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初秋の上州
歴史・文化の拠点を行く

Dその後の常林寺

青山貞一 池田こみち
掲載月日:2013年9月15日
 独立系メディア E−wave Tokyo

 内 容 目 次
@ 渋川市の水澤寺 E 常林寺の道祖神と秋花
A 四百年の歴史をもつ水澤うどん F 蘇れ草軽鉄道
B 浅間山大噴火と鎌原観音、常林寺 G 旧草軽鉄道と高峰秀子
C 浅間山大噴火と天明大飢饉 H 旧北軽井沢駅
D その後の常林寺 I 旧北軽駅周辺の自然

 天明の大噴火以降、常林寺は、「天明浅間押し三百年記念碑」の記述にあるように、今井村の仮寺から二十余年、信徒が汗血を注いだ伽藍が再建される文政年間まで四十余年の苦難の歩みを辿っている。

天明浅間押し三百年記念碑

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 當山常林寺にあっては狩宿村黒源宅に斎出向中の歓鳳住職と田代村に檀用泊まり込みの龍道僧を残し、折しも吾妻川から逆流した浅間泥流によって留守居の六人と川向う大地にあった堂宇一切を奪い去り全村流出の小代 小宿両村と命運をともにした。

 斯くて今井村仮寺から二十余ヶ村檀信徒の汗血を注いだ伽藍再建の熱願みのる文政年間まで四十余年の苦難の歩みを辿った。

 明治四十三年水害後の川原畑吾妻川底に龍頭を失った光る梵鐘を発掘して唯一の災害物証を挙げ近くその龍頭も二百年後の現世にまみえるとか。

 今や天明浅間押し以来 二百年を数える豊かな昭和の代を迎えここ小宿川のほとり常林禅寺門前に泥流に流れ去った三原谷三十四番霊場第六番穴谷観音を再興し この日開眼法会を挙行して諸精霊の供養に捧げ 永久に天地の安泰を冀(こいねがう)う。

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 文政年間に再建された常林寺であるが、その後、小宿川のほとりに移った常林禅の寺門前に泥流に流れ去った三原谷三十四番霊場第六番穴谷観音を再興している。 

 下の写真は、「天明浅間押し三百年記念碑」の記述にあるように、浅間山大噴火の火砕流で川原畑近くの吾妻川まで流れ落ち、後に見つかったという鐘楼である。鐘楼にあった龍頭はなくなっていたが、明治43年の水害後に発見されている。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2013-9-12

 下は鐘楼の前の青山貞一。この寺と自然との融合、共生は見事である!


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2013-9-12

 本堂と鐘楼のおくにある一列に並べられた小さな仏様の一番左の碑に刻まれた年代をみたところ、「享和元年」とあった。

 享和元年と言えば、天明3年(1783)の浅間山噴火から18年後(1801)にあたる。きっとその間になくなられた村民のためにたくさんの石仏や道祖神、石碑などが作られ神社やお寺に奉納されたものだと思われる。


常林寺の南はずれにあった石仏や道祖神の数々
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-5-3

 ところで、以下の碑文にあるように、浅間山北山麓一帯は、江戸幕府の御林として知られ関係区域諸村の入会地であり、そこから薪炭、馬草を売ることで集落の現金収入としてきた。しかし、この入会地に依存した天恵の資源からの収入も隣村との間で争を生じることになったという。

 争いを解決するために江戸幕府に直訴しているうちに、明治の世を迎えることになり、入会地の全区域が国有林に編入されるを知り 集落一致結束し国に払い下げ運動を起こし最終的にその目的を達した。

 それ以来、(森林)組合を設立し、維持植栽に尽してきた。そして天正十一年、長野原・嬬恋における公有林と個人有林に区分するに際して子孫の大きな受益となったことは、先祖の偉業であり、歴代役員らの功労によるものであるとし、三百年の積恩を後生に伝えるため常林寺一角に此碑を建てたとある。


南本山功労者顕彰碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12

◆南本山功労者顕彰碑

曹洞宗管長 高階瓏仙題額

 浅間山北裾は古来南木山とよび江戸幕府の御林として知られ関係区域諸村の入会地であった凡そ薪炭馬草用材を始め現金収入の多くは、この南木山の入会地に依存した天恵の資源を窺う隣村との間に争を生じたが、直訴の末防衛することしばし明治の世を迎えるや図らずも全区域の国有林編入を知り 一致結束して払い下げ運動起ち遂に目的を達す。

 以来組合を設立し、維持植栽に尽したが天正十一年に長野原嬬恋の公有林と個人有に区分した今日子孫の受益甚大にして今更先祖の偉業を謝すると共に、歴代役員諸氏の功を賛仰し三百年の積恩を追遠回向し後生に伝えるため常林精舎の辺に此碑を建つ

昭和三十九年六月 萩原進文 米倉大講書


現在の常林寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12


現在の常林寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12

 常林寺本堂の天井には、すばらしい龍の絵が描かれている。


現在の常林寺の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12

 一方、常林寺には、嬬恋村指定の重要文化財の「享禄の経筒」がある。この経筒は、明治44年、嬬恋村大字三原字岩井堂地内で畑造成中に発見されたものである。

 高さ約10.5cm、直径約4.5cmの盛蓋銅製円筒型で、筒身の側面には、「越前国(福井県)平泉寺の聖(布教者)弘朝が享禄三年(1530)法華経を写経して奉納した」旨が記されているという。

 この経筒の存在は、室町時代(戦国期)、北陸地方に拠点を持っていた白山修験者が嬬恋村地域にも波及していたことを示すものである。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12

嬬恋村指定重要文化財(考古資料)

            享禄の経筒

(指定)昭和51年6月8日
(所蔵者)群馬県吾妻郡長野原町大字大桑547
     龍燈山常林寺

 経筒は、明治四十四年、嬬恋村大字三原字岩井堂地内において、畑の造成中に発見されたもので、高さ約10.5センチメートル、直径約4.5センチメートルの盛蓋銅製円筒型で、筒身の側面には、「越前国(福井県)平泉寺の聖(布教者)弘朝が享禄三年(1530)法華経を写経して奉納した」旨を記している。

 経典を写経して奉納することは、特定の地域統率者が現世利益や追善供養のために行ったと見られるが、このように使用された経筒は群馬県内でも十例ほどしか確認されていない。

 この経筒の存在は、室町時代(戦国期)、北陸地方に拠点を持っていた白山修験者が嬬恋村地域にも波及していたことを示すものとして重要である。

 現在、この経筒は、長野原町の常林寺において保管されている。

平成二十一年九月設置
                      嬬恋村教育委員会

 下は境内から入り口の方向を撮影したもの。年代物のすばらしい赤松もあった。


常林寺境内から入り口の方向を撮影したもの
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-9-12


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2013-5-3

つづく