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   厳寒の2大ロシア都市短訪

ロマノフ家

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo

無断転載禁
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<ロマノフ朝>
  ロマノフ王朝        ロマノフ家            ロマノフ家の人々  
  ロマノフ帝国        エカテリーナ1世        エカテリーナ2世   


サンクトペテルブルグ(Saint Petersburg)

 
サンクトペテルブルグ市紋章 ロシア帝国の大紋章(1882 ~1917年)

ロマノフ家

 ロマノフ家は、古くからロシア帝国に於ける有力貴族であったというが明らかではありません。

 一説によるとこの家系のロシアにおける起源は、13世紀にプロイセン地方でドイツ騎士団による残酷な攻撃から逃れてロシアの地にたどり着いた古プロイセン人のグランダ・カンビラ(Glanda Kambila)という名の公であったと言われています。

 ただし、明らかであるとされている先祖は14世紀にモスクワ大公のセミョーンに仕えていたアンドレイ・カビラ(Andrei Kobyla)という低位の貴族で、カビラという姓はロバの意味であり、カビラ家はみな馬やその他の家畜にちなんだあだ名をつけられていることからモスクワ大公家の馬丁の家系であったという推測がされています。

 ミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にモスクワ大公にして「全ルーシのツァーリ」だったリューリク家の外戚になりました。イヴァン4世(雷帝)死後、リューリク家断絶によるロシアの混迷(動乱時代)、ことに帝都モスクワを占領したポーランドを撃退したことで、1613年ロシアの有力貴族によってツァーリに推戴されまし。

 帝政初期は有力貴族によって政治を牛耳られていましたが、第2代ツァーリ・アレクセイによって帝権が確立します。1666年のニーコン総主教追放がその顕著なしるしとなりました。主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保でした。ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもありました。

 また、この時代は皇帝による支配が安定した時期であり、それまでロシアの政治を担ってきた貴族階級が没落した時代でもありました(絶対君主制)。なおロマノフ家の嫡系はピョートル2世の代で絶え、1762年にホルシュタイン=ゴットルプ家から迎えられた外孫のピョートル3世が皇位を継承しています(以後をホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家と呼ぶこともあります)。

 ピョートル3世の皇后であったが夫を廃して自ら即位したエカテリーナ2世も生粋のドイツ人であり、以後もロシアの皇室はドイツの血統が濃密となりました(後にドイツ人との婚姻で、皇室に影を落とす血友病もロマノフ家に流入しました)。

 ピョートル大帝の時代以降、ロシアではスラヴ派と西欧派がしのぎを削り、それがツァーリの親政にも影響を及ぼしました。歴代皇帝の政策は、主に不凍港の確保と南下政策でしましたが、19世紀に欧州列強として台頭すると、ロシア帝国も帝国主義化し、植民地主義を標榜するようになりました。

 特にバルカン半島に対する民族主義を掲げ、汎スラヴ主義を推し進めました。これはオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の原因ともなりました。

 一方、帝国内では領土拡張によって内部に数多くの少数民族を抱え、民族問題を抱え込むこととなったのです。

 この様な中でツァーリの親政にも限界が及び、1881年にはナロードニキによるアレクサンドル2世の暗殺事件が起きています。1905年には血の日曜日事件が起き、皇帝ニコライ2世は改革に踏み切りましたが、既に時機を逸していました。これ以降、帝国内は混迷の時代を迎え、ロシア帝国の最終章を迎えるのです。

 2007年、ロシア国民の一部がロマノフ王朝の皇帝(ツァーリ)復活を望んでいる事との報道がなされたとされます。(ロマノフ家の末裔の皇帝即位に賛成が35%、反対が7%)。理由は現在のロシアの格差社会の広がりが問題と言われています。2008年10月1日、ロシア最高裁判所はロマノフ家をボリシェビキ政権による弾圧の犠牲者であったとして正式に名誉を回復させています。


ロマノフ朝の系図


Source:Wikipedia

 以下は参照です。

 ・ロマノフ王朝肖像系コレクション
    ロマノフ王肖像1  ロマノフ王肖像2
    ロマノフ王肖像3  ロマノフ王肖像4
    ロマノフ王肖像5  ロマノフ王肖像6
    ロマノフ王肖像7  ロマノフ王肖像8


ロシア革命以後のロマノフ家当主

 現当主ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3世の弟ウラジーミル大公の家系である。

 ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(1847年 - 1909年)

 アレクサンドル2世の三男。ロシア革命以前に没しており、帝位を請求したことはない。

 キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876年 - 1938年)

 ウラジーミルの息子。1924年9月13日にロシア皇帝位の継承を宣言。以下キリルの
   息子・娘に名 目上の皇位が継承されている。

 ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年 - 1992年)
   キリルの息子。

 マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年 - )

 ウラジーミルの娘。夫はミハ イル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の
   曾孫フランツ・ヴィ ルヘルム・フォン・プロイセ ン)

 ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年 - )

 マリアとフランツの間の息子。ロシア皇帝位継承権第1位であると共に、ドイツ
   皇帝位およびプロ イセン王位継承権第8位である。

歴代当主(歴代ロシア皇帝, インペラートル) ムラサキの地に黄色字は女帝

歴代 皇帝 在位 備考
初代 ピョートル1世 1721年-1725年 ツァーリ即位は1682年。元老院と宗務院より、インペラートルとともに大帝(Великий)の称号も受ける。
第2代 エカチェリーナ1世 1725年-1727年 ピョートル1世の皇后。
第3代 ピョートル2世 1727年-1730年 ピョートル1世の孫、廃太子アレクセイの子。
第4代 アンナ 1730年-1740年 ピョートル1世の異母兄イヴァン5世の子。クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムの未亡人。
第5代 イヴァン6世 1740年-1741年 イヴァン5世の曾孫。宮廷クーデターにより廃位。1764年に殺害。
第6代 エリザヴェータ 1741年-1761年 ピョートル1世とエカチェリーナ1世の子。
第7代 ピョートル3世 1761年-1762年 エリザヴェータの甥。ホルシュタイン=ゴットルプ公。宮廷クーデターにより廃位、後に殺害される。
第8代 エカチェリーナ2世 1762年-1796年 ピョートル3世の皇后。プロイセンのアンハルト=ツェルプスト侯家出身。大帝の称号を受ける。
第9代 パーヴェル1世 1796年-1801年 ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子。宮廷クーデターにより殺害。
第10代 アレクサンドル1世 1801年-1825年 パーヴェル1世の子。
第11代 ニコライ1世 1825年-1855年 パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。
第12代 アレクサンドル2世 1855年-1881年 ニコライ1世の子。「人民の意志」派の爆弾テロにより暗殺される。
第13代 アレクサンドル3世 1881年-1894年 アレクサンドル2世の子。
第14代 ニコライ2世 1894年-1917年 アレクサンドル3世の子。二月革命により退位。1918年に家族とともに殺害される(ロマノフ家の銃殺)。
出典:Wikipediaなどを参考に青山貞一が作成


つづく