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法門寺 百度百科5

(宝鶏市、陝西省)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月、更新:2020年4月1日
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陝西省宝鶏市 法門寺詳細中国百度百科)
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 これは中国陝西省宝鶏市にある法門寺の詳細解説(出典・百度百科5)です。

◆法門寺(百度百科5)

  

◆宋王朝時代の仏教寺院


宝鶏法門寺 Baoji Famen Temple
出典:百度百科

 宋時代になると、法門寺は、唐時代の皇家寺院の壮大な勢力を継承し、破壊された寺院の大規模な修復に取りかかりました。当時、僅か24寺院のひとつである「浴室院」では、1日に100人が入浴可能でした。宋の徽宗皇帝は「皇帝仏国」の四文字を手書きし、山門に掲げました。金から元の時代にかけて、法門寺は依然として閉鎖された名刹で、「蔵経碑」の中には、寺の僧侶が写経した大蔵経5000貫の記載がありました。

 金の人々は、「詩碑」と刻み、寺の塔を大いに褒め称えました。その詩は「三級風簷壓魯地,九盤輪相壯秦川」(3層の風が軒先に当たって地面に打ち付け、9枚の円盤が互いに力強く秦川にあり?)というものです。

◆明・清時代の衰退

 明・清時代以降、法門寺はどんどん衰退していきました。明の隆慶(第13代皇帝)の時代の隆慶三年(1569年)、鳳翔府において地震が発生し、数百年の歴史を経た唐の時代の木塔が崩壊しました。明の神宗皇帝の萬暦七年(1579年)、地方の紳士である楊禹臣や党万良等が寄進して、塔の修復を行い、30年かけて八層十三階の煉瓦の塔を作り上げました。

 その高さは、47メートル、屋根の縁の部分には煉瓦に花の彫刻を施し、角は丸くして鈴をぶら下げ、そよ風が吹くとベルが鳴りわたり、仏の家にふさわしい聖なる厳粛な雰囲気を存分に醸し出していました。地上第一層の塔門は南を向いており、東、南、西、北の四正面は、いずれも美しく石に彫刻が施されて、それぞれ、“浮屠耀日(仏陀は日に輝き)”、“真身宝塔(本物の宝塔)”、“舍利飛霞(仏の骨が高い空を飛び)”、“美陽重鎮(美しい太陽が重要な都市にある)”と刻まれ、東北、西北、西南、東南の四方向の面にはそれぞれ、乾(けん)、坎(かん)、艮(ごん)、震(しん)、巽(そん)、離(り)、坤(こん)、兌(だ)の八卦の文字が象嵌されていました。

 塔の第二層から第八層までは均等に枡形(柱などの上に設ける方形や矩形の木組み)と手すりが着けられ、第九層には、青煉瓦の庇を着けています。塔の第二層から第一二層までの各段には8つの仏壇が設けられており、それぞれの仏壇には1ないし3体の青銅の仏像が祀られ、その傍らには、経典を入れた箱が置かれ外側は鉄製のネットで覆われていました。塔の頂上部は青銅製の鋳物づくりで、三片を接着した瓢箪の形をしています。その上には、「明萬曆三十七年造」(明王朝時代満暦37年製造)の八文字が鋳込まれています。

 舎利塔の全貌を概観してみると、塔の基壇の大きさは長さ27メートル、高さ1.8メートル、塔の基壇と、本体、頂上部分の三つを合わせた建物の高さは60.25メートルもあり高く聳えて大きく壮観な素晴らしい建物です。明王朝時代の隆慶年間に法門寺の修復工事が行われた際に、大工たちが地下宮に仏の骨が入った美しい宝の箱があるのを発見しました。

 「扶風県誌」(郷土史)の記述によると;「明の隆慶の時代に塔が崩壊した。蔵を見ると、非常に深く、精巧に作られており、金色と青緑色に光り輝いていた。池の水は銀色で、その上に金色の船が浮かんでいた。中の箱には仏の骨があり、傍には金の袈裟を纏った僧侶が付き添っていた。」と。しかし、工匠たちは不思議に思う余り、仏祖に対する崇敬から、敢えて、地下宮の宝箱の中の仏の骨について騒ぎ立てずに地宮をその後閉鎖し、その上に新しい宝塔を建設することとしました。

 清の順治十一年(1654年)、関中地区で再び地震が発生し、法門寺の塔は西南方向に傾き、多くの仏像が仏壇から地面に転げ落ちました。清時代の同治元年(1862年)、法門寺は再び動乱によって攻撃を受けて占領され、寺は破壊され災禍に見舞われました。


法門寺(百度百科6)
つづく