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厳寒のロシア2大都市短訪
 

モスクワ芸術座

沿革
 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年5月30日
独立系メディア E-wave Tokyo
 
無断転載禁
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 ・モスクワ芸術劇場  
  モスクワ芸術劇場 概要    モスクワ芸術劇場 沿革


◆モスクワ市概要



沿革

 1897年に設立されたモスクワ芸術座を一躍有名にしたのは翌1898年のアントン・チェーホフの『かもめ』の再演でした。


Anton Pawlowitsch Tschechow Original caption: :Anton Pawlowitsch Tschechow :Nach einer Photographie Source: "Bibliothek des allgemeinen und praktischen Wissens. Bd. 5" (1905), Abris der Weltliteratur, Seite 85 Scan by User:Gabor
Source:Wikimedia Creative Commons

 1895年に書かれた『かもめ』はその翌年の1896年にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場(ru)で初演されましたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わっていました。


モスクワ芸術座団員とともに『かもめ』を読むチェーホフ。
中央で戯曲を読むのがチェーホフ、左隣にスタニスラフスキー、右端はメイエルホリド
Source:Wikimedia Creative Commons


1903年のモスクワ芸術劇場内部の写真
1903 photo of Moscow Art Theater interiors
Source:Wikimedia Creative Commons

 しかしモスクワ芸術座による再演は俳優が役柄に生きる新しい演出によってこの劇の真価を明らかにし、大きな成功を収めました。この成功を記念してモスクワ芸術座は飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用しています。

 以後、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』や『三人姉妹』、『桜の園』を次々と初演して行きました。このほか主な演目にマクシム・ゴーリキーやミハイル・ブルガーコフの作品などがあります。

 劇団は1917年の十月革命の後もソビエト連邦政府の手厚い支援を受けつつ発展を続けました。劇団所属の多くの俳優たちにソ連人民芸術家の称号が与えられています。

 1987年に劇団はオレグ・エフレモフを芸術監督に擁するチェーホフ記念モスクワ芸術座と、タチアナ・ドロニナを擁するゴーリキー記念モスクワ芸術座の二つに分裂しました。チェーホフ記念モスクワ芸術座は2000年からオレグ・タバコフが芸術監督を務めています。

◆『かもめ』(ロシア語で「チャイカ」、Чайка)

 『かもめ』はロシアの作家、劇作家のアントン・チェーホフの戯曲です。チェーホフの劇作家としての名声を揺るぎないものにした代表作であり、世界の演劇史の画期をなす記念碑的な作品です。後の『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』とともにチェーホフの四大戯曲と呼ばれています。

 湖畔の田舎屋敷を舞台に、芸術家やそれを取り巻く人々の群像劇を通して人生と芸術とを描いた作品で、1895年の晩秋に書かれた。『プラトーノフ』(学生時代の習作)、『イワーノフ』、『森の精』(後に『ワーニャ伯父さん』に改作)に続く長編戯曲で、「四大戯曲」最初の作品です。

 初演は1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場(ru)で行われたが、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わりました。その原因は、当時の名優中心の演劇界の風潮や、この作品の真価を理解できなかった俳優や演出家にあるともいわれています。

 チェーホフは失笑の渦と化した劇場を抜け出すと、ペテルブルクの街をさまよい歩きながら二度と戯曲の筆は執らないという誓いを立てました。妹のマリヤは後のチェーホフの結核の悪化の原因をこの時の秋の夜の彷徨に帰しています。

 しかし2年後の1898年、設立間もないモスクワ芸術座が逡巡する作者を説き伏せて再演すると、俳優が役柄に生きる新しい演出がこの劇の真価を明らかにし、今度は逆に大きな成功を収めました。この成功によりチェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなり、モスクワ芸術座はこれを記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用しました。


モスクワ芸術座による再演でニーナを演じたロクサーノヴァ(左)と
トリゴーリンを演じたスタニスラフスキー。
Source:Wikimedia Creative Commons

出典:Wikipedia

日本との関わり

 1912年から翌年にかけてモスクワを訪問した小山内薫はモスクワ芸術座によるゴーリキーの『どん底』を観劇し、スタニスラフスキーの自宅にも招かれました。小山内はこの時に記録した克明なノートをその後の演出に生かしています。

 以来、モスクワ芸術座は日本の新劇界にとって範であり続けています。1958年から翌年にかけて初めて日本を訪れ、『三人姉妹』などを上演しました。

 1968年、1988年にも日本で公演を行っています。2004年には静岡で鈴木忠志の演出によりシェイクスピアの『リア王』を上演しました。この鈴木演出による『リア王』はモスクワ芸術座の正式なレパートリーとなり、鈴木はスタニスラフスキー賞を受賞しています。2005年、2006年にも日本で鈴木演出の『リア王』を上演しています。


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