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忍城の行田探訪

行田市郷土博物館

全国で80%のシェアを誇った足袋

青山貞一  池田こみち 
Nov 25 2016
Alternative Media E-wave Tokyo
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忍城の行田探訪(埼玉県行田市)
@ 行田市へ A 戦国時代 B 江戸時代 C 明治以降 D 行田の足袋
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 ところで、行って見てわかったのですが、江戸時代から行田は「足袋」づくりで有名で、江戸時代には何と全国で80%のシェアを誇っていたそうです。現在でも足袋は行田の主要産業となっているようです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15



撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15

 以下は博物館入場時にいただいたパンフから行田の「足袋」に関する部分の紹介です。
 
 行田の足袋製造の始まりについての明確な資料はありません。

  17世紀後半頃の亀屋某が最初とも言われていますが、記録の上では、明和2年(1765)の道中案内に「忍のさし足袋名産なり」とあります。

 また、明縮図によれば江戸時代の終り頃には、足袋製造が最大の産業になっていました。

 明治20年代になると、工場生産となり、ミシンも導入され飛躍的に生産量が増加しました。

 行田で足袋製造が発達した理由は色々説明されていますが、綿栽培の発達とその糸を使った「青縞」と呼ばれる小巾の綿布が特産であり、それが足袋用の布として利用できたこと。藍染が盛んであったことなどです。


出典:行田市郷土博物館パンフより

 行田は、足袋の生産地であり、消費地にあるような綺麗な店先はありません。

 足袋屋の独特な看板は、軒に上がっている足袋の型の形をしたものです。

 大正時代になると、ほかの地域では大資本により大企業化した足袋製造会社が出て来ますが、行田は、個人経営による小規模経営が中心となりました。

 同時に行田の足袋製造のもう一つの特色は、工場生産だけでなく、町を歩くと、どこからともなく力夕カタとミシンを踏む音が聞こえたと言われるように、内職による生産が大きな比重を占めていたことです。


出典:行田市郷土博物館パンフより

 
 明治43年に、足袋商が中心となり行田電灯株式会社をつくり電気の安定供給をはかったことにより、飛躍的に生産量が増加しました。


出典:行田市郷土博物館パンフより


 下は忍城天守閣内の展示にあった足袋の見本です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2016-10-15


つづく