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シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

マルコ・ポーロ(Marco Polo)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア E-wave Tokyo
 無断転載禁

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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆マルコ・ポーロ(Marco Polo)

評価

 マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていました。

 『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べています。

 このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分かっていません。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがあります。

 大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測しています。

 日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけています。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げています。

 但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していません。(杉山正明「世界史を変貌させたモンゴル」、「クビライの挑戦」など参照)

 2010年1月イランのハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べました。

 これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものです。


マルコの肖像が描かれた旧1000リレ紙幣
 1981年から1990年まで発行された1000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されています。  
Source:Wikimedia  Commons  
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


影響


1450年にヴェネツィアの僧侶フラ・マウロが作成した地図
Source:Wikimedia  Commons
パブリック・ドメイン, リンク
 

黄金の国ジパング

 マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介しました。

 バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介しています。

 1274年、1281年の元寇についても触れていますが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もあります。

 「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられます。

 また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられます。

 日本では、偶像崇拝(仏教)が信仰されていることや、埋葬の風習などに触れています、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及んでいます。

 また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられます。

 当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていました。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像されます。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付けています。

 この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高いと思われます。

ユーラシア情報

 マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝えています。

 それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学や民俗学的観察に比されます。

 その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えました。世界最大の海港と称賛した泉州や杭州の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記しています。また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評しています。 なお、彼は元の成立をプレスター・ジョンと関連づけた記述を残しています。

 往路ではシルクロードを通り、伝えた中央アジアの情報について探険家のスヴェン・ヘディンは、その正確さに感嘆しました。

 1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しており、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついています。

 復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記しています。 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記していいます。 また、イスラムの楽器についても記録しています。

 マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせました。セイロン島では良質なルビーやサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記しています。

世界観への影響

 『東方見聞録』は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である普遍史はエルサレムを世界の中心とするマッパ・ムンディで図案化されてきましたが、マルコ・ポーロの報告はパクス・モンゴリカの成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られました。

 イシドールスの『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」の誤りを数多く指摘しました。

 マルコ・ポーロ以降も極東の島・日本はまだ見ぬ憧憬の国であり、様々な形で想像され、世界地図に反映されることになりました。

 マルコの報告が大航海時代を開く端緒のひとつになったという考えもあります。1453年に作成されたフラ・マウロの世界図に対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ(en)は以下のコメントを寄せています。

That fine illuminated world map on parchment, which can still be seen in a large cabinet alongside the choir of their monastery (the Camaldolese monastery of San Michele di Murano) was by one of the brothers of the monastery, who took great delight in the study of cosmography, diligently drawn and copied from a most beautiful and very old nautical map and a world map that had been brought from Cathay by the most honourable Messer Marco Polo and his father.

この羊皮紙に描かれたすばらしい世界地図は、宇宙誌を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院の聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える海図と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ

持ち帰ったもの

 マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見ました。この料理の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達してパスタになったという説があります。

 この説によると、「スパゲッティ」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だといいます。別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもあります。

 ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国に麺類に関連性は無いとも言われています。

 陶磁器も持ち帰りました。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいましたが、マルコは製造工程も見聞しています。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかったようです。

 方位磁石もまた、マルコが中国から持ち帰った一品です。これは羅針盤へ発展し、大航海時代を支える道具となりました。

 ピザは元々韓国の物でマルコ・ポーロがそのアイディアを盗んでいった、という一部の韓国人による主張

詳細は「韓国起源説」を参照
 アメリカの歴史研究家、マックス・フォン・シュラーは彼の著書で

・・・私は韓国に住んでいた時、チヂミというピザの様な料理を外国人に"コリアンピザ"だと説明した。然し、何年か経つうちにこの話は、マルコ・ポーロが李氏朝鮮に来た時、彼はチヂミからピザのアイディアを盗んだ、という話になってしまった。この話で韓国人の「自分たちは犠牲者である」という意識がはっきりわかる。もし誰かが韓国人にひどいことをした場合、韓国人は永遠に自分が被害者だと考える。

と韓国人によるコリエーションを非難している。

中国を目指した他の人々

 クリストファー・コロンブスが手書きの注釈を加えた『東方見聞録』写本
「大航海時代」も参照

 マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われています。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となりました。

 コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられています。ベント・デ・ゴイスも「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をしました。彼は王国を見つけられなかったのですが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証しました。


クリストファー・コロンブスが手書きの注釈を加えた『東方見聞録』写
Source:Wikimedia  Commons
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