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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化1)(Sòng、960年 - 1279年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆宋 (文化1)

紡績業

絹織物・養蚕


 絹糸・絹織物は、漢代以来の京東路・河北路(山東・河朔)と益州が最も品質が良く高名で、新興の梓州がこれに加わります。生産量の面では、気候に恵まれ年に8回養蚕を行えると謂われた江浙地方が営む家も多く最も盛んでした。


 注)錦綺・鹿胎・透背・綾について
  錦綺(きんき):にしきとあやぎぬ
  鹿胎:絹織物の分類のうち、絵柄・技法で分類したうちのひとつで絞り染めのこと。
  透背:指絲織品正反兩面所織的花紋(手織りの絹織物で、表裏両面に花模様が織り出された
      もの)
  綾(あや):① 模様を織り出した美しい絹織物。朝廷では五位以上の者の朝服に限り許され
      たが、蔵人(くろうど)は六位でも着用を許されました


 皇帝・高級官僚が着る錦綺・鹿胎・透背・綾などの高度な技術を要する高級品は、四川・京東・河北路の絹製品が多かったようですが、生産量で見た場合には南東諸路が優り、江東・両浙の三路で全体の3分の1を占めています。

 生産形態について。唐代までの絹生産は政府へ納める税としての性格も強く、農業の兼業としての絹生産が多かったと言えます。

 宋代に入ると、商品価値がより強調され、次第に生産に有利な地方への集中と養蚕・機織の分業が進むと共に、桑の接木や蚕飼育の改良が進められ、華北産の魯桑から葉が厚くて筋張っていない蚕のよく育ち作る糸の量が多くなる湖桑への移植が急速に進みました。

 季節が来ると養蚕地の農民は蚕市と呼ばれる市場で養蚕の器具と桑を買い入れました。桑は木の状態で購入して育てる場合と葉で購入して養蚕に使う場合があり、葉に付いては値段の上下が激しく投機の対象となったといいます。養蚕の後、生糸に紡いだ状態で販売する場合もあれば、織って販売する場合もありました。

 当時の価値で10人家族で10箔(蚕10匹)で養蚕・製糸・機織まで行えば一家が生活出来たといいます。

 また、絹織物への装飾としての刺繍も盛んに行われるようになりました。現在までこの伝統は受け継がれ、開封の刺繍は汴繍(べんしゅう)の名で知られています。


工芸品


窯業



白磁壷
Source:Wikimedia Commns
英語版ウィキペディアPericlesofAthensさん, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



皿数種
Source:Wikimedia Commns
英語版ウィキペディアPericlesofAthensさん, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 唐末から宋にかけて窯の技術の進歩と石炭の使用により、高火度焼成が可能になり強度が向上しました。また宋代の陶磁器生産量は民間による物が多くを占め、生産の主力が官吏・士大夫から平民へという唐宋変革の波は陶磁器の分野にも及んでいます。しかし、他の産業とは違い窯業は依然として北部が中心地です。

 唐代以来、北では白磁がよく作られ、南では青磁が作られたが、宋代には黒・茶・紅などの暖色系の釉器も流行します。

 邢州窯は邢台県の窯、雪器と呼ばれる青味掛かった白磁が特色で非常に重宝されました。定窯は定州の窯、非常に薄手の造りと泪痕(紋様)や立体的な花紋を施した黄色味のある白磁が特徴で、他には赤茶・紫・黒の釉器が生産されました。

 また覆焼法という、口縁部の釉を拭き伏せて焼く手法で生産量を倍増させましたが、釉の無い部分が出来るため皇室では用いず汝州に官営の青窯建設を命じる事となります。その汝窯は、朝廷に由って窯業の盛んな汝州に建設された窯で、後に青磁の典型と成る表面に透明感がある濃厚な淡青色や乳白色の色合いが特色、官窯であり質が高く評判も高かったのです。

 磁器の由来とする説も有力な磁州窯は河南彰徳府の民営窯で、白地黒掻き落としの技法でも知られています。定窯と似た器を生産したが、非常に重宝され最高峰とも言われています。

 華南の窯としては景徳鎮が有名だが、宋代の景徳鎮は長年の戦乱で荒廃し何ら観るべきものがありません。

 越州窯は今の紹興府にある窯「秘色」という光沢ある緑色が特色。唐~五代に窯業が盛んだった越州は宋代に成ると木材が枯渇し始め亦た石炭の普及以前のため質が下がったのか評判が落ち、南方で評判の良い産地は龍泉窯などへ移りました。その竜泉窯は肌理の細かい「粉青」という透明感のあるくすんだ草色が特徴で後に砧青磁が作られました。南宋では臨安の近郊に修内司・郊壇の二つの官窯が造られ主に白磁を生産しましたが、光沢や透明感にやや欠け以前の官窯器に比べると落ちると言えます。


青磁三足壷
Source:Wikimedia Commns
不明, パブリック・ドメイン, リンクによる


 建窯(中国語版)は建陽に在った窯で、薄手の造りと透明感のある青味掛かった薄い黒色や光沢の強い斑点模様が特徴です。江西の吉州窯は、定窯に似た白磁と紫磁を生産したらしいが現存する器に乏しく不明、質は良くないと記録されます。

 黒柚器を日本では天目茶碗と呼ぶが、黒色は茶の色に映え、厚手の身は茶の保温に都合が良いことから、茶器として人気を博しました。華北では定窯、華南では茶産地の建窯に名品が多いと言えます。南宋代には建窯は専ら天目を焼きました。江西の吉州窯もありますが、あまり質はよくないと言えます。日本では玳皮天目と呼ばれています。

 陶磁器は宋が海外に輸出する品目の中でも重要な物の一つで、特に東南アジア諸国へ盛んに輸出され、直接交易先は東は日本・朝鮮から西はイランにまで広がっています。その美しさは現地の陶磁器文化に対しても多大な影響を与えました。

 注)玳皮天目茶碗(たいひてんもくちゃわん)文化遺産オンラインより
  中国江西省吉安市永和鎮にあった吉州窯で生産され、あたかも玳瑁の甲、つまり鼈甲の
  ような発色をみる天目茶碗を天目と呼び、また鼈盞、玳瑁盞とも呼ぶ。器形は大きく二種
  類に分かれる。一つは、建盞のようにすぼみ気味の形であり、高台はいたって低く、あるか
  なしかといった程度です。もう一つは、大きく口を開いた平碗形です。この茶碗は、銀覆輪が
  かけられた大振りの平碗形で、内面に菱形の切紙文が三個配されている。菱形文の中には
  樹木と鹿とみえる文様が置かれています。外側は黒釉に鼈甲斑が美しく出ています。三代将
  軍家光の長女千代姫が、二代光友に嫁したとき、嗽茶碗として持参したとの伝承がありまする。


金銀器・漆器

 漆器は防腐性能の高さから様々な器物に需要があり、食器や家具などの日常品から棺桶に至るまで大量に生産されました。漆器は山地帯で広く製造され、特に江南東路・両浙路・京西南路の山岳地域が良質で製造量も多かったようです。

 緑の油漆による華美な色付けは北宋代に始まります。同様に金銀を用いた螺細もこの時期から始まりますが、これは唐伝来の技術に日本人が応用を施し中国が逆輸入した新技法です。

製紙業

 古代から続く造紙の歴史もあり、造紙は全土で広く行われましたが、原材料は藤・楮・桑・麻・竹など各地域で産出する様々な植物が利用されました。


宋・文化2つづく