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真夏の群馬北西部短訪

@浅間山大噴火と鎌原観音
青山貞一
掲載月日:2012年8月23日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁

 ◆特集:真夏の群馬北西部短訪 2012.8.17-8.20
@浅間山大噴火と鎌原観音  H暮坂高原の「花楽の里」
A迷走つづける八ツ場ダムと工事現場  I上信越県境の野反湖
B八ッ場ダムは公費乱費の典型  J品木ダムと草津温泉
C江戸の中山間地の生活を今に伝承  K四阿山とバラギ湖
D群馬満蒙拓魂之塔と浅間牧場  Lパノラマライン北ルート
E六合村の赤岩養蚕集落  M白根山をトレッキング
F六合村の赤岩神社  N「毛無峠」と小串硫黄鉱山跡
G六合村の上の観音堂  OGPSによる移動経路図

 毎年、ゴールデンウィークや夏休みにでかけている群馬県北軽井沢にある研究所の別荘だが、昨年は3.11の関係で4月から12月まで被災地に頻繁に現地調査を行うこととなり、夏休みに一度だけ出かけるだけだった。

 今年も例年でかけているゴールデンウィークに行けなかったが、夏休み中の2012年8月17日夜、以下のメンバーで北軽井沢別荘に夜に東京を出発し深夜に現地に到着した。

 参加メンバー
   青山 貞一  環境行政改革フォーラム代表、環境総合研究所顧問
   池田こみち  環境行政改革フォーラム副代表、環境総合研究所顧問
   鷹取 敦    環境行政改革フォーラム事務局長、環境総合研究所代表
   奈須 りえ  東京都大田区議会議員
   北澤 潤子  東京都大田区議会議員

 群馬県の北軽井沢は、長野県にあるいわゆる軽井沢地区よりも標高が200−300mも高い1200mの浅間高原の真ん中にあり、軽井沢よりもさらに2から3℃も低く、東京よりも10℃から15℃も気温が低く、湿度も格段に低いため真夏でも非常に快適である。明け方は15℃前後となることもあり、寒いくらいである。







 翌8月18日土曜日は、天気予報では雨が70%とされていたものの、現地は朝から夕方まで快晴、夕方になって少し雨が降った程度であった。ちなみに今回は、20日まで滞在するが、19日以降は天気予報でも快晴となっていた。

●浅間山大噴火と鎌原神社

 18日は起床、朝食後、近くの鎌原観音に全員でお参りした。

 鎌原観音は、天明年間(1781年から1788年までの期間)に浅間山が大爆発し、溶岩や土石流が北側にある吾妻川まで流出した際、鎌原村の村民が高台にあるこの鎌原観音に走って逃げ込み、命が助かったと伝えられている。


2004年10月14日噴火のとき撮影した写真
撮影:重田学氏


鎌原観音の「階段」
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10

 浅間山の大噴火は、天明3年7月6日に起こった。死者が約2万人、折からの天明の大飢饉がこの大噴火で更に深刻化したと言い伝えられている。

 
今回は時間の関係で訪問しなかったが、鎌原観音の隣には、下の写真にある郷土資料館があり、天明の浅間山大噴火と鎌原村についての貴重な文物が展示されている。


嬬恋村郷土資料館
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.5


天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村
上側にあるのが浅間山。下側が鎌原村。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.5
出典:鎌原村郷土資料館


天明3年(1783)の浅間山大噴火と鎌原村
上側にあるのが浅間山。下側が鎌原村。
出典:鎌原村郷土資料館
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.5

◆天明3年(1783)の浅間山大噴火鎌原村

 
天明3年の大噴火は5月9日にはじまり、7月26日以降は絶え間ない噴火が続いた。8月4日には遂に吾妻火砕流が発生。翌5日にはあの悲惨な鎌原火砕流と鬼押し出しの溶岩流を起こし、しばらく終息に向かった。

 この噴火はすごい者で、「浅間山変異記」によると、「8月5日、暁4時より甚だしき大焼く、8時より11時に至る3時間は前代未聞の噴火にて、鳴動の激烈なること千萬の雷、一度にとどろくというも愚かなり。総身唯是。恐怖の魂。痛烈なる響音は、棒をもって胸を突き倒すごとくなり」と記されている。

 噴煙は関東に流れ、砂石を含む降灰は離山以東の軽井沢に4尺(焼く1.32m)、碓氷峠に5尺余り、松井田2尺、安中・高崎は1尺、遠く江戸にも一寸あまり(焼く3.3cm)に及んだという。浅間北麓の吾妻郡鎌原村を中心に火砕流に見回れ、犠牲者は総数1,370余名にのぼった。3尺を越す熱灰をこうむった地域の植物はほとんど死滅したと思われていた。


                 
 (長野県立小諸高等学校地学クラブの研究より)

 浅間山大噴火の被害については、群馬県指定文化財のなかに以下のような記述もある。


 
天明3年の浅間山噴火により、旧鎌原村落は土石流に襲われ、118戸、477人、馬165頭は一瞬のうちに流失し、台地にあった観音堂だけが唯一の建物として残りました。 その後、生き残った90数名の人たちが被災者の供養を続けながら、村の再建に努めてきました。

                      出典:群馬県指定文化財

 以下は2009年のゴールデンウィーク時に撮影した鎌原観音である。

鎌原観音


嬬恋村の鎌原神社
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2009.5.2

 この鎌原神社は、天明の浅間山大噴火で多くの村民が亡くなったなか、下の写真にある観音様の階段を上りつめた数10人の命が助かったことから、今でも嬬恋村村民にとって大切な観音様となっている。


鎌原神社の「階段」
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2009.5.2 


嬬恋村の鎌原観音にて
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.11.2


 以下の写真は2008年11月に撮影したものである。


嬬恋村の鎌原観音にて
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.11.2



 3.11の巨大津波発生時も、高台にある神社に逃げ込んだ住民が助かった現場をたくさんで見てきたが、火山爆発でも同じようなことが200年以上前にあったことになる。

 この観音には、火砕流に追われ観音に逃げ込んだ村民の中で、母親をおんぶし階段を上ろうとし、途中で息が絶えた親子の遺骨の以下の写真が展示されている。

 詳しくは隣にある郷土資料館に資料や写真がある。

 
    火砕流に追われ観音に逃げ込んだ村民の中で、
    母親をおんぶし階段を上ろうとし、途中で息が絶えた親子の遺骨
    撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


上記親子それぞれの顔型。現在ならDNA鑑定すれば
親子であるかがどうかがすぐに分かるだろう。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


鎌原観音にて 左から北澤さん、奈須さん、池田さん
撮影:鷹取敦 Digital Camera CASIO EX-H20G

 8月18日朝にお参りした鎌原観音には、多くの参拝客がいて、お年寄りの説明に聞き入っていた。


鎌原観音の階段にて 池田こみちさん
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 鎌原観音のお堂の隣には、かやぶき屋根の小屋がしつらえられている。そこには毎日、地元のお年寄りが朝からお昼過ぎまで詰めていて、お参りする人々に御茶やおつけものを用意している。

 おつけものは鎌原キュウリや高原キャベツの塩漬け、タクアンなどだが、とても美味しいので、いつも楽しみに頂いている。御茶を飲みながら、お年寄りとしばし談笑。いろいろなお話しを聞くことが出来る。


鎌原観音で資料を頒布する地元のひと
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.5

 ガスの設備がないため、一年中囲炉裏に火を絶やさない。お陰で、小屋の天井は真っ黒にすすけて黒光りしているが、すすで燻されているので虫がわくこともなく、茅葺きの屋根には草や木も生えていない。

 一方、観音堂の茅葺き屋根には、たくさんの草や実生のちいさな木が生えていた。「日本のポンペイ」(以下参照)の遺跡は、地元のお年寄りたちによって大切に守られている。

◆青山貞一 南イタリア紀行〜ポンペイ〜

@ポンペイ遺跡探訪 ソレントからポンペイへ
Aポンペイ遺跡探訪 バジリカ・フォロ
Bポンペイ遺跡探訪 生活・富裕家のフラスコ画
Cポンペイ遺跡探訪 闘技場・大体育場・娼館
Dポンペイ遺跡探訪 街路計画・排水路
Eポンペイ遺跡探訪 秘儀荘
Fポンペイ遺跡探訪 人体レリーフ

つづく