エントランスへはここをクリック   

石田三成の古里

八幡神社と供養塔

青山貞一  池田こみち 
September 8 2016
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載禁
石田三成の古里 2016-9-7
@ 長浜市 石田町へ A 石田会館 B八幡神社と供養塔 C 観音寺 D 観音寺本堂
E 縁起と伽藍 F本坊と三成企画展 G三献の茶 H三成詳細1 I三成詳細2
J大谷吉継詳細 K島左近詳細 L三成エピソード1 M三成エピソード2 N三成エピソード3
O三成エピソード4 Pゆかりの武将たち

     下は石田会館から歩いて5分ほどのところにある八幡神社と石田三成一族の
    供養塔です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7

      八幡神社は別名、石田神社となっているようです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7

     下は石田三成一族及び家臣の供養塔がある場所です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7

       ここから墓石が出土したとのことです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  22016-9-7

      下は石田三成一族及び家臣のお香所前の霊廟です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  22016-9-7

      下は現地にあった供養塔建立の由来です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7

      ◆供養塔建立の由来

        昭和十六年に隣接の八幡神社の地中より故意に破壊された多数の五輪塔の残欠が
      発掘されました。その一部に「永禄五年六月」「天正十四年正月十四日」「妙性霊位」或は
      「缶禅定門」等の文字が刻まれ、これら墓石の残欠は石田三成公の先祖に深い関係あるも
      のと推定され、おそらく関ヶ原合戦直後の里人が徳川方の追及を逃れる為に、神社を隠れ
      蓑に密かに埋め隠したものと思われます。

        さらに「これに触れると腹が痛くなる」と云い伝えられて堅く発掘を戒めてきましたが、顕彰会
      の手で発掘され、その後もこれらの墓石を仮の墓所で三十余年間供養して参りましたが昭和
      四十八年十一月地元はもとより全国六百数十人の石田三成公に理解ある方々の浄財を以っ
      て墓所を整備改めて墓石を安置し新たに石田三成公及び一族家臣の供養塔を建立して公
      の霊を慰め一層事蹟の顕彰をすることになりました。毎年十一月六日を公の命日として墓前
      に於て慰霊法要が厳修されます。

      下は石田三成一族及び家臣の供養塔そのものです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7


       下は石田三成の時世の有名な句が石碑となっていました。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7

       下は石田三成(生没:1560〜1600年、1600年は関ヶ原の戦いがあった年です)
      の辞世の句です。

         筑摩江(つくまえ)や

        芦間(あしま)に燈(とも)す かがり火と

        ともに消えゆく 我が身なりけり


      筑摩江(琵琶湖東北端)にいる私。芦の間に燃えているかがり火(焚き火)が
      やがて消えていくように、我が命も直に燃え尽きてしまうのだな。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2016-9-7

        供養塔の後ろには、もうひとうの石田三成の別の石碑があり、歌が刻まれていました。

         残紅葉 

        散り残る紅葉は ことにいとおしき

        秋の名残は こればかりぞと


        こちらは「句」でなく「歌」です。「紅葉(もみじ)の葉が大半散ってしまった。
        わずかに散り残っているこの紅葉は、深まりゆく秋はもうこれしか残っていないと、
        名残をとどめているようで、いとおしい」 


つづく