エントランスへはここをクリック   

真田の里、上州沼田

沼田公園 

鐘楼と平八石

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

September 25 2015
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載禁
真田の里、上州沼田 2015-9-20
@ 沼田市の概要   E 歓楽院   J 沼田公園・沼田城跡   O 旧生方家住宅2
A 美しい河岸段丘   F 三光院   K 沼田城の詳細   P 旧生方家住宅3
B 真田の興亡   G 法城院・小沢城跡   L 沼田城跡視察   Q 旧土岐家洋館1
C 真田藩の概略   H 妙光寺   M 鐘楼と平八石   R 旧土岐家洋館2
D 天桂寺   I 正覚寺   N 旧生方家住宅1   S 戸鹿野八幡宮
21 迦葉山弥勒寺

 ここでは、沼田公園Aの鐘楼などを現地視察します!


出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行

鐘 楼

 寛永11(1634)年、領内の安泰を祈願して真田河内守信吉に鋳造されながらも城の破却などで浮沈の運命をたどった「城鐘」を保護しようと、明治20(1887)年旧沼田町役場敷地内に建てられたのが「鐘楼」です。

 昭和39(1964)年、市庁舎改築で取り壊されるまで、市民には「時鐘(ときのかね)」として親しまれ、昭和58(1983)年沼田公園内に復元されました。


出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行

 この鐘は、寛永11年(1634)に真田氏2代沼田藩主信吉が鋳造させ、沼田城三の丸の楼にかけて時報に用いたものです。

 総高114cm、厚さ5cm、口径67.6cm、全体の型として古式を残し江戸時代初期の代表的なものであり、「この瞳の音は領内領民を安らかにし、領主の長久を祈るもの…」という意味文が刻まれています。

 天和元年(1681)に真田氏か改易となったため平等寺の梵鐘になっていたが、その後明治31年頃に旧沼|目町役場敷地内に建てられた鐘楼に移され、昭和39(1964)に市庁舎改築で鐘楼が取り壊されるまで市民に時鐘として親しまれていました。

 昭拓58年(1983)、沼田公園内に復元された「鐘楼」に吊され時を告げていましたが、老朽化のため現住は沼田市中央公園内に展示されています。


城鐘
出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行

 下は現在存在する鐘楼です。鐘はこの最上段に吊されています。


沼田城の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


沼田城の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


沼田城の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


沼田城の鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


◆平八石


出典:真田の里 上州沼田 沼田市役所発行

 平八石は、真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後に載せた石と言われています。

 沼田平八郎景義は、沼田万鬼斎顕泰と側室(金子美濃守の妹)の子でしたが、内紛により会津に顕泰とともに落ち延びていました。

 天正9年(1581)、沼田城奪還のために挙兵し沼田に迫りましたが、伯父である金子美濃守に「沼田城を明け渡す」と欺かれ、沼田城内に招き入れられたところを殺害されました。

 亡骸は、小沢城趾に葬られ、沼田大明神として称えられています。


平八石の由来
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


平八石の由来
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20

◆沼田 顕泰(ぬまた あきやす、生没年不詳)

 戦国時代の武将。上野国利根郡沼田の領主であった沼田氏の当主。 

 沼田泰輝の実子。長尾景春の娘。万鬼斎、勘解由左衛門尉。永禄初年には沼田氏で内紛があったとみられており、これは家中が上杉憲政派と後北条氏派に分裂したのが原因という。顕泰は上杉憲政に通じて反北条方であり、長子・左衛門尉三郎と沼田当主の弥七郎が後北条氏に近づいたため、顕泰は子を次々誅した。しかし北条氏に通じた弥七郎室の実家・厩橋長野氏に攻撃されて顕泰は越後に逃亡、沼田城には北条康元が入り沼田氏を称したとされる(『沼田市史』)。

 上杉謙信が上野へ侵攻して沼田康元を追うと沼田に復権したとされ、永禄4年(1561年)の「関東幕注文」で上杉方の沼田衆を率いる沼田惣領は顕泰とみられる(『戦国大名と外様国衆』)。だが沼田城は上杉氏の関東支配の要衝となったため、永禄5年ごろから上杉氏による城代支配が行われた。以後顕泰の名はみえず、消息不明となっている。なお、1529年から1532年にかけて沼田城を築城し、それまで幕岩城に代わってここを本拠としたという(『日本城郭大系』)。

 「加沢記」によると、老齢のため、家督を子の朝憲に譲り天神城に隠居したが、永禄12年(1569年)、側室との庶子である景義に家督を譲ろうとして側室の兄(又は父)といわれる金子泰清と共に朝憲を殺害したため、家臣の反発を買い、北条高広(朝憲の岳父)や長尾憲景(白井長尾氏)、真田氏も顕泰に敵対したため領地を追われ、景義と共に同族の蘆名氏を頼って会津に逃亡したという。その後の消息は不明だが、まもなく没したといわれる。

出典:Wikipedia


◆利根英霊殿

 下は、沼田公園の一角にあった利根英霊殿の入口です。

 利根英霊殿は昭和9年に創建され、日清戦争や日露戦争の戦没者を本殿に祭っているそうです。


利根英霊殿
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-9-20


つづく