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   美の極致、厳寒のロシア2大都市短訪

2大都市独ソ戦

歴史上最大の戦死者を出したロシア

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年1月31日
独立系メディア E−wave Tokyo
 
無断転載禁

   
 ロシアの国章    サンクトペテルブルグ紋章    モスクワ紋章

 
<独ソ戦>
 ペテルブルグ包囲  ペテルブルグ包囲とネコ   モスクワの戦い  独ソ戦


議論再開

 次はモスクワの戦いです。

 ナチスドイツは同じ時期、レニングラードだけでなく、モスクワそしてスターリングラードを攻撃しますが、これらの戦争が終わってもまだ、レニングラード包囲はつづきました。これらによるソ連側戦死者は300万人を超えています。
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 当然、それ以外にもナチス・ドイツとソ連の戦いは、ポーランド、ハンバリー、ウクライナなどの南部戦線、方部戦線で激突し、合計2000万人超が亡くなったのです。

モスクワの戦い 1941年10月2日〜1942年1月7日

 モスクワの戦いは、第二次世界大戦中の1941年10月2日より始まりました、ドイツ軍によるモスクワへの攻略戦「タイフーン作戦」によって行われた戦闘です。タイフーン作戦は、バルバロッサ作戦の第2段階として敢行されました。

ドイツ軍の進撃

 ハインツ・グデーリアン率いる第2装甲集団は、9月13日突如北東に向かい、ソビエト赤軍の防衛線から120kmほど離れたオリョールを目指します。同装甲集団は10月3日にオリョールを落とし、同時にブリャンスクを攻撃しました。

 さらにヘルマン・ホト率いる第3装甲集団、エーリヒ・ヘープナー率いる第4装甲集団がモスクワの真西に位置するヴャジマ方面へ突破します。ブリャンスク周辺とヴャジマ周辺に2つの包囲網を形成し、相当な戦力を有するソ連軍を壊滅、事実上ソ連第19軍を主力とする西部戦線司令部を機能しない状態にまで追い込んだのです。

 1941年10月14日には、ヘルマン・ホト率いる第3装甲集団はヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末にはグデーリアンの部隊がトゥーラ近郊まで到達することに成功しました。

ソ連軍の反撃

 モスクワ陥落の危機に、ヨシフ・スターリンはレニングラード攻防戦を一段落させたゲオルギー・ジューコフに首都防衛を命じました。同時にソ連国防委員会は、政府機関や工場等をウラル方面へと疎開させつつもモスクワ市民を中心にドイツ軍に立ち向かわせ、冬将軍が来るまでできるだけ長く足止めをするという作戦を実行します。

 これには周辺士官学校生やコムソモール員からなる共産主義者義勇団等を大量動員、不足していた防衛前線へ人員補充の為に送られました。その中には後にパルチザン英雄として称賛される若きコムソモール、ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤも含まれています。彼女はドイツ軍駐屯地への放火に依りドイツ軍に処刑されましたが、これはソ連軍及びコムソモールの士気を高める材料には十分となったのです。

 ナチスドイツSS師団 ダス・ライヒと第10装甲師団はモジャイスク周辺でソ連軍の反撃を受け、突破した部隊も進撃の勢いは失っていました。10月になり、ついに天候が悪化しはじめ雨が多くなると、舗装されていないソ連の道は泥沼と化しました。

 これがドイツ軍にとって致命的な障害となり、装甲部隊の前進も物資の補給もままならなくなったのです。一方、ソ連軍はこうした自然条件に慣れていたのと、ドイツ軍に比べ長距離の移動を必要としない防御戦であるためにさほど問題はなかったのです。

 この10月中のドイツ軍の前進の鈍化が、モスクワの防衛体制を整える時間的猶予を与えました。また、戦意高揚の為、この防衛戦の最中であっても11月7日の革命記念日には、ドイツ軍を尻目に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行しました。

 11月になると天候は回復し、気温が低下します。霜が降りて路面状態は良好となり、ドイツ軍の進撃スピードは回復します。しかし、ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や装備をしておらず、何よりも伸びきった補給線が限界に到達しようとしていました。また、ソ連軍はドイツ軍に物資を残さない徹底的な「焦土作戦」を実施し、補給の現地徴収もほぼ不可能となり、ドイツ軍はいよいよ窮乏に瀕したのです。

 11月末には、各所でドイツ軍の攻勢が頓挫。南部からモスクワを目指した第2装甲集団はトゥーラを落とせないまま、これを迂回して前進を継続していましたが、モスクワ南方を流れるオカ川の線で前進を阻止されました。北方から進撃した第3装甲集団は北部の要衝クリンを制圧し前進しましたが、北部からのモスクワ突入はなりませんでした。

 西方正面では第4装甲集団がクレムリンから25kmの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの尖塔を眺める位置に(前線の工兵部隊はモスクワまで8kmの地点まで前進したとも)ありました。

 しかし、例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃は完全に停止します。気温が零下20℃以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷のため使用不能に陥りました。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、車両や航空機も満足に動かせない状態となったのです。しかも医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続出したのです。

 特に軍靴は長距離進軍に耐えるため底に鋲が打ってあり、足に冷気を伝え凍傷の原因となりました。対してソ連軍は靴底に鋲を打たないブーツを使い、兵士には一回り大きいサイズのブーツを支給し、隙間に新聞紙や藁を敷き詰める等、防寒装備は充実していたのです。

 ドイツ空軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領しましたが、翌日からソ連空軍の猛爆撃が始まり、制空権はソ連側にありました。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となったのです。

 ドイツ軍の攻勢に同調した日本軍の極東ソ連への侵攻計画はなしとの10月4日付のリヒャルト・ゾルゲからの情報にスターリンは安心し、ソ満国境に配備された冬季装備の充実した精鋭部隊をモスクワ前面に移送し首都防衛を強化しました。ドイツ軍は守勢に立たされ、戦うことよりも自分の生命を守ることを優先するほどであり、退却を重ねました。

 12月5日、モスクワ攻略の続行不可能が明白となり、ブラウヒッチュ、ボック、レープ、ルントシュテット各元帥、ホト、ヘープナー、グデーリアン各大将と35名の将軍更迭を以てナチスドイツ軍の作戦は失敗に終わったのです。

エピソード

 モスクワ防衛に成功したソ連スターリン宛に同年12月16日、アメリカ大統領ルーズベルトから連合国を代表して祝電が送られています。東京発10月4日付の報告からまもなくゾルゲとその協力者(ゾルゲ諜報団)は日本側に摘発され、ソ連への最後の報告となったのです。


ドイツ軍の進撃。1941年12月5日まで


ソ連軍の反撃。1941年12月5日から1942年5月7日


1941年12月 モスクワから前線に移動中の新規部隊。



出典:Wikipedia


つづく