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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破


ペイズリー


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年8月公開予定
独立系メディア E-Wave Tokyo 無断転載禁
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 グラスゴーに到着前、私たちは「ペイズリー柄」で世界的に有名なペイズリー(Paisley)を短訪しました。

 下の写真はペイズリー柄です。ペイズリーはこの柄の発祥地です。その他、街には多数の古い修道院がありました。


             ペイズリー柄 Source:Wikimedia Commons

◆ペイズリーの概要

 ペイズリー (Paisley)は、スコットランド・レンフルーシャーの町です。かつてのバラ(Burgh)であり、グラスゴーのおよそ南西8マイルの位置にあります。


ペイズリー (Paisley)の位置  グーグルマップ

 人口は72,970人(2004年)。町(Town)としての規模は、キルブライドに次いでスコットランド第2位です。


ペイズリー (Paisley)の中心市街地  グーグルマップ


ペイズリー市役所
[1=Paisley Town Hall, Paisley, Renfrewshire, Scotland. View from St Mirren Street, across the White Cart Water.
Source:Wikimedia Commons

 下もペイズリー市役所の写真ですが、思いのほか、巨大な建築物でした。


ペイズリー市役所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 ペイズリーは、かつて古代ローマ時代のVanduaraの砦があった場所の一つに数えられています(クラウディオス・プトレマイオスが記した)。現在のペイズリーの場所の検証はこの砦を第一としています。

 12世紀には町周囲に小修道院が創建され、たちまち定住者が増えました。小修道院ができて100年のうちに、位が上がりペイズリー修道院となりました。町は18世紀から19世紀に、綿織物ペイズリーの生産で有名になっています。以下はペイズリー柄です。


インドの織物用の木版画
識別標:blockprintsfromi01lewi(検索で適合)
著者:Lewis,A.B.(アルバート・ビュウェル)1867〜
Source:Wikimedia Commons

 以下は上記のインドの織物用の木版画の解説の一部です。

 布のデザイン(テキスタイル・デザイン);布生地−−インド;装飾品、飾り物出版社:シカゴ貢献した図書館:イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校画像に関する注意:これらの画像は、見やすくするためにデジタル的に強調されている可能性のあるスキャンされたページの画像から造られています。そのため、これらのイラストレーションの外観は、元の作品に完全に似ていない場合があります。ペイズリー柄・模様


Detail eines Einstecktuchs, Paisleymuster, Seide
Source:Wikimedia Commons

ペイズリーの語源

 ペイズリーという公式名の由来は定かではありません。ブリトン語のpasgill(牧草地を意味する英語pastureと同義語)、またはpasseleg(バシリカを意味する英語のbasilica)から派生したという説もあります。


Map of Paisley in 1923
Source:Wikimedia Commons

ペイズリーの歴史

 ペイズリーの歴史は修道院から始まります。アイルランド人の聖職者聖ミリンが、ハミルズと呼ばれたカート川の滝近くの場所に礼拝堂を建てました。

 ペイズリーにはストラスクライド王国の信仰の中心地だったグラスゴーやゴーヴァンと一緒の同時期の文献が欠けています。

 小修道院が、イングランド・シュロプシャーのクリュニー会派小修道院から枝分かれして、貴族ウォルター・フィッツアランの後援を受け1163年に建てられました。

 1245年、修道院の地位に昇格されます。修繕された修道院と近接した宮殿は中世の修道院の一部として建設され、現在はスコットランド教会の教区教会として続いています。

 スコットランドの主要な信仰の本拠地の一つとして、ペイズリー修道院はブルース家とステュアート家の両王家に手厚く保護されました。

 映画『ブレイブハート』の主人公で、スコットランド独立の英雄ウィリアム・ウォレスは、ここで教育を受けました。ロバート3世(在位1390年-1406年)は修道院に埋葬されています。

 彼の墓は現存していませんが、ロバート1世の王女マージョリー・ブルース(1296年-1316年、ステュアート家の先祖の一人)の墓は、宗教改革以後も残った数少ない王族の墓の一つです。

 ペイズリーはジェームズ2世と連携し、土地は単独の地方管轄権となった結果、市場、交易、商業が繁栄し始めました。1488年、町はジェームズ4世により地位が男爵領のバラとなりました。

 多くの交易が盛んになり、最初の学校が1577年に町議会によって建てられました。

 19世紀半ばから繊維業が盛んになり、町の第一の産業となりました。ペイズリーは今も、19世紀半ばにカシミールから持ち込まれたショールの模造品の生産や、同じくカシミールからもたらされたペイズリー模様の生地で非常によく知られています。

 繊維業の友愛会を通して、猛烈な積極姿勢を取ったことから、ペイズリーは学問が盛んで幾分急進的な町という評判をえました。この時期から、信仰に根ざした意見とアルコール飲料を飲みながらの議論が混ざり合い、夜通し繊維業者、詩人、商人、石工などの間で意見を戦わせるようになりました。詩人ロバート・タンナヒルは織り手として働きながらこの会合に出席していたのです。

ペイズリーの産業


ファーガスリー製糸場(J.&P.コーツ社)
Source:Wikimedia Commons

 ペイズリーは繊維業で一時期有名でした。1870年代から100年近く、ペイズリー模様のショールは流行の品でした。ジャカード織機が1820年代に持ち込まれるまで、織物は家内の織機で織られていました。

 この改良は生産過程の工業化を牽引しました。その結果として、多くの織り手が職を失い、カナダやオーストラリアへ移住して行きました。これら移民の一人がジョン・ハートというペイズリーの製糸場所有者で、彼はカナダ・オンタリオ州パースへ移住し、本屋と商人の店を開いています。

 湿気のある温暖な気候であるためペイズリーは、何年もの間綿の紡ぎ糸を編む産業の中心地でした。

 ペイズリーの最盛期だった1930年代の製糸産業では、大きな建物の中で28,000人もの労働者が働いていたといいます。これは同種の工場としては当時世界最大の規模でした。

 1950年代に入ると、化繊の糸を用いて多種多様な製品を生産できるようになりましたが、人件費の安いインドやブラジルなどから入ってくる輸入品に押され、生産は急速に減少して行きました。

 1980年代の後半には、ペイズリーで製糸は行われなくなっていましが、製糸も織物も町に消えない証を残しています。町の至る場所に、繊維業に関連した名前、コットン・ストリート、シャトル・ストリートなどが数多く残っています。

 町は繊維業に関連した機械業や造船業などがあります。多くの工場が閉鎖されたり、大手企業が撤退をした結果、町に残る企業の雇用は、スコティッシュ・ウィスキーのブレンダー及びボトリングを行うシーヴァス・ブラザーズ、スイスの製薬会社ノバルティスくらいにすぎなくなりました。どちらの会社もかつてより雇用を減らしている。

 グラスゴー国際空港はペイズリーの北にあり、雇用の一大中心地になっています。多くのペイズリー町民が町外に働きに出、その多くはグラスゴー市中心部へ流れています。ペイズリーの交通アクセスの良さから、クライド・ヴァレー地域内の通勤を容易にしています。

ペイズリーの建築物


ペイズリー修道院
Source:Wikimedia Commons

 ペイズリー修道院 - 歴代スコットランド王が埋葬された。


トーマス・コーツ・メモリアル教会
Source:Wikimedia Commons

・トーマス・コーツ・メモリアル教会 - 新古典主義建築。
  ヨーロッパで最大のバプテスト教会。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

・セント・ミリン教会 - 1931年完成のカトリック教会。
  ペイズリー司教座がおかれる。

・セント・マシューズ教会 - ナザレーン教会。

・ファーガスリー製糸場


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