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春の福島歴史・文化短訪

I下郷町の大内宿

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2012年5月7日
 独立系メディア E−wave Tokyo


 2012年のGW中の5月1日〜3日、今年に入ってはじめて福島県内の放射線測定調査を敢行した。 放射線測定の前後、合間の限られた時間ではあったが、福島県内の歴史、文化を探訪した。

 昨年12月末は、会津若松、西会津、南会津の放射線測定を行い、会津若松では若松城、茶室麟閣を探訪した。 今回は、@三春町の滝桜、A福島市の花見山公園、B会津若松市の飯盛山(白虎隊自刃の地)、C福島県立博物館、D下郷町の大内宿の5カ所である。

●下郷町の大内宿

 前回の福島県内放射線調査は、2011年12月、真冬そして豪雪の中での会津若松、西会津、北会津、南会津の調査となった。

 宿泊地の会津若松市から南会津町町に行くとき下郷町を通過したが、当日は豪雪で天候不順だったため、大内宿に寄ることなく南会津の田島駅2階のイタリアレストラン「ヴォーノ」で名物のトマトラーメンを食べ帰京した。 

 
南会津田島駅2Fのイタリアン・レストランで食べられる
名物アスパラ麺のトマトラーメン

 下の論考はそのときに書いたものである。

◆青山貞一・池田こみち:<奧会津>下郷町の雪風景と大内宿

 今回も好天には恵まれなかったが、時間がとれたので調査を終えた5月3日の午後に会津若松市にある福島県立博物館を視察したあと南会津田島駅に向かう途中、バイパス経由で下郷町の大内宿に入った。

 今回バイパスを使ったこともあり、下郷町の大内宿がいかに山深い場所にあるかがよく分かった。下の写真はバイパス走行中の風景。


会津若松から大内宿に向かうバイパス走行中の風景
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3

 大内宿は、私たちがよく行く、長野県東御市の海野宿や群馬県中之条町の赤岩地区の養蚕農家同様、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 この制度は、文化財としての建造物を「点」(単体)ではなく「面」(群)で保存しようとするもので、保存地区内では社寺・民家・蔵などの「建築物」はもちろん、門・土塀・石垣・水路・墓・石塔・石仏・燈籠などの「工作物」、庭園・生垣・樹木・水路などの「環境物件」を特定し保存措置を図ることとされている。

 数少ない日本の景観を考慮した文化財、歴史的な建造物を保存する制度として注目に値するものだ。重要伝統的建造物群保存地区については、以下を参照して欲しい。

◆重要伝統的建造物群保存地区

 重要伝統的建造物群保存地区は、日本の文化財保護法に規定する文化財種別のひとつであり、日本の市町村が条例などにより決定した伝統的建造物群保存地区のうち、文化財保護法第144条の規定に基づき、特に価値が高いものとして国(文部科学大臣)が選定したものを指す。略称は重伝建地区、重伝建である。

 文化財保護法でいう伝統的建造物群保存地区とは、城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村などの伝統的建造物群およびこれと一体をなして歴史的風致を形成している環境を保存するために市町村が定める地区を指す。

 この制度は、文化財としての建造物を「点」(単体)ではなく「面」(群)で保存しようとするもので、保存地区内では社寺・民家・蔵などの「建築物」はもちろん、門・土塀・石垣・水路・墓・石塔・石仏・燈籠などの「工作物」、庭園・生垣・樹木・水路などの「環境物件」を特定し保存措置を図ることとされている。

 市町村は都市計画法に基づく都市計画または条例により伝統的建造物群保存地区を定め、文部科学大臣は市町村の申し出に基づき、その価値が特に高いものを重要伝統的建造物群保存地区として選定することとされている。2012年(平成24年)4月現在、日本全国で40道府県77市町村の93地区が選定されている。


伝統的建造物群保存地区についての詳細解説
撮影:青山貞一 Casio 2012.5.3


撮影:青山貞一 Casio 2012.5.3

◆大内宿の地理地形的な位置

 下郷町の大内宿は、奥羽山脈山中の1000m級の山々に囲まれた標高658m前後にある小規模な盆地の東端にある。実際、会津若松から国道4号線バイパスで大内宿まで行くと、つづら折りの傾斜が急な道を上って行くことになる。

 このバイパスは、以下の衛星画像の上から大内ダムの東側に沿って南下し、大内宿に到着することになる。


子安観音から見た大内宿 小雨と天気が悪かったが桜が満開で秀逸な景観である
撮影:青山貞一 Casio 2012.5.3

 その東側の崖下には小野川(阿賀野川水系。新潟市で日本海に流れ出る)が南流している。日本海側気候に属し、夏はフェーン現象で暑くなり、冬は豪雪となる。

 下のグーグルマップのAの旗が立っている場所が大内宿である。旧宿場区域と高倉神社周辺の11.3haが重要伝統的建造物群保存地区として指定されている。大内宿の北には大内ダムがある。こんなところにも今話題の揚水式水力発電があったのだ。

◆大内ダム

 福島県南会津郡下郷町大字大内字小野嶽、一級河川・阿賀野川水系小野川の最上流部に建設されたダムである。

 電源開発株式会社が管理する堤高102.0mの中央土質遮水壁型ロックフィルダム。

 揚水発電所である下郷発電所の上部調整池でもある。

 下部調整池である大川ダム(阿賀野川本川・国土交通省北陸地方整備局管理)との間で純揚水式発電を行うことで、認可出力1,000,000kWを発電する目的を有する発電専用ダムである。

出典:Wikipedia
出典:グーグルマップ 

◆大内宿の概要

 大内宿は上述のように南会津下郷町の山中にある。

 宿の全長は下の写真にあるように約450mあり、その往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並んでいる。

 江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残しており、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並んでいる。

 大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある。民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

 私たちが訪問した2012年5月3日はGWのまっただ中であった。小雨は降っていたが全国各地から観光客が多数訪れていた。訪問者は必ず駐車場に車を止め歩いて大内宿に行き、帰りに駐車料金を支払う仕組みになっている。乗用車の駐車料金は300円である。


大内宿の全景  出典:グーグルマップ

大内宿

 大内宿は会津と日光を繋ぐ会津西街道・下野街道の宿場町にある。宿場町とは行っても相当山深い山中にポツンと存在する100世帯にも満たない集落である。

 江戸時代、会津西街道が整備されると会津藩、新発田藩、村上藩、米沢藩などの参勤交代に大内宿は重要視されることになった。

 大内宿は回りが高い山々に囲まれている。そのため地理的、地形的に独立した宿場町として発展した。大内宿には本陣はじめ旅籠や問屋などが設けられ賑わいをみせた。

◆旅籠
 旅籠とは、江戸時代、旅人を宿泊させ、食事を提供することを業とする家のことである。旅籠屋の略である。旅籠という言葉はもともとは旅の時、馬の飼料を入れる籠(かご)のことであった。それが、旅人の食糧等を入れる器、転じて宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを旅籠屋、略して旅籠と呼ぶようになった。
 江戸時代の街道には宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていった。
 しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれたり、駅前に移転するところが相次ぐようになった。現在でも、旧宿場町の同じ場所で昔のままに旅館を営んでいるものは数えるほどしかない。
 混雑時には相部屋が求められ、女性の旅客は難儀をしたとされる。旅籠の宿泊代は概ね一泊200〜300文(現在の貨幣価値で3000〜5000円程度に相当)程度が一般的だったという。

◆本陣
  江戸時代以降の宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家をさす。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。
 宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かった。また、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣があった。
 本陣は、行程の都合などを勘案して指定された。そのため、宿泊に応じられる本陣のほか、小休止などに使われる原則として宿泊はしない本陣が指定されることもあった。宿場町であっても、前後の宿間距離が短い場合などには、本陣が置かれない場合もあった。

出典:Wikipedia

 明治維新後は街道制度が廃止され主要交通機関から外れた事で大内宿も次第に人や物資の往来が減少し衰退していった。

 その後、大内宿に近代化の波が訪れ、道路の舗装化や金属板葺きの屋根、アルミサッシなどが目立つようになったが、古い町並みが残っている事で昭和56年(1981)に宿場町としては妻籠宿、奈良井宿に次いで全国3番目に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

 さらに、大内宿を含む前後10キロには旧会津西街道の石畳や三郡境の塚、茶屋跡、一里塚、馬頭観世音碑などの遺構が見られることから国指定史跡に指定された。
 
 現在の大内宿は保存運動にも力が入り再び茅葺屋根に戻す民家が増え、舗装道路も撤去され水路を復活するなど古来の大内宿の姿に戻りつつある。

大内宿の由来

 会津城下と下野の国(日光今市)を結ぶ32里の区間の中で会津から2番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町である。

  南山通り・下野街道・日光街道・会津西街道とも呼ばれ、会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であった。

 また、以前の記録では天正18年(1590年)伊達政宗の小田原参陣、同年の豊臣秀吉の奥羽仕置きに当宿場を通行した記録がある。

 更に遡って山本村から大内と改められた経緯は、後白河天皇第3皇子の(第2王子) 高倉以仁王は、平家物語では1180年源頼政の勧めで平家を倒すため令旨を発し、兵を挙げたが宇治平等院での戦いで敗れ、渡部唱等と越後国小国の頼之を頼って逃亡したという。

 その途中、当時の山本村(現在の大内宿)に逗留され「高峰の風吹き戻す山本にこころとどめし道しるべして」と詠い、この里が宮中の大内(だいり)によく似ているため大内と改めたといわれる。

 王子を高倉大明神として観請し明治3年5月18日高倉神社と改めて今も尚 村の鎮守として祭られている。

 出典:大内宿観光協会


大内宿の手打ちネギそば屋
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3

◆高遠そば
 会津松平家の初代藩主保科正之は大変なそば好きだったと伝えられており、また二十数年信濃国高遠藩との密接な関わりがあり、この地域ではみそ味(みそ+大根おろし+ネギ)のそばつゆ「からつゆ」にて蕎麦が食されていた。 
 その後、保科正之が陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられたことがきっかけで、この「からつゆ」蕎麦の食べ方も会津地方に伝わり、発祥地の名を取って「高遠そば」と呼ばれるようになったが、その名が逆に会津から高遠地区に伝わって「からつゆ」蕎麦を「高遠そば」とも呼ぶようになり、それに対して出汁の効いた醤油味のつゆは「あまつゆ」とも呼ぶ。
 現在福島県の高遠そばは南会津郡下郷町の大内宿の名物として有名である。当地では箸が用意されず、付け合せの長ネギを用いて食す事が特徴である。

 大内宿を歩いていると両側に蕎麦屋が多いことに気づく。何でも大内宿の蕎麦は、長ネギ一本が付いてきて、箸を使わずそのネギで食べるのだそうだ。

 何でも会津の「高遠そば」は、大根おろしの絞り汁に醤油で味付け、場合によって鰹節を加えると言うものだが、その原型は味噌味のつゆ(からつゆ)だったようだ。


大内宿名物のネギ蕎麦
 
 私たちは長野県上田でよく辛み大根おろしをつゆに入れた絞り汁醤油でいわゆるせいろ蕎麦を食べたが、これも会津の「高遠そば」が信州に逆輸出されたのかも知れない。

 何しろ蕎麦やが多い。もっぱら、長野県、群馬県など地味が悪い土地柄で蕎麦が栄えたとすれば、福島県西部の中山間地もそれに含まれるのだろう。福島県の浜通、中通りのように田んぼ、畑で果樹や穀物を栽培しづらかった会津地方、それも中山間地で蕎麦が流行のはある意味当然である。


大内宿の蕎麦どころ
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3

動画撮影:青山貞一 2012.5.3 下郷町の大内宿にて


大内宿の蕎麦やころ
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3


子安観音から望遠で撮影した大内宿。小雨だったが多くの人手でにぎわっていた
撮影:青山貞一 Casio 2012.5.3

 大内宿に限らず海野宿でも駄菓子やキンツバ、太鼓焼きなど、江戸時代からのスナック菓子が軒先に並べられて、観光客は昔ながらに買い食いする。私たちも一個100円の熱いキンツバを頬張った。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3


駄菓子屋の前で
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3


大内宿ではレンギョウが満開!
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3


清楚な生け花が
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3
 

子安観音から見た大内宿
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2012.5.3

◆大内宿の祭り・イベント

@半夏祭り - 例年7月2日の半夏生に行われる、高倉神社の祭礼。

A江戸時代には、同社が祀っている高倉宮以仁王の命日である(旧暦)5月19日に実施していた。

 (旧暦)5月19日は概ね梅雨の時期だったが、明治6年(1873年)から新暦が採用されると、(新暦)5月19日は農繁期と重なってしまって開催が困難になった。そのため開催日を遅らせて半夏の日に実施することになり、五穀豊穣を祈る「半夏まつり」になった。

B下郷町大内宿防災会防災訓練 - 例年9月1日(防災の日)に開催される。

C地区内28基の放水銃が、空に向かって一斉に放水を行う。

DLa Festa Mille Miglia - 10月初旬〜中旬の1日のうち数時間。

Eクラシックカーレース「La Festa Mille Miglia」のコースの一部となり、旧街道にクラシックカーが並ぶ。

F大内宿雪祭り - 例年2月の第2土・日に開催される[30]。街道沿いに並ぶ雪灯籠で知られる。

G土曜日:日本一の団子さし、具止餅拾い、「郷人」よさこい、三志神楽、ボタ引き競争、きき酒大会、御神火載火・花火大会

H日曜日:わらじ履き綱引き大会、大川渓流太鼓演奏、そば喰い競争、時代風俗仮装大会

大内宿への行き方
 磐越自動車道 会津若松ICから国道49号、118号などで約35km
 宿場内は車両進入禁止、大内宿有料駐車場を利用 1回300円

◆大内宿の放射線量測定値 2012年5月3日 小雨

 地上1mで 0.06〜0.08μSv/h、

 測定:青山貞一、池田こみち 環境総合研究所
 
 なお、大内宿に近い温泉は以下の通りである。

湯野上温泉:大内宿から約5.2km
 山あいを流れる大川をはさんで、旅館が点在する静かな温泉郷。大川の川床が源泉という珍しい温泉。また、大川に注ぐ渓流はヤマメやイワナ、アユ釣りのメッカでもあり、どの宿でもおいしい川魚を味わうことができる。
福島県南会津郡下郷町大字湯野上

芦ノ牧温泉:大内宿から約5.8km
 会津若松市の南に位置する山と緑に囲まれた、自然をたっぷり満喫できる玄関口として、古くから親しまれた温泉郷。会津若松市街地から車で約25分とアクセスも良く、手軽な旅情感を味わうことができる。
福島県会津若松市大戸町芦牧

大川荘:大内宿から約5.8km
 大川沿いに旅館が立ち並ぶ温泉街の中で、随一の規模を誇る。木組みの屋根に岩造りの湯船を配した名物の空中露天風呂は、清水の舞台のように、川の断崖からせり出すように造られた。川面から10mの高さにあるので、目の前で四季折々の森と清流の渓谷美を楽しみながら入浴でき…
福島県会津若松市大戸町大字芦ノ牧字下平984


本特集おわり