・ヴィラールトであったにせよ、ジョヴァンニ・ガブリエーリは、楽器法において二つ以上のグループを厳密に方向付けることにより、器楽集団や声楽集団の利用を、細心の注意をもって決定した最初の作曲家となったのです。

 聖マルコ大寺院のアコースティックは、この400年の間にほとんど変化していないので、楽器は、適切に配置すれば、遠い地点でも完全に明晰に聞き分けることができます。したがって、たとえば弦楽器の独奏者と金管楽器の集団というような楽器編成は、文字にすると奇妙に見えても、聖マルコ大寺院で響かせてみるなら、完璧なバランスを保っているのです。

 ガブリエーリは楽器の活用においてだけでなく、強弱記号の展開においても独創的でした。《ピアノとフォルテのソナタ Sonata pian' e forte》は、おそらく強弱法を用いた最初期の作品です。しかもその上、通奏低音を用いた最初の作曲家の一人でもありました。通奏低音は、1602年にロドヴィコ・ヴィアダーナの曲集によって一般化した作曲技法だったからです。

作品

・『コンチェルト集』(1587年出版。叔父のアンドレアの作品も含まれる)

・『サクレ・シンフォニーエ(第1巻)』(1597年出版。声楽曲はモテット、器楽曲はソナタとカンツォーナの計61曲を収めた作品集)

・「弱と強のソナータ(Sonata pian' e forte, a 8)」(8声のソナタ、分割合唱の作品。強弱記号、明確な楽器の指定。この曲集に収録されているソナタは、この曲と第8旋法による12声の曲だけである)

・「第1旋法による8声のカンツォーナ(Canzon primi toni a 8)」(分割合唱)

・「おお主イエス・キリスト(O Domine Jesu Christe)」(モテット、分割合唱)

・『6曲のカンツォーナ集』(1608年出版)
第1番「ラ・スピリタータ」(4声。オルガンまたは4つの旋律楽器)

・『サクレ・シンフォニーエ(第2巻)』(死後の1615年出版。モテットのみ32曲を収録)

・「集いにて(In Ecclesiis)」(14声のモテット。明確な楽器、声楽パートの指定。通奏低音を用いた最初の作品の一つ。ガブリエーリの声楽作品では最も有名)

・「新月の夜にラッパを吹き鳴らせ(Buccinate in Neomenia tuba)」(19声。同曲集中最大規模のモテット)

・「神に向かって喜びの声を上げよ(Jubirate Deo)」(10声)

・「キリストよみがえりぬ(Surrexit Christus)」(11声)

・「憐み深い神は(Misericordia tuo, Domine)」(12声)

・Suscipe, clementissime Deus(12声)

・Hic est filius Dei(18声)

・『カンツォーナとソナタ集』(1615年出版。器楽曲のみを収録。大部分は任意の楽器指定)


アンドレア・ガブリエーリつづく