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石田三成の古里

三成のエピソード@

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載禁
石田三成の古里 2016-9-7
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O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

 下は観音寺の本坊の展示室にあった石田三成の「人となり」について多面的に表現されたポスターの一部です。

 なかなか興味深い内容ですので、ぜひご一読ください。 下は撮影したポスターの一例です。


撮影:池田こみち Nikon Coopix S9900  2016-9-7


◆なぜか、いつも黒幕に! 
  あれもこれも!? 三成の陰謀とされる怪事件をご紹介!

1.千利休切腹事件 〜三成がすべての権力を握るため?

 1591年年に千利休は、秀吉の怒りに触れ、切腹を命じられました。

 この事件の黒幕は三成だというい説があります。

 理由は北政所(秀吉の正室)の派閥であり、三成は淀殿(秀吉の側室)の派閥だったと言います。

 利休は、茶人としてだけでなく、豊臣政権の中で政治家としても重きを成していました。

 そこで、三成は、すべての権力を握るために、秀吉に理由のことを告げ口し、切腹に追い込みました。そして、利休の妻子は三成によって蛇責めの刑に処されたというものです。

 理由の切腹に関しては−−−−−−
 ・安い茶器を高く売り飛ばして私腹を肥やしていた
 ・大徳寺の三門に自分の木造を設置し、その下を秀吉に通らせた
 ・秀吉が利休の娘を側室に望んだが、利休が拒絶した

 など、三成陰謀説以外に諸説があってはっきりしいません。皆さんはどのように思いますか?



2.蒲生氏郷毒殺事件 〜三成と直江兼次の陰謀?〜

 1595年、氏郷が働き盛りの40歳で死去します。突然の死ということで、三成の毒殺説が浮上しました。

 三成は秀吉の死後、天下を奪おうとしていたため、自分の邪魔になる人物は消したかったそうです。

 その人物とは、聡明さで知られた名将・蒲生氏郷と天敵の徳川家康でした。三成は盟友の直江兼続(上杉家)と密談し、まず、蒲生氏郷を毒殺!

 蒲生家の領地である会津に上杉家を入れて、関東の徳川家の抑えとして、挟み撃ちして滅ぼすというとんでもない陰謀があったといいます。しかし、氏郷の病状は、当時の名医である曲直瀬道三の「医学天正期」に書いてあり、名護屋城で発病し、亡くなるまで三年間も病状が出たと記録されています。

 つまり、毒殺はあり得ないということです。これは冤罪でしょうね。



3.豊臣秀次切腹事件 〜私はしっかり調査しただけです〜

 1595年に豊臣秀次(秀吉の甥、養子)は、秀吉から謀反を疑われたため、高野山に追放され切腹を命じられました。これは三成が仕組んだ罠という説があります。

 三成は秀吉の死後、天下を奪おうと企てていたそうです。その陰謀を妨げるのは豊臣秀次と徳川家康と考えていたと言います。ここでも家康が登場するんですね。(笑い)

 三成は秀吉に秀次の謀反や乱行を密告し、切腹に追い込んだと言われています。この三成の讒言のパターンは、江戸時代に色々残されています。

 秀次の切腹についても諸説有り、一節には秀次の乱行に原因があったと言います。

 秀次は宣教師のフロイスに、「奇怪なる大悪徳」と称されるなど、殺人と謀虐を繰り返し、世の辻々には、「殺生関白」と落首が貼られたそうです。関白にふさわしくない行動を憂えた秀吉が、切腹を命じたという説です。

 また、秀吉に実子捨丸(後の秀頼)が誕生し、秀吉と秀次に確執が生まれたという説もあります。捨丸は1593年に誕生しており、捨丸に天下を譲りたい秀吉にとって、秀次は既にじゃまな存在となっていました。そういったなかで、秀吉は「秀次謀反」の噂をでっちあげて、切腹に追い込んだというものです。

 どの説にしろ、「秀次謀反」の噂が広まったことは間違いようで、三成はその調査をおこなったそうです。また、秀次には仲の良い大名(伊達政宗、細川忠興、浅野幸長、最上義満など)たちがいたので、その大名達が秀次の謀反に関係ないかどうかも調査も三成が担当したといいます。

 その調査の結果、正宗と忠興の疑いは晴れたのですが、義満は伏見に幽閉され、幸長は能登に流されることになってしまったそうです。

 三成はしっかり調査をしただけなのですが、嫌疑を掛けられた諸将から恨まれる結果となってしまいました。これが、三成陰謀説が生まれることに繋がったのかも知れませんね。



4.小早川秀秋転封事件 〜関ヶ原の裏切りの布石? 〜
 
 1598年に「朝鮮出兵」から帰国した小早川秀秋は、軍令違反があったとして、筑前と筑後の領地を没収され、越前への転封を命じられました。石高にして54万石から14万石への大減封でした。

 領地は豊臣家の「蔵入地」(直轄地)となり、石田三成と浅田長政が代官になっています。これまた、実は三成が讒言して、秀秋を陥れたという説があります。しかし、どうやらこれも冤罪のようです。

 秀吉は秀秋の領地を三成に与えたいと思っていたそうなのですが、三成はこれを辞退しています。理由は、佐和山を任せられる適任者がいないことと、秀吉の側で御用を務められる者も少ないことでした。つまり、三成に私欲は全くなく、すべては豊臣家のことを考えており、冤罪と言うことが分かります。

 あっ、でも、ひょっとして秀秋がこの一件を三成の陰謀と勘違いしていたから、「関ヶ原の戦い」で裏切ったのかも知れませんね。



つづく