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春の熊本歴史短訪
@築城の名士、加藤清正
による熊本城
青山貞一
掲載月日:2012年5月14日
 独立系メディア E−wave Tokyo

春の熊本歴史探訪
@築城の名士、加藤清正による熊本城
A公開された絢爛豪華な本丸御殿
B往事の大名屋敷、旧細川刑部邸

 この土日(2012年5月12日〜13日)、がれき広域処理問題の講演と助言で熊本市にでかけておりました。

 13日(日)午前中、ひさびさに熊本市内を歩き回りました。

 九州には福岡県を中心として過去40年で50回以上行っていたのですが、こと熊本県には大学卒業後、アジア経済研究所時代、日中国交回復の記念講演で研究所の方々のカバン持ちとして福岡、長崎、熊本、鹿児島を巡業して以来、40年ぶりということが分かりました。

 現在、熊本市は人口70万人超、この4月1日から政令指定都市になっており、大きく様変わりしていました。これにはびっくりです。

 熊本城を築城した加藤清正は、慶長年間、豊臣秀吉が朝鮮出兵したときその先陣を切ったことで有名です。もっぱら、韓国のソウル市の中心部には、その加藤清正を撃退した猛者の彫像が建っています。

 宿泊先の東横イン新市街から須戸口門(下の図の右側)には歩いて10分もかかりません。門から幾重にも重なる有名な石垣の谷間を上って行きます。重たいパソコンをもっているので結構大変です。

 下は3時間かけ私が歩いた熊本城探訪コースです。

 須戸口門から入り熊本大神宮→東竹の丸→二様の石垣→閤り御門→本丸御殿→大銀杏熊本城天守閣(最上階まで登る)→首掛石→宇土櫓→頬当御門で外に出るというコースを歩きました。


3時間かけ歩いた熊本城探訪コース 
出典:入場時にもらったパンフレットより

 結局、熊本市内で講演がはじまる1時間前の午後1時まで、都合3時間半ほど熊本城とその周辺を短訪することになりました。そのうち、2時間半を熊本城、1時間を旧細川刑部邸など城の外に費やしました。

●日本を代表する秀逸な城、熊本城


有名な熊本城の石垣
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13

 標高100m以上、地上からでも50m以上の5階構造の熊本城の最上階までのぼりました! 途中、加藤清正築城から西南の役までの史実の文物が展示されています。 

 10日ほど前まで福島県に放射線調査で戊辰戦争の拠点、会津藩にいたこととあわせると何とも不思議な取り合わせです!


日本三大名城のひとつ熊本城
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13

◆熊本城

 熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

 中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。

 細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。

 現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

 サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。

出典:Wikipedia


加藤清正が築城した熊本城
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13

 かつて日本には25000以上もの城があったと言われていますが、以下に示すように、熊本城は日本を代表する秀逸な城にさまざまな観点から選ばれています。

 実際、3時間、城の内外を歩き回わりましたが、確かに過去見た日本の城の中で熊本城は秀逸、希有な城であると言ってもよいだろう!

三大名城

江戸城、名古屋城、大坂城

おもに城郭の規模をもとにした選定。

◆設計者による三名城

名古屋城、大坂城、熊本城

江戸時代初期、城造りの名手と言われた加藤清正、藤堂高虎が普請した城のうち、特に機能美に優れた3つの城を選んだ説。この説によれば、姫路城は池田輝政の手によるものなので三名城に該当しない。

江戸時代の天守

名古屋城、姫路城、熊本城

1665年(寛文5年)に天守が落雷で焼失していた大坂城を外し設計者にとらわれず、代わって著名な姫路城を入れたものと考えられる。

◆日本名城百選

大坂城、熊本城、江戸城

2008年に発表された『日本名城百選』の「日本名城ベスト10」に選定されたもののうちの上位3位である。名古屋城は4位、姫路城は7位に選定されている。

出典:Wikipedia

◆加藤清正と熊本藩

 熊本城といえば加藤清正である。加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、大名です。

 肥後国、熊本藩の初代藩主である。別名は虎之助。朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから「虎拳」という遊びの元になったそうです。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人です。

 その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられています。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となっています。


加藤清正

◆加藤清正と文禄・慶長の役

 加藤清正は文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。

 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。

 漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定。

 現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。更に清正は朝鮮の国境豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した。

 明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長・石田三成らは、清正が講和の邪魔になると見て、彼を秀吉に讒訴。


加藤清正進路(青線)

 清正は京に戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。しかし慶長地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許された。

 慶長2年(1597年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。しかし敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった。

 慶長2年(1597年)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。

 未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に20,000人の損害を与える勝利へと導いた。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるが、この時には城も完成しており、前回ほど苦戦せずに撃退した。

 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。
 
 京都市左京区の大徳寺総見院には清正が朝鮮より持ち帰ったとされる朝鮮石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸が残る。

出典:Wikipedia

 私は、 加藤清正については、朝鮮出兵の拠点となった佐賀県の名護屋の佐賀県立名護屋博物館、そして韓国のソウル歴史博物館を見学した際にも、その歴史的存在を見ています。

◆青山貞一:初秋の肥前歴史短訪 J名護屋城博物館

 とりわけ韓国のソウル(漢城)では「朝鮮民族」の敵として恐れられ、また加藤清正と闘った勇猛果敢な人物を今でもソウル市の目抜き通りに彫像をたて称えているなど、立場が変わると180度評価が変わっています。

◆李 舜臣(り しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年3月8日(明暦:嘉靖24年) - 1598年11月19日(明暦:万暦26年)

 文禄・慶長の役時の朝鮮の将軍。死後に贈られた謚は忠武公(???)。文禄・慶長の役においては、朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った。死後から20世紀になるまで無名であったが現在の韓国においてはその功績が評価されて国民的英雄となっており、肖像画が紙幣や硬貨に描かれたり、韓国各地に銅像が建てられている。


ソウル市(旧漢城)光化門広場の目抜きに立つ李 舜臣像

出典:Wikipedia

 他方、豊臣秀吉、加藤清正は、利休から茶の湯を学び、嗜んでおりました。以下は佐賀県の朝鮮出兵の拠点となった名護屋城と窯業、茶の湯との関係について書いたものです。

◆青山貞一:初秋の肥前歴史短訪 K名護屋城と朝鮮唐津〜窯業と茶の湯〜

 最上階からの熊本市内の眺めは、実にすばらしかったです。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S8 2012.5.13

 以下は熊本城の歴史。 出典:熊本城公式ホームページ

1496年(明応5年)鹿子木親員、茶臼山西南麓(現在の古城)に築城
1550年(天文19年)大友宗麟が城主を鹿子木氏から城親冬にかえる 
1587年(天正15年)豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主とする
1588年(天正16年)加藤清正、隈本城に入城
1601年(慶長6年)茶臼山に築城着手
1607年(慶長12年)新城完成、隈本城を熊本城に改称
1611年(慶長16年)清正死去、加藤忠広が相続
1632年(寛永9年)細川忠利肥後54万石領主として熊本城入城
1871年(明治4年)廃藩置県により肥後藩が熊本県となる鎮西鎮台を
     熊本城内に設置
1877年(明治10年)西南戦争、熊本城炎上
1927年(昭和2年)宇土櫓解体修理、長塀改築
1933年(昭和8年)熊本城全域を史跡に、建造物を国宝に指定
1950年(昭和25年)国宝建造物が重要文化財に指定(文化財保護法改正)
1955年(昭和30年)史跡熊本城跡が特別史跡に指定
1960年(昭和35年)熊本城天守閣が復元落成
1989年(平成元年)数寄屋丸二階御広間復元
1991年(平成3年)9月の台風19号で甚大な被害を受けたため、天守閣を大改修
1993年(平成5年)旧細川刑部邸を東子飼町から三の丸に移築復元
2002年(平成14年)南大手門復元
2003年(平成15年)戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓復元
2005年(平成17年)飯田丸五階櫓復元
2008年(平成20年)本丸御殿大広間復元
2009年(平成21年)第U期復元整備事業着手

つづく