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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


ジャコバイトについて2


青山貞一
Teiichi Aoyama  
池田こみち Komichi Ikeda
2017年12月10日公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁
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 ネス湖  アーカート城  アーカート城博物館  フォート・オーガスタス
 フォート・ウィリアム1   フォート・ウィリアム2   グレンコー  
 グレンコーの大虐殺1  グレンコーの大虐殺2  グレンコーの大虐殺3
 グレンコーの大虐殺4  グレンコーの大虐殺5
ジャコバイトについて1  ※ ジャコバイトについて2


 本稿の出典はWikipedia です。

ウィリアム3世暗殺未遂事件(1696年)

 別名フェンウィック陰謀事件とも呼ばれるこの事件は、1696年当時、大同盟戦争で不利な状況にあったフランスが黒幕でした。ジェームズの庶子ベリック公がその任を受け、イングランドに渡りジャコバイトを組織化してクーデターを計画しましたが、2月22日に露見し、300人以上が逮捕されることとなりました。

 しかし、このクーデターに参加した者ないし積極的に反対しなかった者の中には大物政治家・軍人が多数含まれており、名誉革命体制がいまだ砂上の楼閣であることを印象づけました。

1715年の反乱

 後に「the 'Fifteen」(ザ・フィフティーン、「あの15年」の意)とも呼ばれるほど深刻で衝撃的だったこの武力蜂起は、1714年のハノーヴァー朝成立、ジョージ1世のグレートブリテン王国国王即位に端を発しています。

 アン女王の死に伴い、北ドイツの有力諸侯であったハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒは、王位継承法の規定に基づいてジョージ1世として即位しました。

 しかしグレートブリテン王国全体がこれを唯々として受け入れたわけではなかったのです。確かにジョージ1世はステュアート家の血を引いてはいましたが(母方の祖母エリザベスがアンの曾祖父ジェームズ1世の娘でアンとは又従兄)、ジェームズ2世から5親等も離れており、ジェームズ2世の子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ老僣王、自称ジェームズ3世)が存命中だったこともあわせて、グレートブリテン王国内は騒然となりました。

 バーミンガムやオックスフォードなどで民衆暴動が起こり、さらに1715年の総選挙で大勝したホイッグは、それまで政権を担っていたトーリーに対する苛烈な弾圧を加えました。これには1713年のユトレヒト条約がグレートブリテン王国に経済的利益をもたらす一方で、同盟国であるドイツ諸邦やオランダを切り捨てる行為でもあったため、ジョージ1世がトーリーを信用していなかったという側面もあります。

 こうした動きに、スコットランドでは、ジョージ1世に忠誠を誓約したにもかかわらず国務大臣から解任されたマー伯ジョン・アースキンが1715年9月6日に挙兵、トマス・フォスターが北部イングランドのウォークワースで10月6日にこれに続きました。

 マー伯の軍勢はスコットランドの大部分を制圧しましたが、政府軍の将軍アーガイル公ジョン・キャンベルに11月13日のシェリフミュアの戦いで敗北して兵站が底をつき、11月14日にフォスターが政府軍に包囲されて降伏しました。

 こうして次第に事態は政府軍有利に展開し、ジェームズ老僣王が12月13日にスコットランドに上陸したときには帰趨は決していました。結局翌年2月4日、ジェームズ老僣王は何もできずフランスに逃げ帰ったのです。

アタベリ陰謀事件(1722年)

 1722年のアタベリー陰謀事件は、南海泡沫事件により名望を失った元第一大蔵卿のサンダーランド伯チャールズ・スペンサー、ロチェスター主教フランシス・アタベリーらが中心となったジャコバイトによるクーデター計画です。

 この計画は事前に政権側に洩れ、計画段階で潰えることとなりました。これによって、ロバート・ウォルポールを始めとするホイッグの優越は決定的となり、トーリー議員らジャコバイトは表立ったステュアート朝への支持を控えるようになりました。

 南海泡沫事件の責任追及によって、サンダーランド伯は1721年に第一大蔵卿(当時の首相にあたる)を辞任せざるを得なくなり、代わって事後処理に辣腕を振るったロバート・ウォルポールが政権の座につきました。

 自らの復権をめざすサンダーランドは、その後ろ盾としてステュアート家やジャコバイトを選択し、フランシス・アタベリーらと接触するようになりました。そしてその計画は、1722年に実行の好機を迎えました。

 すなわち、総選挙実施による議会の解散と、ジョージ1世がハノーファー滞在中であったことです。しかし、この計画はフランスから情報が洩れた上、1722年4月19日にサンダーランドが「原因不明の急死」をとげ、彼の邸宅からクーデターに関する文書が発見されました。これによってクーデター計画は頓挫することとなりました。

 これを受けて、イギリス史上最大の魔女狩りの一つと言われる、大規模で強権的なジャコバイト狩りが行われ、アタベリーら高位の中心人物は国外追放となり、カトリックには重税が課された。

 一連の捜査による苛烈な拷問は、ステュアート家に同情的だったトーリー議員らを恐怖させるに十分でした。以降、すくなくともイングランド内では、ジャコバイトであることを公言する者は皆無となったのです。

 また、この事件以降トーリーはジャコバイトと見なされることとなり、ホイッグ対トーリーという議会内の対立の構図が次第に薄れ、王政復古以降存在していた宮廷(コート)対地方(カントリ)という対立図式が存在感を増して行きました。

1745年の反乱

 1745年の反乱は、一面においてはジャコバイトの最後の挑戦でしたが、むしろ主要な側面は、当時イギリスと交戦していたフランスによる、ジャコバイトとジェームズ老僣王の息子チャールズ若僭王を利用した工作であったという点です。

 この反乱の失敗によって、ステュアート家とそれを支持するジャコバイトは完全に政治的命脈を絶たれ、以降ジャコバイトは歴史の表舞台から姿を消すことになったのです。

 「ウォルポールの平和」が1739年のジェンキンスの耳の戦争(オーストリア継承戦争、1740年)で破られ、ウォルポール自身も1742年に辞任に追い込まれました。政権はウィルミントン伯スペンサー・コンプトン(病気のため実質的指導者はジョン・カートレット)に移りましたが、翌1743年にコンプトンが死去してヘンリー・ペラムに移行、ペラムを支持するウォルポールの政治的影響力は健在であり、国王ジョージ2世の信任は篤くなかったのですが、なんとか政権運営を可能にしていました。ところが1745年3月18日、ウォルポールが死亡してペラムの政治的地位が危うくなったところに、この反乱が起こりました。

カロデンの戦い

 ルイ15世の助力を得て同年7月にチャールズ・エドワードはスコットランドに上陸すると、ハイランドの氏族を糾合し「the 'Forty-Five」と呼ばれる内戦を起こしました。いまだジャコバイトの多いスコットランドでこそチャールズの軍は優勢でしたが、イングランドでは民衆の支持を得られず、12月6日に至り、反乱軍はスコットランドに退きました。

 それ以降も政府軍とジャコバイト反乱軍との戦いは続きましたが、1746年4月16日、カロデンの戦いで反乱軍は致命的敗北を喫し、チャールズもフランスへ逃走しました。この戦いにおいて、負傷して動けない者まで皆殺しにした指揮官のカンバーランド公ウィリアム・オーガスタス(ジョージ2世の三男)は「屠殺業者」(Butcher)との異名を得ました。

 グレートブリテン政府はこの反乱を重く見て、1746年の衣装法などの諸立法によってスコットランドの氏族制度を解体しました。またチャールズはフランスを追われて、放蕩生活に身をやつして行きます。この評判が広まって、ジャコバイトの支持は失われて行きました。ジャコバイトのステュアート朝再興の夢は、その核を失って完全に絶たれたのです。

ジャコバイト運動について

 ジャコバイトは名誉革命を批判し、ステュアート朝を復興させることを目的としていましたが、それが結果的に野党や反体制派を、名誉革命転覆を狙うジャコバイトとしてレッテル貼りをするという事態をまねき、彼らを封じ込めたのです。

 ジャコバイトと見なされたトーリーはもはやウォルポール政権に対抗しえず、ホイッグ対トーリーという対決の図式はより複雑なものとなっていったのです。

ホイッグ党の政略

 名誉革命は1688年に起こりましたが、すべての人々に支持された革命ではなく、議会が王位継承問題にまで口出しすることの正当性を疑問視する声も小さくなかったのです。

 こうした言説は主にトーリー議員たちから発せられました。さらに相次ぐ国内・国外の武力衝突など、名誉革命後の権力体制は盤石とはほど遠い状態にあったといえます。革命を支持する人々は、革命を称揚し、反対勢力を封じ込める必要に迫られていたのです。

 そこで政権は、敵対国フランスなどカトリック勢力とジャコバイトを結びつけ、イギリスの共通の敵というキャンペーンを張りました。とりわけウォルポールは政敵に「名誉革命体制の転覆を狙う危険分子」というレッテルを貼りつけ、異端化することにより、20年以上にわたる長期政権の安定を得たのです。

 こうしたキャンペーンは、ジャコバイトに同情的であった人々をも変化させて行きました。ジャコバイトと見なされることは政治生命にかかわることになり、たとえステュアート家に想いを寄せていても、それを公言することはできなくなっていったのです。

 政治家たちの対立軸は名誉革命体制対ジャコバイトから、どちらがより名誉革命体制の忠実な後継者であるかを争う図式となっていき、結果的に名誉革命体制は強化され、ジャコバイトの存在感は急速に薄れて行きました。そして、議会内の対立構図はホイッグ対トーリーからコート対カントリという図式も交え、複雑に交錯してゆくことになったのです。

ジャコバイト運動失敗

 ジャコバイト運動が成功しなかった理由は第一に、イングランドの人々がカトリックの君主を拒否し続けたことにありました。

 ジャコバイトのシンボルであるジェームズ老僣王らステュアート家の後継者はカトリック信仰を捨てようとしなかったのです。こうした姿勢はイングランドでは到底支持され得ず、ジャコバイトをも落胆させました。

 第2に、ルイ14世以降のフランスに、ジャコバイトを本格的に支援する熱意と余力がなかったことがあります。名誉革命以降、フランスは局地戦において豊かな戦闘経験を活かして勝利をえたことはあったものの、財政基盤がイギリスに比べてはるかに脆弱であり、長期戦になると息切れしていったのです。

 こうしてイギリスはアメリカ独立戦争を除いてフランスとの「第2次百年戦争」でおおむね勝利をかちとることができたのです。

ジャコバイト王位請求者

 熱心なジャコバイトは1745年以降も独自の王を立て、現在も引き継がれています。しかし王位を主張したのは18世紀の間のみであり、それ以降は少数のジャコバイトによって信奉されるにとどまっています。

ジェームズ2世/7世(在位:1685年 - 1701年)
ジェームズ3世/8世(“老僭王”、在位:1701年 - 1766年)
チャールズ3世(“若僭王”、在位:1766年 - 1788年)
ヘンリー9世/1世(在位:1788年 - 1807年)

ジェームズ2世の直系は1807年に断絶しました。以後、形式上の継承者は存在しているが、いずれも王位を主張していません。


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