エントランスへはここをクリック   



   東マレーシア・サバ州現地予備調査

ボルネオ島と日本軍
Borneo Is. and Japanese Army

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年2月9日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁
<全体目次>



 1月31日 成田→コタキナバル(東マレーシア・サバ州)
 2月 1日 〜 2月4日 現地予備調査
    1日 熱帯雨林自然保護区野生生物観察
    2日 ボルネオ島最北部クダッ現地視察 .........●
    3日 キナバル山麓、キナバルパーク現地視察
    4日 コタキナバル市内視察
 2月 5日 コタキナバル→成田


 閑話休題です!

 ここでは、ここでボルネオ島と日本軍との関係について触れておきましょう。

 日本は大東亜共栄圏を構想し、欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序建設を目指すとしていました。 

 大東亜共栄圏に関連する(含まれる) 国々としては、フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア、満州国、汪兆銘政権(中華民国)、英国領マラヤ、オランダ領東インドなどがあり、ボルネオ島は英国領マラヤ、オランダ領東インドの一部となっています。

 しかし、以下にあるようにボルネオ島での日本軍と連合軍との戦いは双方に多くの犠牲者がでている割には全体的な戦況には関係のない、消耗戦であったことが分かります。またボルネオの闘いのなかでは、「サンダカンの死の行軍」に象徴されるように、日本軍によるオーストラリア・英国軍兵士捕虜への「死の行進」など歴史に残る残忍、無謀な対応もありました。


◆大東亜共栄圏とは    出典:Wikipedia

 そのためには、いわゆる大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん、Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)について触れないわけには行きません。


日本の10銭切手(1942年発行)。島や大陸の位置関係が
実際より縮小気味に描かれている(インドネシア地図参照)。

 大東亜共栄圏は、欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序建設を目指す第二次世界大戦における日本の構想と言われています。

 これについては、当然のこととして日本の大東亜共栄圏に対してさまざまな厳しい批判がありますが、ここではひとまず日本側の言い分について見てみます。

 具体的には、大東亜共栄圏は、日本・満州国・中華民国を一つの経済共同体(日満支経済ブロック)とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝されています。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義等は当初必ずしも明確にされていなかったと言えます。


大日本帝国の政治区画 


現勢 大東亜共栄圏地図

 大東亜共栄圏という用語は、陸軍の岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれており、1940年(昭和15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われて以来、流行語化したとされています。

 公式文書としては1941年(昭和16年)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出とされています。但し、この語に先んじて1938年(昭和13年)には「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられています。

 大東亜共同宣言としては、1941年(昭和16年)に日本が英国やアメリカ合衆国に宣戦布告をして大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発し、アジアに本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏の建設を対外的な目標に掲げることになりました。

 1943年(昭和18年)には日本の占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択されています。


◆ボルネオの闘い  出典:Wikipedia


出典:Wikipedia

 ボルネオの戦い(ボルネオのたたかい)は、太平洋戦争中に、日本軍の守るボルネオ島と付属島嶼へ、オーストラリア軍を主力とした連合軍が侵攻して起きた戦いを意味します。
 
 ボルネオ島は、北西部が英国領、南部から東部がオランダ領でしたが、いずれも日本軍によって占領されていました。

 オランダ領のバリクパパンやサンダカン、英国領のミリなどには油田があり、日本にとって重要な資源地帯となっていました。しかし、連合軍のフィリピン反攻が進み、シーレーンが遮断されたために日本本土への資源輸送は不可能となります。ブルネイ湾は重要な海軍泊地でしたが、すでに利用する艦隊は残っていませんでした。

 日本軍は、旧英国領は陸軍、旧オランダ領は海軍の主担当地区として防備と軍政を分担していました。守備隊として第37軍(司令官:馬場正郎中将)の独立混成第56旅団と同第71旅団、独立混成第25連隊を配置していましたが、うち独混71旅団は編成途上で人員も装備も訓練も不足していました。海軍の守備の主力は第22特別根拠地隊(司令官:鎌田道章中将)でした。

 連合軍は、オランダ領東インドの奪還を目指すオーボエ作戦(Operation "OBOE")の一環として、ボルネオ侵攻を計画しました。これにはブルネイ湾に英国太平洋艦隊の泊地を置くこと及び油田を奪還することという戦略目的がありました。

 タラカン島に対するオーボエ1号作戦、バリクパパンに対するオーボエ2号作戦、ブルネイ湾・ラブアン島に対するオーボエ6号作戦からなり、地上戦にはオーストラリア軍から第1軍団(軍団長:レスリー・モースヘッド(Leslie Morshead)中将)の第7師団と第9師団が主力として投入されることになりました。

 この点、ブルネイ湾を基地化するのは戦争資源の浪費であり、日本側のシーレーンは遮断されていたことから上陸に戦略的価値が無いとの批判がありました。特にドイツ降伏後にはバリクパパンへの第7師団投入は中止することも検討されましたが、計画通りに実行されました。

 1945年4月から、ボルネオ地区の日本軍拠点には、フィリピンから出撃した航空機や機動部隊の搭載機により激しい事前空襲が行われました。同月中旬には日本軍は連合軍の上陸が迫っていると判断し、製油施設を自ら破壊しています。

ラカン島の戦い
 5月1日、東岸のタラカン島にオーストラリア第9師団の第26旅団を基幹とする11800人が上陸しました。日本軍では独立歩兵第455大隊と海軍第2警備隊の計2200人が守備しており、6月中旬まで激しい抵抗を続けました。 終戦まで連合軍は掃討戦を行い、日本軍は1500人が戦死し、250人が捕虜となっています。連合軍もオーストラリア兵225人が戦死し、700人近くが負傷しました。また、アメリカ海軍の機動掃海艇1隻が沿岸砲台に撃沈され、砲台または機雷により駆逐艦など5隻が損傷しています。

ブルネイ湾の戦い
 6月10日に、ブルネイ湾及びラブアン島にオーストラリア第9師団の主力が上陸しました。軽巡ホバートはじめ巡洋艦4隻、駆逐艦23隻などや航空部隊が支援し、連合軍の参加兵力は29000人に上りました。日本軍は独混第56旅団が付近にあり、そのうちブルネイ湾に独立歩兵第366・第367大隊、ラブアン島に独立歩兵第311大隊を置いていました。

 日本軍が水際配備は避けて後退したため、一週間で連合軍は沿岸部の制圧に成功します。ラブアン島守備隊は全滅しその後、連合軍によりミリ方面に向けた追撃戦が行わました。ブルネイ湾一帯の戦いで、オーストラリア軍の記録によると日本軍は1200人以上が戦死したのに対し、オーストラリア軍は114人が戦死し、221人が負傷したとされています。

バリクパパンの戦い
 6月15日からバリクパパン付近で、アメリカ海軍が掃海作業を開始し以後、バリクパパンでの作戦完了までに機動掃海艇4隻が触雷沈没し、砲撃などで駆逐艦以下の数隻が損傷しています。

 7月1日、巡洋艦5隻などの艦砲射撃の後に、バリクパパンへオーストラリア第7師団が上陸しました。連合軍の参加兵力は33500人で、第二次世界大戦最後の大規模上陸戦であるとも評されています。3日の朝までに上陸した連合軍部隊は17000人に達し、この間初日だけでも3万発にも及ぶ猛烈な艦砲射撃が支援しています。

 日本軍は海軍第22特別根拠地隊を基幹に11000人の兵力を有し、2つの飛行場周辺などに防備を固めていました、油田防空用の対空砲を転用したものも含め相当に強力な砲台を保有し、オーストラリア軍の戦車3両を立て続けに撃破することもありました。

 しかし、日本軍には専門の地上戦闘員が少なく、次第に拠点を失い、9日までに飛行場は占領されています。また7月下旬まで追撃戦が行われ、以後も終戦まで散発的な戦闘が続いています。オーストラリア軍の記録によると日本兵1800人以上が戦死したのに対し、オーストラリア兵の損害は戦死229人、負傷664人だったとされています。

 連合軍は上陸した地点を占領しましたが、まもなく終戦を迎えたため戦略的には大きな影響はなかったといえます。日本軍は4700人以上が戦死または戦病死しました。連合軍もオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷するなど少なからぬ損害を受けています。


出典:Wikipedia


出典:Wikipedia


◆ボルネオ島と日本軍

 昭和16(1941)年12月8日の、ハワイの真珠湾奇襲の2時間前に敢行されました、西マレーシア(マレー半島部)東北部のケランタン州コタ・バルのサバック海岸へのマレー半島上陸作戦に成功した日本軍は、翌年2月15日には、英領の東南アジア支配拠点のシンガポールを陥落させ、英国軍は無条件降伏しました。

 これにより、英国が権益を維持していた東マレーシア(サバ、サラワク、ブルネイ)も日本軍の軍政下に入りました。サラワクで白人王国を築いた3代100年のブルック王朝は、ここに終焉を迎え、北ボルネオ勅許会社も閉鎖されることになります。

 ボルネオ島における3年半の日本軍の統治中、日本軍は各地に飛行場を作り、道路を整備し、水田稲作技術を指導するなどして民生の安定化に努めています。

 昭和18(1943)年頃から、他地域での日本軍の敗色が濃くなるにつれて、サバ州でも英国軍に指揮された原住民の反乱が時々起きるようになりました。

 昭和20(1945)年になると情勢は緊迫の度合いを増し、日本軍にフィリピンを攻め落とされてオーストラリアに逃げ込んでいた米軍のマッカーサー将軍が反攻を開始します。

 フィリピンに向けて戦線を北上するに従い、フィリピン側の東海岸のサンダカンやタワウTawauも空襲を受けるようになり、日本軍は東海岸に駐在する全日本軍兵士、日本軍属、在留邦人、連合軍捕虜、総数約2万人を当時ジェッセルトンJesseltonをアピApiと改称した現在のコタ・キナバルに移動させる命令を出しました。

 これによって、当時の道なき鬱蒼たる密林の中を行軍させられた人たちは、途中でマラリアやコレラなどに罹患したり、食料が尽きて餓死したり、野獣に襲われたり、原住民との諍いで殺されたりして、集合地点の州中央部のラナウRanauに達した者は半数ほどとなっています。

 これを「サンダカン死の行進」と呼びます。約2000名の連合軍捕虜は、生存者が僅か6名という多大な犠牲を出し、オーストラリア政府は今でも毎年追悼行事を行っています。

 6月に入ると、サバ州西海岸のブルネイ近くで、石油が採れるラブアン島に、英国とオーストラリアの連合軍が襲いかかり、数日間の連日の空襲と艦砲射撃によって、500名の日本軍捕虜を玉砕します。日本軍の生存者は僅か9名だけとなっています。

 日本軍は、その後州内各地に立てこもり高射砲などで反攻しますが、8月15日の敗戦を迎える頃には、組織的な抵抗は終息していました。

 敗戦を迎え、日本軍は降伏文書に署名して武装解除され、日本軍兵士も一般人の在留邦人も、まとめて全員コタ・キナバルのタンジュン・アルTanjong Aru海岸に設けられた強制収容所に入れられました。

 ここで、日本軍に恨みを持つ連合軍兵士から様々な虐めを受け多くの日本人が死亡、半年近くの間に、全日本人は財産を没収されて祖国へ送り返されることになります。

主な出典:http://www.malaysia-borneo.com/history/info/p3.html


◆サンダカン死の行進

 サンダカン死の行進は、1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に大日本帝国が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリア・英国軍兵士捕虜に対する死の行進を指しています。

 これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされています。日本兵はこの移動により数百名が死亡しています。

 1942年、ボルネオ島東北に、空港建設を進める為にボルネオ捕虜収容所の分所として設置されたサンダカン捕虜収容所(所長:星島進大尉)には、1943年秋の時点で、オーストラリア兵1800人、英国兵700人、計約2000人(2500人という説もあります)が収容されていました。


サンダカン捕虜収容所(1945年10月24日)

 当初は、サンダカン収容所やボルネオ島の各収容所における捕虜の扱いは、人道的であったとされていました。たとえば捕虜は飛行場建設に使役されるなどし、また労働には賃金も支払われていたとされています。売店の運営も許され、監視も穏やかだったとされています。こうした扱いには、敗戦後に自殺したボルネオ捕虜収容所の最高責任者・菅辰次大佐の影響があったとされています。

 しかし、捕虜の逃亡やライオネル・マシューズ中尉が地元住民と協力して反乱を計画した「サンダカン事件」が発生し、監視が厳重になります。

 なおオーストラリア軍では、逃亡の試みを捕虜の義務としていました。これは「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を持つ日本軍とは相容れないものでした。

 その後、戦局の悪化によりさらなる厳罰化、南方軍司令部からの命令による食糧の配給の削減(当初一人一日550〜700gの米と400〜600gの野菜が支給されていましたが、1945年1月には米200〜300gに削減されました。しかし実際には米100gとわずかな野菜しか支給されなかったといわれています)、医薬品不足などにより待遇は悪化してゆきます。

 過酷な使役に加え、伝染病、栄養失調が蔓延。病死により1944年末には既に計1600人になっていたとされています。殺害されたオーストラリア兵の一人にポール・キーティング第24代オーストラリア首相のおじがいたと報道されています。

 現在、サンダカンには戦争記念公園(Sandakan Memorial Park)があります。追悼記念碑、追悼パビリオンも建設され、サンダカン収容所、ラナウ収容所、死の行進について説明がなされており、パビリオンの扉には「LEST WE FORGET(我々が忘れてしまわないように)」とあります。

 オーストラリアで研究を行った田中利幸による『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店 1993年)の英訳が1996年にアメリカで刊行されてから、このサンダカン収容所事件やインドネシアのバンカ島でのオーストラリア軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件、人肉食事件などが米豪で知られるようになりました。

 女流作家のアグネス・キースが小説『Three Came Home』において、行進の中で死に至る前に捕虜は日本兵に切り裂かれ、墓場に押し込まれていったなどという物語を書き、それがハリウッドで映画化までされたこともあって、これにより欧米社会に「サンダカン死の行進」における日本兵の残虐的なイメージ付けがなされていったとも言われています。

出典:Wikipedia


つづく      <全体目次>