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沖縄の記憶
Memory of Okinawa
10.沖縄の城(グスク)-勝連城

青山貞一 Teiichi Aoyama
28 Feb. 2009 転載禁


 ここ数年、毎年のように沖縄本島にでかけている。調査や研究などの仕事ででかけているのだが、それとは別に沖縄に残された希有な自然を自分の目に焼き付け、そして記憶と写真に記録にとどめようとしている。

 沖縄の自然環境やそれをとりまく海洋生態系は、世界的に見ても稀有なものであったはずだが、常軌を逸した米軍基地の存在、それに今や「常習化」している公共事業への依存症によって、次々に破壊され、見る影もない。

 現在の沖縄、とくに本島で紺碧そしてマリンブルーの海や珊瑚の浜辺を見つけるのはそう容易でなくなっている。

 私の「沖縄の記憶 Memory of Okinawa」シリーズでは、沖縄本当に残され同時に絶滅の危機に瀕している自然生態系や歴史文化遺産を写真を中心に紹介する。

 その第10回目は、「沖縄の城(グスク):勝連城」である。

 2009年2月13日〜15日の沖縄現地視察で訪問した場所・機関


 沖縄県には離島を含めて多くの城がある。

 城のことを沖縄ではグスクと言う。今回の現地視察はごく一部ではあるが、琉球王国の城である「首里城」、その琉球王国(王府)に叛旗を翻した阿麻和利が築城した「勝連城」、それに沖縄本島最南端にある「具志川城跡」、さらに本島南西部に残る「知念城跡」を紹介したい。

 まず離島を含めた沖縄の城をリストにしてみた。ただし、()内は城がある沖縄県の市町村名、だいだい色は今回訪問した城。離島は含まない。

沖縄本島の城(グスフ)一覧
世界遺産系
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首里城(那覇市)
勝連城(うるま市)●
今帰仁城(今帰仁村)
座喜味城(読谷村)
中城城(中城村)
園比屋武御嶽(那覇市)
玉 陵(那覇市)  
識名園(那覇市)
斎場御嶽(知念村)
非世界遺産系
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国頭城(大宜見村)
羽地城(名護市)
仲尾次上城(名護市)
名護城(名護市)
山田城(恩納村)
屋良城(嘉手納町)
伊波城跡(石川市)
安慶名城跡(具志川市)
江洲城(具志川市)
喜屋武城(具志川市)
浜城(勝連町)
比嘉城(勝連町)
伊計城(与那城町)
泊城(与那城町)
西城(与那城町)
知花城(沖縄市)
越来城(沖縄市)
北谷城(北谷町)
浦添城(中城村)
非世界遺産系
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具志川城(糸満市)
知念城(知念村)

浦添城跡中城(浦添市)

伊祖城(浦添市)
三重城(那覇市)
屋良座森城(那覇市)
御物城(那覇市)
豊見城城(村)
八重瀬城(東町)
勢理城(平町)
大里城(大里村)
佐敷城(桟敷村)
垣花城(玉城村)
玉城城(玉城村)
糸数城(玉城村)
具志頭(志頭村)
南山城(糸満市)
国吉城(糸満市)



■勝連城(旧勝連町、現在うるま市)

 2009年2月14日、午前、懸案の泡瀬干潟視察後、旧勝連町、現うるま市にある勝連城に向かった。なお、泡瀬干潟埋立問題についても本連載の中で行う。



 私は勝連城に来るのは今回で2回目だ。1回目は2007年11月、泡瀬干潟問題で現地のNPO,桑江さんにインタビューしたあと、ほぼ同じコースで勝連城にきた。そのときは好天だったこともあり、勝連城の最上部から中条湾がよく見え、泡瀬干潟の埋め立て現場も遠望できた。

 今回はあいにくの天気、途中からぽつぽつと雨が降ってきた。幸い、雨はすぐにあがったが、2007年11月に見た下の写真にあるような光景は見れなかった。


勝連城跡の一の郭から中条湾を遠望
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2007年11月

 ところで、勝連城は勝連半島の南のつけ根部にある丘陵に位置している。

 その勝連城は、南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。


勝連城跡の全体図
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日

 北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にあり、最上部からの中条湾を見下ろす景観は格別である。

 丘の上から一の郭、二の曲輪の殿舎がある二の郭、そのすぐ下の三の郭となる。


一の郭から三の郭の想定復元図
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日


休憩所にあった資料より

 下の図は、上の図と方位が異なるが、上から下に向かって、それぞれ石垣で仕切られた一の枠(一の曲輪)、二の枠(二の曲輪)、三の枠(三の曲輪)となる。以上三つが北城に相当する。その下に現在、駐車場から勝連城への入り口(下の写真)に相当する部分が中間の内となる。


勝連城の一の枠(一の曲輪)、二の枠(二の曲輪)、三の枠(三の曲輪)の構成図
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日


史蹟 勝連城跡入り口。中間の内に相当。
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日



一の郭(最上部)からうるま海の街道方面をみたところ
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2007年11月

 下の写真は最上部の一の郭から中条湾を遠望したところ。あいにくの天気でよく見えないが、2007年11月に来たときに比べると泡瀬干潟の埋立が進み現場が見える。


勝連城跡の一の郭から中条湾を遠望する。あいにくの天気で
遠望は出来ないが泡瀬干潟の埋め立て現場が見える
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日

 下は一の郭から見た二の郭。


一の郭から見た二の郭。
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2007年11月


二の曲輪の説明
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2007年11月

 下の写真は、二の郭の殿舎跡。


二の郭の殿舎跡
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日

 下の写真は、二の郭にあるウシヌジガマ。


二の郭にあるウシヌジガマ
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日


勝連城、二の郭の殿舎跡にて
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日


 下の写真は左に一部二の郭が見えるが大部分は三の郭である。


一の郭から二の郭、三郭を望む
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日
 
  下の写真は二の郭から階段を通じ三の郭(手前)に降りるところである。


三の郭から二の郭、一の郭を望む
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日


 下の図は三の郭の説明図。三の郭からは人こくが出土している。


二の郭の説明図
 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日


 下の写真は三の郭から出土した人骨である。


 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日

 この勝連城は、13世紀〜14世紀に茂知附按司により築城したとされている。

阿麻和利(あまわり 1458年)

 勝連半島を勢力下に置いた按司。北谷間切屋良村(現・嘉手納町字屋良)出身。

 史書によれば、悪政を強いる前城主の茂知附按司を倒して勝連城の按司となる。東亜細亜との貿易を進め大陸の技術などを積極的に取り入れた。勢いを増す阿麻和利に第一尚氏王統の第六代国王・尚泰久王は娘である百度踏揚を妻に娶らせ懐柔の策を取り、同王の娘婿の立場になった。

 当時琉球では麒麟児との評判が広まり、首里の尚氏は伯父である護佐丸の次に滅ぼす計画を練る。史書によれば首里城攻略を計画していたとされる中城城主の護佐丸を王の命令で攻め、忠誠のあかしとして自刃させた。

  さらには阿麻和利自身が首里城攻略の野望を抱いたとされ、王府の疑いにより差し向けられた鬼大城(おにうふぐすく)の軍に攻め滅ぼされたとされてるが城趾には大きな戦いの痕は見られない。
 
 なお、按司(あじ、または、あんじ)は、琉球諸島に存在した琉球王国の称号および位階の一つ。王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)がなった。按司家は国王家の分家にあたり、日本の宮家に相当する。古くは王号の代わりとして、また、地方の支配者の称号として用いられていた。

出典:Wikipedia

 この城の最後の城主は阿麻和利(あまわり)である。阿麻和利は今で言う、クーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだ。しかし、1458年に琉球王府によって滅ぼされた。

 実際は「統一間もない首里王府の権力は完全ではなく、各地に有力な按司(豪族)がそれぞれ勢力を持っており、護佐丸や阿麻和利はその中でも最も力のある勢力であり、首里王府の策略によってその2大勢力が滅ぼされた」というのが真相のようだ。

 あるいは、「護佐丸と阿麻和利は、奄美地方における影響力を競っていたのではないか」とも考えられている。このように勝連城を取り巻く史実は不明確なものが多い。

 城内からは中国、元代の陶磁器(染付がみつかっており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。発掘調査は継続的に行われており、一の郭以外からは15世紀後半〜16世紀の陶磁器も出土しており、阿麻和利が滅んだ1458年以降も、1526年に尚真王が行った各按司の首里集居までは使われていたことがわかっている。


 撮影:青山貞一 Nikon Digi Camera CoolPix S10 2009年2月14日

 また城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られたが、現在は復元工事により往事の姿を取り戻しつつある。

 2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。

 登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。1972年(昭和47年)5月15日、国の史跡に指定された。

 勝連城跡も世界遺産に登録されているが、首里城と異なり、現地には県道沿いに駐車場と展示を兼ねた休憩があるだけで、およそ世界遺産に登録された歴史的文化的に由緒ある史蹟としての扱いを受けているように思えない。

 入り口近くでは例によって、どうみても不要な公共工事をしていて、その騒音が高く、せっかくの勝連城視察が台無しになるほどだった。「はこもの」は不要だがもうすこし詳細な関連資料の展示はできないものだろうか?

 なぜか沖縄ではこの種の歴史のロマンを感じさせる場所での雰囲気づくりなく、無愛想だ。サービス精神というものが感じられないのは素材がよいだけに至極大変残念である。またこれらグスクを沖縄全体のまちづくり、たとえば「沖縄50のグスク探訪」などと、PRしてみる努力が足りないのも残念である。

 今回はわずか4つのグスクを訪問しただけだったが、それぞれ本土では感じられないものを感じた。 本島では公共工事によって紺碧の海と空がウリとならなくなっている現在、琉球王朝の歴史文化を素材とした観光をもっと生かして欲しいものだ!

つづく