エントランスへはここをクリック   中央アジア・シルクロード  【世界紀行】

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

西安事変 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda共編
 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年10月5日
 

軟禁中の蒋介石と関係者
Source:Wikimedia Commons
Timshi - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる


西安事変  西安事変記念館 


◆西安事変
Xi'an 中国西安市)

 以下は西安事件、中国語では西安事変の詳細です。

西安事件の概要

 1936年12月、中国の西安で蒋介石が監禁された事件。

 1936年、旧東北軍の張学良は東北軍総司令として、西北軍総司令の楊虎城とともに陝西省北部の中共軍を包囲していた。

 張は剿匪(そうひ)総司令部(匪は中共をさす)の副司令でもあったが、彼の部下の兵士たちは、中共の内戦停止、一致抗日の呼びかけを支持していた。「先安内後攘(じょう)外」(国内平定が先決、外敵は後回し)という政策をとり、抗日運動を抑圧していた蒋は、自ら対共作戦督促のため、張軍の布陣する西安に飛んで華清池に滞在した。

 ちょうど一二・九運動1周年に向けて西安の青年たちはデモを行い、張らを牽制した。張、楊は民衆の要求を背景に12月12日、蒋を逮捕し、内戦停止、抗日、政治犯釈放などを要求した。中共は南京では親日派の何応欽が覇権をねらっていること、南京の親英米派は一定の条件のもとに抗日に参加しうることなどの状況判断にたって平和解決に乗り出し、25日、蒋介石は釈放されて南京に戻り、内戦は停止された。この事件は抗日民族統一戦線結成の契機となり、中国近代史における重要な転換点となった。

出典 [安藤彦太郎] 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例



 以下は西安事件、中国語では西安事変の詳細です。

西安事変の詳細

 西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件です。

 中国では西安事変と呼ばれます。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明ですが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされています。

 有名な満州事変は西安事変の翌年の12月に起きますが、西安事変で生き延びた蒋介石一族は、毛沢東らとの間で国共合作を結び、当時の首都、南京において関東軍、大日本帝国軍との対決を担当します。しかし、蒋介石自身は満州事変時、南京におらず、兵士らへの適切な指示もなく、結果的に日本軍による兵士、市民の大虐殺を許すことになりました。


拉致監禁された蒋介石
Source:Wikimedia Commons
不明 - http://blog.sina.com.cn/s/blog_48dcce8e01009yli.html, パブリック・ドメイン, リンクによる


背景


張学良東北軍総指揮官
Source:Wikimedia Commons
Central Archive Press - The history of ROC in mainland, パブリック・ドメイン, リンクによる



楊虎城西北軍総指揮官
Source:Wikimedia Commons
Unknown; scanned by 天竺鼠 - 『最新支那要人伝』, 朝日新聞社, 1941年., パブリック・ドメイン, リンクによる

はじめに

 1934年1月8日に欧州旅行から帰国した東北軍(zh)首領の張学良はドイツ・イタリアの民衆が心を合わせて指導者を擁護しながら復興を遂げていることに感銘を受け、帰国するやいなや「われわれも領袖を擁護しなければならない」と語り、中央の蒋介石支持を明らかにしました。

 柳条湖事件後、東北の地盤を失った張学良は蒋介石から河南省、湖北省、安徽省の剿共に任命され共産党軍の長征による北上を阻止する任務につきましたが、1935年9月には指揮下の第67軍の第110師団が壊滅的損害を被り師団長・参謀長を失いました。

 1935年10月には西北剿共副総司令に任命され西安に司令部を進めましたが、指揮下の第57軍の第109師団の師団長が捕虜になるなど損害を出し続けていました。

 このような状況に置かれていた張学良は楊虎城に剿共が嫌になったと打ち明け、1936年に入ると共産軍との接触を始めました。1936年4月9日、張学良の働きかけによって周恩来・張学良会談が延安で開かれました。

 西北に地盤を持っていた楊虎城(第17路軍総指揮)は、中央軍・共産軍どちらの進出も望んでおらず、共産軍と相互不可侵協定を結んでおり、西安に進出した張学良に司令部を提供することもなく、蒋介石の剿共作戦に批判的でした。

 共産軍は中国政府軍の剿共戦により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていました。このため、蒋介石は共産軍を殲滅する最後の軍議を西安で開き、20個師団と100機を超える航空機を投入して2週間から1月間以内に8年間にわたる剿共戦を終わらせようとしていました。蒋介石は将軍たちに「剿匪の完全成功まで、いまや最後の5分間の段階にきています。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と繰り返し命令していました。

 日本との間には、1936年9月23日に上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が前年度の中山水兵射殺事件の解決をみる前に再び引き起こされ、9月24日に蒋介石は臨戦態勢をとるよう軍政部長等に命令を下す状況に陥っていました。

 10月1日、ナチス・ドイツから派遣されているファルケンハウゼン将軍によって立案された上海・漢口租界の日本軍への奇襲攻撃作戦が蒋介石に伝達されました。10月5日、蒋介石と川越大使との会談が行われ、蒋介石は日中友好を力説しました。

 1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じましたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていました。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れていました。

コミンテルンによる指令

 スターリンによる国際共産党は、事件以前から中国共産党に対し蒋介石と日本軍を戦わせ両者を共倒れさせることにより、中国の共産革命を成功に導くよう、指令を与えていました。


陝西省華清池の五間廰(2008年撮影)
Source:Wikimedia Commons
风之清扬 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


事件

拉致



射殺された邵元沖元中華民国立法院長代理
Source:Wikimedia Commons
不明 - http://pic.itiexue.net/pics/2009_6_11_36474_9436474.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる


 1936年12月11日午後10時、張学良は親衛隊第二旅長唐君堯、騎兵第六師長白鳳翅、親衛隊第二営長孫銘九に抗日のための蒋介石連行計画を打ち明け、翌日の作戦計画の取り決めがなされました。12月12日午前1時、張学良は緊急幹部会議を行いその他の幹部にも作戦実施を告げました。

 12月12日午前5時、西安からトラックに分乗した拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)が出発しました。西安では楊虎城の第17路軍が陝西省政府、憲兵隊、警察、保安隊、飛行場、蒋介石配下の将軍等が宿泊する西安賓館を襲撃しました。


陝西省臨潼華清池にある西安事変記念碑(2008年撮影)
Source:Wikimedia Commons
风之清扬 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



中国共産党へ指令を行ったヨシフ・スターリンソビエト連邦共産党中央委員会書記長
Source:Wikimedia Commons
不明; image flipped by Gaeser (talk) - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs divisionunder the digital ID fsa.8e00858.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる

 第17路軍は憲兵団長揚鎮亜を射殺し、西安賓館の将軍等を一箇所に集めて監禁するとともに脱出を試みた邵元沖元立法院院長代理を射殺しました。蒋介石が滞在している華清池(zh)から500mに位置する臨潼県城には第105師師長劉多茎と親衛隊第二旅長唐君堯が到着し、拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)の到着を待ちました。

 午前6時25分、蒋介石拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名[15]。)が華清池(zh)の五間廰表門で守備についていた憲兵の誰何に応答することなくトラックで侵入を図ろうとしたため、憲兵が威嚇射撃を行うと、トラックから実行部隊が降り立ち憲兵と銃撃戦となりました。

 降り立った実行部隊たちは塀を乗り越えて門内に侵入しました。銃声を受けて異変を察知した特務員蒋堯祥は侍衛官竺培基の指示を受け調べに向かったところ実行部隊に銃撃され応戦中に左胸を打ち抜かれながらも変を叫んで知らせました。

 蒋介石は侍衛官竺培基から避難するよう伝えられると、竺培基、特務員施文彪、従兵蒋孝鎮の4名で塀を乗り越えて脱出しました。一行は裏山の標高790mの斯家山の頂上付近まで退避しましたが、途中警護の者達は次々と銃弾に倒れ、蒋介石は一人岩間に身を潜めました。

 午前7時30分には警備隊は制圧され護衛侍従長銭大鈞、侍従室第3組長蒋孝先など20名、実行部隊は17名の死傷者を出しました。実行部隊は捕らえた憲兵の一人に拳銃を突きつけて尋問するとともに2千元を渡し蒋介石の情報を提供をすれば釈放すると条件を出したため、憲兵は蒋介石が裏山に逃げたことを自白しました。蒋介石の発見に2万元の懸賞金がかけられ、午前9時には発見されました。捕らえられた蒋介石は西安に連行されました。

8項目の要求

 張学良とその部下は拘禁した蒋介石に対し以下の8項目を要求し、同内容が国府の要人に送付されました。

 蒋介石の共産党討伐作戦(囲剿作戦)などに反対し、国共合作などを忠言したが処罰を受けた。救国のために以下の8か条を要求する。

 南京政府の改組、諸党派共同の救国
 共産党の討伐停止
 政治犯の釈放
 政治犯の大赦(刑罰の消滅)
 民衆愛国運動の解禁
 言論集会の自由
 救国会議の即時開催
 孫文遺嘱の遵守
 武力討伐の動き

武力討伐の動き

 l8か条の要求を伴う蒋介石の拘禁は、上海や国外で「張学良のクーデター」と報じられ、その後の動向が着目されていました。監禁された蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶しました。国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、軍事委員会の緊急強化を決定しました。

 12月13日、黄埔軍官学校書記長鄧文儀は、第28師、第51師に西安攻撃を進言するとともに軍官学校卒業生7万余人の名で強硬策を国民政府に進言しました。中国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着して行きました。

 ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン中将からはドイツ人顧問をともなった戦車旅団、ドイツ式訓練を受けた第83師、第87師を西安に派遣し反乱軍への奇襲攻撃と共産軍への空爆を行い、蒋介石釈放交渉を行うとする作戦が献策されました。第28師は進撃し、洛陽の空軍部隊は渭南への爆撃を行いました。

 政府軍の進撃と爆撃が行われると、張学良は蒋介石に4-7日以内に南京に送還する予定でしたが政府軍の攻撃のために出来なくなったと述べました。これを聞いた蒋介石は何かを待たなければならないために自分たちでは決定できないのであると推理しました。事情を知った一般世論からも張学良は強い批判を浴びることとなりました。

 張学良の目算通りに人民戦線派および各地将領が動かず、世論は張学良と反対の立場にありました。形勢が不利となった張学良は、北支の閻錫山の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の処置について協議を求めました。

解放交渉と解放


軟禁中の蒋介石と関係者
Source:Wikimedia Commons
Timshi - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

 義兄の孔祥熙から蒋介石の安否不明の知らせを受けた夫人の宋美齢は、孔祥熙と顧問のW.H.ドナルド( William Henry Donald)を伴い南京へ赴きました。南京での宋美齢は、蒋介石の安否を考え、国民政府による西安攻撃を強硬に反対しました。

 この宋美齢の指示で、蒋介石と張学良宛の書状を携えたW.H.ドナルドが、西安へ派遣されました。不利な立場にあった張学良はこの書状に応じ、早々に孔祥熙と宋美齢宛に電報を送り、西安のW.H.ドナルドからも蒋介石による「砲撃中止命令」の一報が伝えられました。

 交渉の余地ありとみた宋子文は12月19日に西安に入り、蒋介石解放に向けて折衝を開始しました。この間、W.H.ドナルドは再び南京に戻り、12月22日に夫人の宋美齢を伴って再び西安に赴き、解放交渉を進めました。

 12月25日、蒋介石が解放され、張学良、宋美齢夫人、W.H.ドナルド、宋子文の4名を伴い西安を出発、午後に洛陽に到着しました。洛陽に到着するとともに蒋介石は下野の決心を公表、その旨を国民政府に伝えましたが、国民政府は下野を慰留して南京帰還を要請しました。張学良は西安クーデターの敗北を洛陽で認め、その後に西安に戻ったとされています。

国共合作

軟禁中の蒋介石と関係者

 しかし中国共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り話し合いが行われ、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放されました。

 翌1937年2月の三中全会では西安事件をきっかけに国民政府の態度が硬化し、中国共産党の完全掃滅を決議し、その後も妥協を行わず中共を追詰めましたが、日中戦争が勃発し、国民政府は中共掃滅を放棄し、第二次国共合作が成立します。蒋介石と周恩来との間でどのような会談が持たれたかは、戦後も一貫して張学良は語りませんでした。

 蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害を検討しましたが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなりました。スターリンは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝しています。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもありました。また蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続することで、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させられるというスターリンの思惑が働いたといいます。

 中ソ両国の間で「ソ連側の国民政府支持、新疆・外蒙古に対するソ連政策の撤回、中国側の防共政策の放棄」を骨子とする諒解が成立し、中国に対して共同防共を働きかけて来た、日本の外交政策は破綻しました。今まで日中交渉に当たっていた外交部長張群は更迭されました。

 蒋介石の息子の蒋経国が留学中のソ連に政治的人質に捕られ、帰国を条件に国共合作を認めたといいます。

 後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしませんでした。この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのかについては、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、永遠の謎となってしまいました。

 胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べています。

拉致首謀者への処罰

張学良


 事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになりました。当然の事ながら反逆した事で国民党内部で誰も軍法会議に異議を唱えず、張学良の極刑を主張する声もありました。そして、張学良は50年間に渡り軟禁されることとなりました。軟禁解除後は100歳まで長生きし、2001年にハワイで客死しています。

楊虎城

 楊虎城は事件後に蒋介石の命令で欧州へ外遊に出され、日支事変が勃発後に帰国すると蒋介石に家族ともども監禁されました。その後、1946年に毛沢東中国共産党主席によって楊虎城の釈放が要請されましたが蒋介石は拒否しました。中国共産党の攻勢で重慶陥落が目前となった1949年9月17日、アメリカと国民党政府が設置した政治犯収容所で楊虎城はその娘、秘書夫妻、警護兵とともに蒋介石の命令によって殺害されました。

日本への影響

 この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものとなりました。 また当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測しました。対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関昭和研究会へ参加することとなります。以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けになります。


西安事変紀念館 につづく