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日航機墜落事故を再検証B

青山貞一

掲載月日:2013年8月16日
 独立系メディア E−wave Tokyo


 ところで、御巣鷹の尾根の墜落現場近くに住む地元住民が8月12日、オフロードバイクで6時間ほどかけ御巣鷹の尾根に入ったら、何と暗闇で自衛隊員が7〜80人、いや100人位の自衛隊特殊部隊が必死に拾い物をしていたという以下の証言があります。

◆事故当日、オフロードバイクで墜落現場に到達した地元住民ヒヤリング

司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。

M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の(午後、筆者注)7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に一番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけ
です。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?

M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイが着いてきましたから。でも、普通のバイクなので切替しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか?どれくらいの人が生きていたのでしょう。

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4〜50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4〜50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう。

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか。

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これで大丈夫なのかなと思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4〜50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。

Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)

Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。

 上記ヒヤリングの対象となった地域住民によれば、彼らが到着した8月13日の明け方(午前4時頃)の時点では50名ほどのJAL123乗客等の呻き声が聞こえていた(生存者がいた)と証言しています。

 結局、翌8月13日になってから一連の捜索が開始され、生存者4名が救出されるのですが、なぜ政府は米軍の救援、救助を断ったのか? またなぜ、13日の明け方に自衛隊の特殊部隊が現地で救助をせず、拾い物をしていたのか?

 とくに、12日深夜から現地に入り、明け方以前に御巣鷹の尾根に到着した自衛隊の特殊部隊が人命救助もせず飛行機の破片などの回収をしていたことについては、疑問だらけといえます。

 一方、以下の時事通信記者の記事を読むと、ほとんどすべてのマスコミは、8月12日ではなく、8月13日の朝になってから現地に向かっていることが分かります。

 すなわち、時事通信の記者、カメラマンは8月13日の昼前に現地に行く自衛隊と合流し、やっとのことで13日午後に御巣鷹の尾根の墜落現場に入ったのですが、彼らは、自分たちが一番乗りではないかと書いています。しかも、記者等は13日朝から御巣鷹の尾根に登り、目的地につくまでに7時間かかったと述べています。

★御巣鷹の真実 25年を経て記者が語る日航ジャンボ機墜落事故 時事通信

 すなわち、表向きの消防団、自衛隊、警察などの救助は、8月13日の午後あたりからであることが分かります。

 もちろん、上記の原因説も決定的な証拠があるわけではありませんが、多くの目視証言や生存していた非番の日航スチュワーデス証言、墜落現場にいち早く駆けつけた地元住民証言、飛行機の窓から撮影した写真、操縦士、副操縦士のボイスレコーダー内容、救助に向かった米軍C130関係者の証言・ビデオ、その後の日本政府、自衛隊、事故調査委員会の対応、さらに多くの著作などから見ると、あながち荒唐無稽な妄想ではないようです。

 以下の論考、ボイスレコーダー追跡詳細動画、また住民ヒヤリングに私が概略を述べたことの詳細があります。結構、読むだけで大変ですが、関心がおありの方は是非、ご一読下さい。

 なお、当時の総理大臣は、「不沈空母」と豪語した中曽根政権、防衛庁長官は加藤絋一です。当時、中曽根氏は「真相は、墓の中まで持って行く」と発言していたそうです。

<JAL123便日航機事故 関連論考、証言、動画など>

◆JAL123便 日航機墜落事故の真相  動画つき
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm#S3

◆航空事故調査報告書に基づく操縦室用音声記録装置
 (ボイスレコーダー:CVR) の記録
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123_CVR.htm#top

◆出典:事故調査委員会報告の解説
http://www.mlit.go.jp/jtsb/kaisetsu/nikkou123-kaisetsu.pdf