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2018年・東日本大震災
復旧実態調査(岩手県編)

大槌町沿岸7

青山貞一・池田こみち 
環境総合研究所顧問
掲載月日:2019年3月20日  2020年3月11日第2次公開
 独立系メディア E-wave Tokyo
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宮古市1 宮古市2  宮古市3 宮古市田老地区1  宮古市田老地区2 
宮古市田老地区3   参考:宮沢賢治


◆大槌町沿岸7


出典:東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に
関する専門調査会配付資料


 
以下は、三陸海岸の各地に残る津波の石碑のうち、主に大槌町に残る石碑である。過去多くの津波が来襲している大槌町には多くの石碑が残っている。


出典:国土交通省

 以下は三陸地域に現存する津波石碑の数々である。


出典:グーグルマップ

 以下は上記の地図の大槌町部分を拡大したものである。大槌に多くの石碑があることが分かる。


出典:グーグルマップ

 以下は、岩手県大槌町に残る津波の碑である。



 
以下に出てくる吉祥寺は、大槌町吉里吉里地区にある
 
 〒028-1101 岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里4丁目4−7 虎龍山 吉祥寺




 石碑の文字を見ると「海嘯溺死精霊塔」と記載されているものがありますが、「海嘯(かいしょう)」という言葉は見慣れない、聞き慣れない言葉です。調べてみると、海嘯とは:

 河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象である。潮津波(しおつなみ)とも呼ばれる。昭和初期までは、地震による津波も海嘯と呼ばれていた。波形から段波(だんぱ)呼ばれる形状構造をとっているため、波の前面での破壊力が大きい。 海岸でこの現象が起こるのは「河口が広い三角江」と言われており、発生する代表的な河川はブラジルのアマゾン川(これを特にポロロッカという)、パキスタンのインダス川、中国の銭塘江、イギリスのセヴァーン川である。
(出典:Wikipediaより)

海鳴り。
2 満潮の際、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になり、砕けながら川上
 に進む現象。河口が三角形状の川にみられる。
(デジタル大辞泉)


 
暴潮(漲)湍(たん),川津波とも。遠浅の海岸,特に三角形の河口部で,波長の長い潮汐(ちょうせき)の波が河床との摩擦や川の断面積の減少などのため潮差を著しく増大,前面が直立した水壁となり音を立てて上流へ押し寄せる現象。(百科事典マイペディア)

地震津波のこと。 〔昭和初期まで用いられた語〕(大辞林第三版)


〘名〙 海鳴りを伴いながら海岸に波が押し寄せて来る現象。特に満潮の際、三角形状になっている河口などで、暴風や海底の火山活動のために上昇した海水の前面が垂直な壁状となり砕けながら進入する現象。潮(しお)津波。ボア。(精選版 日本語大辞典)


などとなっており、石碑の言葉が現代に伝わっていなかったことも伺えます。今後の教訓として、以下に一般の人々、
子供たちにも伝わる言葉、表記でこうした過去の経験を伝え残していくかが問われています。形やデザイン、設置場所も重要ですが、なんと言っても内容が理解されないものは意味がありません。




 以下はAFPB Newsによる三陸津波の教訓、静かに伝えていた石碑たち、である。

◆三陸大津波の教訓、静かに伝えていた石碑たち


Source:AFPB NEWs

 岩手県・重茂半島、姉吉地区の住民は3月11日、東北大震災による巨大津波が高台の下の漁港を襲った時に自分たちが難を逃れたのは、中腹の林の中に建つ石碑のおかげだと思っている。

「高き住居は児孫の和楽」――高台にある家は子孫に平和と幸福をもたらす、と記された碑は、太平洋に面するリアス式の三陸海岸で数千人の死者を出した1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波の後に建てられた。碑の文句は「想へ惨禍の大津浪(大津波の災いを忘れるな)此処より下に家を建てるな」と続く。

 姉吉はさかのぼって1896年(明治29年)にも明治三陸大津波に襲われている。明治の大津波では2人、昭和の大津波では4人しか生き残らなかった。昭和三陸大津波の後、この小さな集落は石碑が建つ位置よりも高台に再建された。代々、海草や貝を育てて生計を立ててきた漁村の人びとが、以降は碑よりも高い場所に住んできた。

 このふたつの津波を引き起こしたのは、どちらも沖合を震源とするマグニチュード(M)8.0よりも強い地震だったが、それでもM9.0だった東北地方太平洋沖地震に比べれば地震の規模は小さかった。今回の津波で姉吉では、海水が狭い入り江に一気に入り込み、日本で過去例を見ない最高39メートルの高さにまで水がせり上がった。

 人口過密気味の日本にあって、多くの人びとが海にさらされた沿岸部に住むことは避けられないが、現在わずか11世帯の姉吉地区は、先人の警告に従うことができた。代々住んできたマエカワケイさん(40)は、こういう小さな教えを守りながら共に暮らしていくことが、姉吉のような小さな集落にできる唯一のことだろうと語った。

■想像を越えた巨大津波

 しかし、壊滅的な被害を受けたこの沿岸には、想像を絶する高さに至った津波によって、過去の津波の恐ろしさを戒める石碑さえもが破壊されてしまったところもある。

 同じ岩手県の大槌町。ササキイサオさん(73)が経営する料亭の前に並んでいた明治、昭和の三陸大津波の碑は、今回の津波でがれきとなってしまった。

 ササキさんも子どもの頃から津波がどれほど恐ろしいものかを聞かされて育った。流されないようにと、着物の帯で家の柱に自分をくくりつけた人たちの話や、近所の池に多くの遺体が折り重なっていたことなど・・・。ササキさんの妹のコヤマセツコさん(63)は、地震があるたびにみんなが走って、近くの井戸の中をのぞきに行っていたのを憶えている。井戸の水位が下がっていればそれは津波の予兆だからだ。
 
 言い伝えや先人の知恵があった漁業の町、大槌でさえ今回、住民1万5000人のうちの1割以上が亡くなった。津波がどれだけ恐ろしいものかはみんな分かっていたが、これだけの巨大津波が来ることは想像していなかったとササキさんは言う。お年寄りを助けようとした人や、自分の子どもを探しに行った人たちほど逃げ遅れ、津波に巻き込まれた。

 しかし、高台から静かな海を見下ろす姉吉の集落でも今回の地震で悲劇は起きた。地震の直後、車で学校へ子ども3人を迎えに行った30代の女性は、帰りに海沿いの道を使い、親子ともども巨大な波に押し流された。亡くなった女性の親族の男性は、石碑が姉吉地区を救ったことが有名にはなったが、明るい面ばかりではないとうつむく。30人の集落で4人の住民が亡くなった─―石碑の知恵を喜んで語るわけにはいかないと男性は語った。(c)AFP/Harumi Ozawa

出典:AFP Harumi Ozawa



大槌8へつづく