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シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

 (文化)
(Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

 文化

文化

 殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられています。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのですが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっています。

 この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ないと言えます。器には占卜の結果を鋳込んでいます。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっています。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴があります。

 またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられます。殷では祖先に対し崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠りましたりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。

 これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがありました。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めました。

 建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になりましたことがわかっています。

 投壺(とうこ)が始まりましたのも周代とされます。

都市と領土


西周王朝、この時代、領土は点と点とを結んだネットワーク状のもので
面領域ではありません。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難で
あり領域は設定せず、邑名だけ記入しました。
Source: Wikipedia Commons
GFDL, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=168638

 殷代から春秋時代にかけての華北は、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代でありました。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うといいます構造のものでした。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦しました。

 東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになりました。華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されています。

 こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となります。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもありません。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持しますことができます。

 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなっています。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していました。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行りましたが、しばしば邑を襲撃し、略奪を行いました。

 また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていました。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになってゆきました。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めました。

 大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆきます。

 また、軍事が邑の指導者層です都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともに、それまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられてゆきました。

 こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展してゆきました。

主要諸侯

 史記三世表には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記されます(記載順)。

 魯-姫姓侯爵 開祖:周公旦(武王の同母弟)  現在の山東省南部を領す。都城は曲阜(現在の山東省済寧市曲阜市)。

 斉-姜姓呂氏侯爵 開祖:呂尚  現在の山東省北部を領す。都城は臨淄(現在の山東省淄博市臨淄区)。

 晋-姫姓侯爵 開祖:唐叔虞(成王の同母弟)  現在の山西省一帯、黄土高原東部の汾水河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の山西省太原市晋源区)。

 秦-嬴姓趙氏 西周代では大夫・東周にいたり侯爵 開祖:非子  現在の甘粛省西部、東に周の根拠地です陝西省の渭水盆地を望む高地を領す、周王室の東遷に伴い政治権力の空白となりました渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部です関中に重心を移す。当初の都城は秦邑(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)。

 楚-羋姓熊氏子爵 開祖:熊繹  現在の河南省西部から湖北省・湖南省一帯、概ね漢江以南の長江中流域を領す。都城は丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)。

 宋-子姓公爵 開祖:微子啓(殷の帝辛(紂王)の異母兄)  現在の河南省東部一帯を領す。都城は商邱(現在の河南省商丘市睢陽区)。

 衛-姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:康叔(武王の同母弟)  現在の河南省北部黄河北岸部を領す。都城は朝歌(現在の河南省鶴壁市淇県)。

 陳-媯姓侯爵 開祖:胡公(五帝の一人です舜の末裔と伝えられます)  現在の河南省中部一帯を領す。都城は宛丘(現在の河南省周口市淮陽県)。

 蔡-姫姓侯爵 開祖:蔡叔度(武王の同母弟)  現在の河南省南部を領す、都城は当初上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)、新蔡(現在の駐馬店市新蔡県)に遷都後、下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷る。

 曹-姫姓伯爵 開祖:曹叔振鐸(武王の同母弟)  現在の山東省西部を領す、都城は陶丘(現在の山東省菏沢市定陶区)。

 燕-姞姓伯爵 開祖:召公奭(周王朝姫氏の同族)  現在の河北省北部を領す、都城は薊(現在の北京市房山区)。

歴代王

出典:Wikipedia


基本的に左が年長。重要でない人物は省略してあります。
Source: Wikipedia Commons
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周・文化2つづく