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 厳寒のロシア2大都市短訪

サンクトペテルブルグ

文化1


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

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サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)

     
サンクトペテルブルグ市紋章   サンクトペテルブルグ市旗    

文化

文学


 サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきました。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきました。

 『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表です。

 また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていました。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれました(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っているとされています。

音楽


マリインスキー劇場のメインホール
Source:Wikimedia Commons
Kremlin.ru, CC 表示 4.0, リンクによる


 サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団(旧レニングラード・フィル)サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団の起源は、1772年に発足したペテルブルク音楽協会に遡ります。1802年、ペテルブルク・フィルハーモニー協会に改組され、1824年にはベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を世界初演しています。現在のサンクトペテルブルク・フィルの設立は1882年です。設立当初は宮廷管弦楽団でしたが、次第に一般対象のコンサートも増え、バラキレフやグラズノフなどが指揮台に立った他、ニキシュやリヒャルト・シュトラウスもこの頃客演しています。

 1917年のロシア革命により、宮廷管弦楽団も改組され、初代常任指揮者にセルゲイ・クーセヴィツキーを迎えて再スタートを切ります。1920年にペトログラード国立フィルハーモニー交響楽団、1924年にペトログラードがレニングラードと改称されると国立フィルハーモニー協会傘下のレニングラード・フィルハーモニー交響楽団といった具合にめまぐるしく改称が続きます。団体名の方はレニングラード・フィルハーモニー交響楽団で一応落ち着いたものの、常任指揮者の方はクーセヴィツキーが1920年に辞した後、エミール・クーパー(1921年 - 1923年)、ニコライ・マルコ(1926年 - 1929年)、アレクサンドル・ガウク(1930年 - 1934年)、フリッツ・シュティードリー(1934年 - 1937年)と数年単位で交代が続き、楽員の士気もやや低迷気味だったと言われています。

 1938年、35歳のエフゲニー・ムラヴィンスキーが常任指揮者・音楽監督のポストにつき、生涯にわたってポストを全うします。半世紀におよぶムラヴィンスキー治世下で、レニングラード・フィルは全盛期を迎え、名実共にソ連トップ、世界屈指のオーケストラへの躍進を遂げます。1941年に亡命ドイツ人のクルト・ザンデルリング、1952年にアルヴィド・ヤンソンスが指揮者陣に加わる。レニングラード・フィルの初来日は1958年、その後1970年にも来日しています。1988年、ムラヴィンスキーが死去したあと、ユーリ・テミルカーノフが現在に至るまで後任を務めています。団員の多くが入れ替わったことやヴァレリー・ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場管弦楽団の躍進などもあって、往年の威光の回復にはもう少し時間がかかりそうです。
   
 サンクトペテルブルグオーケストラは、ショスタコーヴィチの多くの作品を初演するなど、この作曲家と密接な関係にあり、1975年の作曲家没後に「ドミートリイ・ショスタコーヴィチ記念」という冠称を楽団名に加えられました。1991年、ソ連崩壊によって、レニングラードからサンクトペテルブルクに街の名称が復したことに伴い、楽団名も現在の名称に改称されました。
 
マリインスキー劇場

 20年間に渡り音楽監督を務めているヴァレリー・ゲルギエフのもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。オペラ・バレエだけでなくコンサート(同劇場管弦楽団として)においてもレベルの高い演奏を続けています。

 ウィンナワルツの作曲家として知られるヨハン・シュトラウス2世は、1856年から連続して1865年までと、1869年、それに晩年の1886年の夏にサンクト・ペテルブルクやその近郊の街であるツァールスコエ・セロー(現在のプーシキン)やパヴロフスクを訪れ、特にバヴロフスクの駅舎コンサートではロシア人聴衆を前に多数のワルツやポルカの数々を発表し熱狂的な支持と歓迎を得ました。

 シュトラウス2世自身も滞在先のロシアからウィーンの友人に宛てたある手紙の中で「生きるならロシアに限ります。ここには多くの金がある。金がある所にこそ生きがいがあるのです!」と述べて書き送っているほどです。そんなロシア滞在時代には多くのセンチメンタルな作品のあれこれが書かれ、それらの多くはロシアの民謡を実際に形として取り入れた作品や、ロシア的に響く内容の性格色濃い作品が多く目に留まる。なお、ヨハン2世の弟のヨーゼフ・シュトラウスも1862年と1869年の夏に兄のヨハン2世に随行する形でロシアを訪れて、パヴロフスクの駅舎で自作を発表し演奏して公式にロシア・デビューを果たしてもいます。

 1858年には、渋いチェロの独奏で開始される穏やかな内容のワルツ<サンクト・ペテルブルクとの別れ> op.210や、1859年にはコーダ部分で嵐の情景の様を効果的に描いた力作ワルツ<旅の冒険>op.227が、1860年には素朴ながらも感傷的なロシア情緒が交錯する幾分悲劇的な転調で変化を見せる内容の<宝石のポルカ> op.242や、「北のヴェネツィア」の愛称の由来となったネヴァ川にちなんで1864年の夏に滞在先のロシアで偶然に書かれたとされる愛らしく無邪気な内容の<ネヴァ川ポルカ> op.288などの作品がいずれも避暑先のロシアで書かれています。

 これらの他にもロシア風な特徴を持つ作品群が多数ヨハン・シュトラウス2世の作品表上には眠っている。どのロシア時代の作品も傑作と呼ぶべき密度の濃い作品が揃っており、それらの大半は今日、演奏される機会にほとんど恵まれず隠され埋もれた状況となっています。

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートでもシュトラウス2世のロシア滞在時代の作品は、いまだにそのほんの一部分の作品が繰り返し演奏・録音されるほかは発掘演奏されずコンサート・ピースとしてレパートリ―に定着していない感が否めません。


つづく