エントランスへはここをクリック   


真夏の上信州、歴史探訪

〜軽井沢の「見晴台」〜

青山貞一  池田こみち
掲載月日:2011年8月20日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


●万平ホテルから見晴台へ
 
 北軽井沢に別荘があるので、行き帰りなどに軽井沢を通るのだが、いつ行っても田中康夫氏がいつも「東京都軽井沢区」と揶揄しているように、軽井沢はいつも人ゴミでごったがえしで避暑地とはいえ、いただけない。

 もちろん、軽井沢は旧軽井沢地区はじめ日本を代表する避暑地であることに変わりはない。今回、はじめて軽井沢地区の名所でもある見晴台と熊野神社にでかけた。

 とはいえ、8月のお盆近くなので北軽井沢から軽井沢地区に行く道はかなり混雑していた。裏通りを抜けまず万平ホテルに行った。軽井沢と言えば万平ホテルと言うほど万平ホテルは歴史的にも有名なホテルである。

 実は私たちの北軽井沢別荘の隣りに万平ホテルの佐藤社長の住居がある。住居と言っても緑豊かな緑のトンネルのなかに数1000坪の庭がある大別荘でもある。

 私たちはまず万平ホテルに行き、その後、下の地図の水色の破線に沿って軽井沢の有名な見晴台と熊野神社に向かった。


軽井沢の見晴台と熊野神社の位置

●軽井沢の見晴台とは

 軽井沢の見晴台は、上州の横川と信州の軽井沢を結ぶ碓氷峠にある。

 この見晴台は名古屋市の近藤友衛門翁によって大正7年に独力により開発したとされている。軽井沢の山野を切り開き、遊歩道などの施設を自費で開発した後、軽井沢町にすべてを寄贈している。


軽井沢町の見晴台にて
撮影:池田こみち

 標高1200mの見晴台に立つと、関東平野の妙義山、赤城山、榛名山の上州三山や信州の南アルプス、北アルプスの大自然パノラマが見える。さらに、妙義山を波形にした碓氷と浅間山に抱かれた軽井沢高原の自然美を心ゆくまで堪能できる。

 この見晴台は、戦国時代には城山と言われのろし陣営を設置した古跡でもある。

動画撮影:青山貞一
 

動画撮影:青山貞一


軽井沢の見晴台にて
撮影:青山貞一

●軽井沢とインドの詩聖、タゴール

 見晴台には、ノーベル文学賞者(アジアではじめて)のインドの詩聖、タゴールの像がある。


インドの詩聖、タゴールの像
撮影:池田こみち

 このタゴールは1916年(大正5年)の夏に軽井沢を訪れた。その翌年夏、第一次世界大戦が起き、欧州は相互に憎しみ殺し合うことになる。当時、インド綿花の輸入によって日本は繊維工業の興隆を得ていたこともあり、国賓としてタゴールを招待した。

 詩人は日本の美と調査を愛する心に感動したが、他方、日本の軍国主義の台頭に強い懸念を持ち、来日講演のなかで再三それを警告したという。 同年8月には日本女子大成瀬学長の招きで軽井沢の三井邸に滞在し、毎朝、真珠のような美しい詩を女子大生達に呼んで聞かせ、祈りの講話をしたという。

 軽井沢は噴火山のない院と亜大陸の詩人にとって、つきることのない詩の泉となった。

 「神は名もない野の草に、何億年も書けて、ひとつの花を咲かせ給う」、「大地一面の微笑みを咲かせるのは、天地の涙あればこそだ」 

 タゴールはその後、2回日本を訪れたが、最後の講演では「自己中心の文明は隣の国民を焼きつくす武器を発明する様なる。くれくれも『人類は戦わず』を守るべきだと延べ、原爆を予言するような言葉も残したという。

 タゴールは、1941年(昭和16年)8月7日、広島・長崎の原爆投下やインドの独立を知ることなく、多くの作品を残して、その80歳の生涯を閉じた。

 参考:軽井沢町の「詩聖、タゴール」について


つづく