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真夏の上信州、歴史探訪

〜大改修中の妙義神社〜

青山貞一  池田こみち
掲載月日:2011年8月21日
 独立系メディア E−wave
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●妙義山中腹にそびえる妙義神社

 私たちは妙義神社の山門前に到着した。この神社は、今まで見たことがないほど広大で立派な社家などがあるにもかかわらず、なぜか観光的色彩がない。参道とおぼしき道沿いには一軒もおみやげ屋さんも食べ物を売る見せもない。

 駐車場もあるのかないのか分からないようなところにあった。

 神社は確かに妙義山の中腹にある。それにしても妙義山の形は奇妙である。


撮影:池田こみち

 行ってみて分かったのだが、現在、妙義神社は、大改修中で日光の東照宮に負けず劣らぬ大社殿(本殿・幣殿・拝殿)や唐門はまったく見ることが出来ず残念無念であった。

 見れたのは総門、波己曽社、石垣などだったが、噂に違わず妙義神社は、さまざまな意味で日光東照宮を凌ぐ秀逸な社殿、建築物があり、長い歴史をもつ希有な寺社であることが分かった。

 なお、戦前、各神社は国の保有物として扱われていたが、敗戦後GHQにより「政教分離」により神社仏閣は宗教法人のもとで保護されることになった。その関係で、妙義神社には、神社だけでなく境内には由緒ある寺もあった。

 下は妙義神社参道入口。この先に総門がある。


妙義神社入り口 撮影:池田こみち

 まずは、妙義神社の概要。 

 妙義神社の創建は、宣化天皇2年(西暦537)に開かれたのが始まりと伝えられており、非常に歴史がある。

 古社で、当初は波己曽大神として平安時代に編纂された歴史書"日本三代実録"にもその名が記されているという。

 鎮座する妙義山は上毛三山の1つで、後に日本三大奇勝、日本百景に数えられる程、特異な景観で古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象として広く知られる存在であった。ちなみに、上毛三山とは、赤城山(赤城神社)、榛名山(榛名神社)、妙義山(妙義神社)である。

 特に江戸時代に入り妙義神社が上野東叡山宮御兼帯の格式を得ると、歴代将軍や皇室などから崇敬、庇護され社運が隆盛し妙義千軒と称されるほど繁栄したと言われている。実際、よく見ると妙義神社の社殿のいくつかには、菊の御紋が付いている。

 妙義神社の社殿は宝歴2年(西暦1752)に大改修されているが、権現造り、黒漆喰に金箔や極彩色で彩られ、多彩で精巧な彫刻は上毛の日光と称されるほどである。

 以下は、群馬県の公式サイトにある妙義神社の紹介文である。

妙義神社

 妙義神社は古代は波己曽(はこそ)神社と呼ばれ、『三代 実録』の859(貞観元)年の条に「授上野国正六 位上波己曽神従五位下」とあるのが最も古い記 録で、妙義山を神として祭ったのにはじまり、 波己曽(はこそ)は岩社(いわこそ)の意という。

 1030(長元3)年こ ろ上野国司によって記された『上野国交替実録 帳』には他の神社のように社殿の記載がなく、 「勲十二等波己曽神社、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、 外垣壱廻」とある。神の依代(よりしろ)となっていた岩に 三重の垣を廻らしていた。

 その依代の岩は、現 在の妙義神社の本殿北の影向岩(えいごういわ)であったと考え られる。

 波己曽社は以前この岩に接してあった。 波己曽神から妙義神への変化は、中世の神仏習合が進み、この岩神の本地を大日如来とするよ うになって、仏教的な神名に変わったようであ る。

 古くから朝野の信仰も厚く、近世になると 東叡山寛永寺の別院元光院の兼帯となり復興し、 1636(寛永13)年以来寛永寺座主輪王寺宮の隠 居所となり、社殿の修覆をはじめ、多くの宝物 の寄進もあり、現に仏教関係の宝物で名品も多 い。

 主な宝物には国指定重要文化財『紙本著色 地蔵菩薩霊験記』と割五鈷など中世の密教具・両界 蔓陀羅・円空作不動明王等がある。また、社殿・ 石垣等は近世の社寺建築を代表するもので、国 および県の重要文化財に指定されている。



総門

 以下の写真にある総門 は3間1戸の八脚門、切妻造で、平面積62,358 平方b、棟の高さ11.659bの大きな門である。 この門は江戸時代には当社の別当寺の仁王門で あったが、神仏分離により総門に改められた。 屋根は最近まで檜皮葺であったが、今回の修理 により創建時の銅板葺に改められた。


妙義神社の総門 撮影:青山貞一




総門の前で 撮影:池田こみち


撮影:池田こみち



 私たちが妙義神社を訪れている最中、広大な境内には人がほとんど見受けられなかった。たまたま2人の男性が座って談笑していた。近づくと、そのうちの一人が、もう一人の男性がボランティアで妙義神社の説明員をしているので、ぜひお願いしたらと言う。そこで下の写真の男性に妙義神社の説明をお願いした。



 残念なことに、今回、下の写真にある165段の石段の上にある社殿(本殿・幣殿・拝殿)は、大改修とのことで社殿が見れなかった。また 石段の上にある随神門は、3間2間の単層切妻造で、左右表間 には随神がおかれ、木鼻などよりみて寛文期の ものと推定される。
 

撮影:青山貞一

 
本殿に通ずる階段は改修のため立入禁止となっていた。


撮影:池田こみち

 残念ながら今回は妙義神社のメインである社殿、唐門は視察が出来なかった!

 以下は群馬県公式ホームページの社殿、唐門の紹介文である。なお、改修工事はここ数年つづくとのことであった。

 なお、上の165段の石段は通行禁止となっているが、グルーと山側を登れば工事中の社殿などを遠巻きに見れると説明を受けたが、私たちは遠慮することにした。

妙義神社の社殿(本殿・幣殿・拝殿)

 妙義神社の社殿(本殿・幣殿・拝殿)、唐門、総門と社宝である紙本著色地蔵菩薩霊験記は国指定重要文化財に、旧妙義神社社殿で現在の波己曽社社殿と随神門、袖廻廊、銅鳥居、石垣が群馬県指定重要文化財にそれぞれ指定されている。

 妙義神社(本殿・幣殿・拝殿・唐門・総門) 附神饌所(しんせんじょ)・透塀)昭和56年6月5日国指定重要 文化財。本殿および関係建造物は、1656(明暦 2〉年に萱葦をとち葺に改めて社殿の形式が整 えられた。現社殿は1757(宝暦6)年の大改修 になるもので、「遷宮宝暦六丙子年十二月朔日」 銘の棟札があり、このとき以来銅板葦の権現形 式の社殿となる。本殿は入母屋造、桁行3間・ 梁間2間・一重で、4.666×3.940b。内部は折 上格天井(おりあげごうてんじょう)、各間毎に菊花の極彩色が施され、出 組三斗。棟梁は飯村杢允藤原久敬・松本播磨藤 原住房、彫物師・塗物師(32人)・錺(かざり)工・鋼屋根 職人は江戸から、鋳物師は下野佐野、石工は信 州高遠(26人〉などから集められた。

 幣殿は桁行 3間・梁間1間の両下造(りょうさげづくり)で、6.046×4.666b、 本殿と拝殿をつなぐ。内部は格天井、その各間 には百草が描かれ四隅に宝相華文を描いている。 拝殿は桁行3間・梁間2間の入母屋造で、9. 272×4.590b。正面屋根には千鳥破風がつき、 その下に向拝部の唐破風屋根がつき出している。

 周囲の側面は横桟の板戸、正面一間は三折両 開棧唐戸(みつおれりょうひらきさんからど)。向拝部(ごはいぶ)を繋ぐ海老虹梁(えびこうりょう)には、龍の彫 刻があり、軒は本殿同様二重繁垂木、三手組、 袖障子には竹林七賢人の彫刻がある。神饌所は 桁行5間・梁間1間・唐破風造。背面は幣殿お よび拝殿に接続してつくられ、妻入りになって いる。

 透塀(すきべい)は幣殿と本殿を囲み、折り曲の延長 は28間。本殿背後に門が一カ所つくられ、そこ には宝暦年間につくられた現社殿より古い時代 の蟇股(かえるまた)が用いられている。

唐門

 唐門は、桁行1間・梁 間1間・妻部は唐破風の平入の門で、貫頭の木 鼻は菊花の籠彫、戸の板面は薄肉彫の鳳凰の彫 刻などが施されている。世良田東照宮の唐門と ともに、群馬県内では最も優れた唐門である。

妙義神社の大杉の子孫

 総門のすぐ近くに大杉の子孫”がある。

 妙義神社の境内には、樹齢千年以上の天然記念物の大杉があったが、老衰腐朽のため昭和46年で倒壊してしまった。その大杉の穂を保存、接ぎ木し、大杉の子孫として復活させた話しをボランティアの方から伺った。

 正確には国の天然記念物に指定されている妙義神社の大杉の子孫である。昭和8年に天然記念物に指定された大杉は老木のため衰弱し、昭和46年1月の台風により倒壊、その後、関東林木育種場にこの杉の健全な穂がつぎ木で保存され、群馬県林業試験場がつぎ穂としてもらい受け、昭和48年つぎ木し49年にとり木をし、大杉の子孫を作り植栽したとのことである。


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一


◆波己曽社(はこそ)

 下の写真は妙義神社波己曽社殿と石垣である。

 これらは1968(昭和43) 年5月4日、群馬県重要文化財に指定されている。

 波己曽社は 妙義神社の元社である。永年腐朽にまかせ、拝 殿は分離され妙義神社の神楽殿として利用されてきたが、1969く昭和44)年、銅鳥居脇の養蚕 社の位置に復原された。

 本社殿は妙義神社社殿より一時代前の様式をもった建造物で、入母屋 造で正面屋根に千鳥破風をもった拝殿、それに 幣殿・本殿が接続し、完全に原型に復した。


重要文化財、旧本殿で今は祈祷殿となっている波己曽社。
撮影:青山貞一


撮影:青山貞一


波己曽社・御本殿
撮影:青山貞一


波己曽社・御本殿
撮影:青山貞一


波己曽社前の青銅製の灯籠
撮影:青山貞一


旧宮家御殿

 妙義神社は古くから皇室の信仰も厚かったそうだ。妙義神社は東叡山寛永寺の別院元光院の兼帯となり、 1636年以来、寛永寺座主輪王寺宮の隠居所となったとのこと。

 下は波己曽社の近くにある旧宮家御殿である。現在は社務所となっている。


旧宮家御殿、現在は社務所
撮影:青山貞一


旧宮家御殿、現在は社務所
撮影:青山貞一


旧宮家御殿、現在は社務所に通ずる門
撮影:青山貞一

◆石垣
 
 妙義神社境内には精巧にできた石垣がある。誰でもここに城があったかと推測するが、妙義神社には城はない。これは江戸中期に妙義山で産する安山岩を使い、江戸や信州高遠の石工たちが築いたと言われている。実に精巧な石積であり、学術的にもきわめて重要な石垣であるとボランティアの方が説明してくれた。

 石垣は何期かに分けて造られたが、総門脇の巨石 を使用した精巧な石積は群馬県随一の石垣である。

 石垣に刻まれた銘文は、本社前は「延享元甲子 六月、石階造修工武州江府霊岸島近藤利兵衛」、 随神門下の石段は「宝永二乙酉歳霜月吉祥日」、 総門前石垣に「明和六暦丑」と刻まれている。

 また宝暦6年銘の棟札には「信州高遠石切二六 人、江戸石切一人」とあり、1705〈宝永2) 年から1769(明和6)年までの半世紀にわたっ て築かれたとされている。


石垣の背景に見える波己曽社
撮影:青山貞一




石垣側から総門を見る
撮影:青山貞一




石垣 撮影:青山貞一


石垣 撮影:青山貞一

 以下はボランティアの方に紹介受けた墓所だ。代々のご住職の墓所で珍しい石積だとのことであった。


撮影:青山貞一


撮影:青山貞一

 大改修終了後、ぜひ再度、妙義神社を訪れたい!!


つづく