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グアム島現地総合調査


参考・グアムの戦い5
日本vs米国・ Battle of Guam

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2019年1月24日公開
独立系メディア E-Wave Tokyo 
無断転載

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 参考・グアムの戦い地図

日本軍の壊滅と掃討戦 


グアムの戦跡 ガン・ポイントに残されているトーチカに
刻まれた「高木隊 第二分隊 13名」という文字
Source: Wikimedia Commons

 総攻撃を撃破した米軍は、翌日の26日朝から、マンガン山の日本軍残存部隊を攻撃、第48旅団重松旅団長以下司令部要員は自ら銃を取って戦いましたが全滅し、重松旅団長も戦死しました。

 第31軍司令官小畑英良中将と第29師団長高品彪中将は、残存兵力を持って北部密林地帯での持久戦を決意し、各部隊へ持久戦移行の命令を出しました。

 司令部のあった本田台より小畑中将が先に脱出しましたが、師団長の高品彪中将は28日に戦車数十両で本田台に攻めてきた米軍との戦闘に巻き込まれて戦死しました。 師団の指揮は小畑軍司令官が師団長代理として直卒したが、軍として組織的な作戦は困難となっていました。

 小畑中将は北部撤退当初には約3,000名の兵士を掌握していました。 日本軍残存部隊は、ジャングル内を追撃してくる米軍相手によく遅滞戦術を行いました。

 8月2日にはパリガタ(日本名 春田)地区で戦車十数両、歩兵200名の米軍を、歩兵第38連隊の第3歩兵砲中隊が迎撃し、戦車2両を撃破し歩兵100名を死傷させましたが、馬場中隊長は戦死し、残った部隊は米国戦車に肉弾攻撃を行いました。

 翌3日には平塚方面に攻撃してきた米軍に残存砲兵で集中砲撃を加え、数両を撃破し、十数両を擱座させたが、米軍の反撃で砲兵は全滅しています。

 以上のように日本軍は善戦はしたものの、死傷者も増加してゆきました。また飢えや病気などで斃れる兵士も増えていたのです。

 米軍は次第に日本軍の防衛線を突破すると8月10日には第31軍司令部のある又木山に達しましたが、その際には小畑中将が掌握している戦力はわずか300名となっていました。

 これ以上の撤退は無理と察した小畑軍司令官は11日に最後の総攻撃を命令しました。残存していた戦車10両は果敢に米軍戦車に戦車戦を挑むも、戦車の性能の差は大きく全両撃破されました。もはや殆ど武器も持たない日本軍歩兵は銃剣突撃したが全滅し、小畑軍司令官と田村参謀長も自決、日本軍の組織的な抵抗は完全に終わったのです。

 その後、米軍は北部に達し、島の完全占領を成し遂げましたが、一部の生き残った日本兵は飛行場を襲撃したり、交通・通信網を遮断するなどのゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行いました。

 しかし、殆どの敗残兵はゲリラ戦というよりは日々生き延びることがせいぜいであり、密林内には食物はおろか飲み水すらまともになく、兵士たちは葉に付いた露で渇きを癒し、蛙やヤドカリまで口にして飢えを凌ぐ有様であったといいます。

 米軍は日本軍の敗残兵を軍用犬も活用し掃討を行いました。グアム島では軍用犬が大規模に投入されており、350匹の軍用犬とハンドラー(調教師)90名が日本軍の狙撃兵探索や、洞窟や陣地の捜索や、伝令の任務を就いています。また、兵士が就寝中に日本軍の夜襲を警戒する任務も行い、兵士の安眠の手助けをしています。グアム戦中に死んだ軍用犬は25頭で負傷犬は20頭でした。

 陣地構築の際の強制労働や占領時の収奪などで日本軍に恨みを抱いていた現地チャモロ人も掃討作戦に協力しています。密林に潜んでいた日本兵は7,500名と推定されていましたが、捕虜となったのは合計で1,250名に過ぎず、他は米軍の掃討で戦死するか、自決しましたか、病気や飢えで亡くなっています。それで最後の日本兵が降伏したのは終戦後の1945年9月4日の事でした。


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