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メアリー・ステュアートの足跡を追って
スコットランド
2200km走破

参考資料(詳細)
メアリー・ステュアートの生涯

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2018年12月10日公開
独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載


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メアリーステュアート女王    メアリー・ステュアートの生涯
スコットランド全行程地図    ※ スコットランド歴史環境協会

ジャコバイトについて1      ※ ジャコバイトについて2
スコットランドの宗教


悲劇の女王、スコットランド
  メアリー・ステュアート(Mary Stuart)の生涯




スコットランド女王、メアリー・スチュアート Source:Wikimedia Commons

●メアリー女王の足跡を辿る旅:スコットランド・エジンバラ城 You Tube


はじめに

 メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 - 1587年2月8日)は、スコットランド女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 - 1567年7月24日)を指します。

 メアリーはスコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女です。


左がスコットランド王ジェームス5世、右がフランス貴族のマリ・ド・ギーズ
中央がマリー・スチュアート 出典:NHK BSプレミアム


当時のスコットランドとイングランド  出典:NHK BSプレミアム

 以下は、ステュアート家の系譜です。下から二段上にジェームス五世とメアリー・ギーズがおり、最下段にメアリー・ステュアートがいます。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpis S8

 ※参考 ステュアート家の系譜

 メアリーは王家ステュアートの綴りを Stewart から Stuart に替えましたが、これは自身のフランス好みからであったと言われています。同時代のイングランド女王エリザベス1世と比較されることも多く、また数多くの芸術作品の題材となっています。

 親しみを込め、しばしば「クイーン・オブ・スコッツ」と呼ばれています。

 メアリー自身は廃位ののち国を追われ、エリザベス1世の命によりイングランドで刑死しましたが、その子ジェームズはスコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせ継いでいます。

 以後スコットランドとイングランドは同君連合を形づくり、18世紀のグレートブリテン王国誕生の端緒となっています。

 終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は、すべてメアリーの直系子孫といえます


生涯

誕生と即位

 メアリーは1542年12月8日、リンリスゴー城(Linlithgow Castle)でジェームズ5世の第3子として生まれました。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承しました。

 ※参考 メアリーの生誕地、リンリスゴー  リンリスゴー城 


エジンバラ近くにあるリンリスゴー城、メアリー・スチュアートが
生まれた城として有名。最初の3泊はリンリスゴーに宿をとった
Source: English Wikipedia
By Derek Harper, CC BY-SA 2.0, Link


スコットランド、エディンバラの西部に位置するリンリスゴーの古い町に、リンリスゴー宮殿の廃墟遺跡、大ホール、議会棟などがあります。(正しい眺め/遠景とは異なっている)
Source;English Wikimedia
© Sir Gawain / Wikimedia Commons, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 メアリーの戴冠式は、リンリスゴー城から西にあるスターリング城
(Stirling Castle)で行われています。


メアリーはリンリスゴー城からスターリング城に移された
どことなくエジンバラ城に似ている
Source: English Wikipedia
CC BY-SA 3.0, Link



スターリング宮殿 1910-1915
Stirling. The Palace. Stirling Castle. Postcard, circa 1910-1915. Publisher: Valentine's Co. Ltd. Dundee, London. Source:Wikimedia Commons
© Sir Gawain / Wikimedia Commons, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 メアリーの摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任しました。その後、イングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約させられました。

 1547年、スコットランドはイングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になりました。

 1548年、王母マリー・ドギーズの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられることになります。

 なお、メアリーはスコットランドからフランスに向かうとき、またフランスからスコットランドに戻るとき、いずれもエディンバラのリース港(Leith port)を使っています。

 ※参照 リース港

フランス王妃
 1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の王太子フランソワと結婚式を挙げました。同年11月17日にジェームズ5世の従妹に当たるエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承権者であ」と抗議します。

 さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーはイングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させます。

 7月10日にアンリ2世が亡くなると、王太子がフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となりました。


左がフランス王子フランソア二世、右がスコットランド女王
メアリー・ステュアート  Source: English Wikipedia
Public Domain, Link

  ※参照 フランスに嫁いだメアリー1 フランスに嫁いだメアリー2

 この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けました。7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、先の紋章の使用禁止が謳われましたが、メアリーは実際にはその後もこの紋章を使用し続けました。

 イングランド国内においても、エリザベスの王位継承に不当性を唱える大貴族がおり、女王の政権は不安定なもので、メアリーがエリザベスを「庶子」と主張して自らの王位継承権を言い立てることは、エリザベス個人の不興にとどまらず、政権を揺るがす政治的問題となってゆきます。

 またローマ教皇を含む多くのカトリック教徒は、実際にメアリーがイングランド女王であると考えていました。

 下はフランスから帰国したメアリーが住み、長男のジョージ六世を生んだエディンバラ城です。エディンバラ城を写した写真は膨大な数ありますが、私たちはこの角度から撮ったエディンバラ城が気に入っています。まさに岩山の上に立つ要塞そのものといえます。


エディンバラ城遠景  
Source:Wikimedla Commons
, CC BY-SA 2.0, Link  

 ※参考 エディンバラ城に入る  ※参考 エジンバラ城内部・内装


メアリーの子、ジェームス六世
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 長男の誕生に喜ぶメアリーと付き人たち。ユニバーサル映画より。


Source:Mary Queen of Scot, International Trailer (Universal Picture 2018)HD


帰国と親政、ダーンリー卿との再婚

 1560年12月5日、フランソワ2世が16歳で病死ました。子供ができなかったメアリーは、翌1561年8月20日にスコットランドに帰国しました。メアリーは父の庶子で異母兄のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問としました。


フランスからスコットランドに帰国するメアリー
Source:Robert Herdman, Mary, Queen of Scots: The Farewell to France
Source: English Wikipedia
Robert Herdman - National Gallery, Edinburgh, パブリック・ドメイン, リンクによる

 下はエディンバラ北、フォース湾の面するリース港に到着(帰国)したメアリースチュアート女王です。


フランスからエディバラ北のフォース港に到着したメアリー女王
Source:https://www.wikigallery.org/wiki/painting_334186/Sir-William-Allan
/Mary-Queen-Of-Scots-Arriving-At-Leith%2C-1651



 当時のスコットランドは宗教改革が進み、多くの貴族がプロテスタントに改宗していましたが、カトリックの貴族も相当数残っていました。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントでしたが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を図りました。

 下はプロテスタントのひとつである英国国教会の中心にいたジョン・ノックス牧師。ジョン・ノックス牧師は陰に陽に、メアリーに敵対し、最後は公然と女性のメアリーが女王となることに反対しました。


英国国教会の中心にいたジョン・ノックス牧師
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S10

 こともあろうか、ノックス牧師はメアリー女王に以下を言い放っています。


出典:メアリー女王の足跡を辿る旅 スコットランド・エジンバラ城 E-wave Tokyo


出典:メアリー女王の足跡を辿る旅 スコットランド・エジンバラ城 E-wave Tokyo

 1562年の夏には、カトリック貴族では最有力のゴードン家がメアリーに反乱を起こしました。これはマリ伯により鎮圧されました。

 メアリーは再婚相手について検討を始めます。

 候補として名前が挙がったのは、オーストリアのカール大公、スウェーデンのエリク14世、デンマークのフレゼリク2世、フランスのヌムール公ジャック・ド・サヴォワなどでした。中でも特にメアリーが関心を示した相手は、有力なカトリック国スペインの国王フェリペ2世の息子ドン・カルロスでした。

 しかし、カトリーヌ・ド・メディシスやエリザベス1世に政治的な動機で妨害されるなど、様々な理由から、いずれの相手とも結婚に至ることはありませんでした。

 やがてメアリーは、1565年2月18日に出会ったステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリーとの結婚を考えるようになりますが、これにもマリ伯やエリザベス1世が強硬に反対しました。

 特にエリザベス1世は、メアリーと同じくヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫で、イングランドの有力な王位継承権を持つダーンリー卿との結婚によって、メアリーの王位継承権が強化されることを恐れました。

 そこでダーンリーにすぐさまイングランドに戻るよう命令し、従わないと反逆罪と見なすとして、ダーンリー卿の母マーガレット・ダグラス(マーガレット・テューダーの娘でジェームズ5世の異父妹、エリザベスの従姉)をロンドン塔に幽閉しましたが、ダーンリー卿は従いませんでした。しかし、エリザベス1世と首相のウィリアム・セシルは、性格的に弱いダーンリー卿をスコットランドに送り込むことにより、スコットランドの国力低下を計ろうとしたという説もあります。

 1565年7月29日、メアリーはダーンリー卿と再婚しました。メアリーはヘンリーに対し、王族にしか与えられなかったロス伯、オールバニ公の位を与え、また王位継承もあらためて与えるなどして、多くの貴族の反感を買いました。しかし、両親から甘やかされてきたヘンリーの傲慢な性格がわかるにつれて、メアリーの愛情も冷めて行きます。やがてピエモンテ人の音楽家で、有能で細やかな気づかいをする秘書のデイヴィッド・リッチオを寵愛し、重用するようになります。


王子誕生とダーンリー卿の死、ボスウェル伯との再婚と廃位

 1565年8月1日、マリ伯がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こしました。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与え地位を回復させます。マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現われず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命しました。


ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 1566年3月9日、ホリールード宮殿でメアリーが食事をとっているとき、武器を手にしたルースベン・モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きました。

 ※参照 ホリールード宮殿  ホリールード宮殿の内部

 メアリーは流産の危機を迎えましたが、6月19日無事に息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産しました。リッチオの子だと噂する者がいたため、メアリーは床についたまま、ダーンリーの子であることを誓い、ダーンリーにも認めるよう迫りました。しかし、ジェームズが大きくなっても、ダヴィデ(デイヴィッド)の子を意味する「ソロモン」と呼ぶ者がいました。


リッチオ殺害事件(19世紀、ウィリアム・アラン画)
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 子どもは生まれましたが、ダーンリー卿との仲は冷え切ったままでした。当時のスペイン大使によれば、メアリーにダーンリー卿暗殺を提案した者さえもいましたが、メアリーは受け入れなかったと言います。

 その後、メアリーはボスウェル伯に心を寄せるようになります。


ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン
Source: Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見されます。ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に2人は結婚式を挙げました。

 当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はありませんでしたが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対することとなります。

 間もなく、第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスら反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こしました。6月15日、メアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降します。メアリーはロッホ・リーヴン城に移され、7月26日に廃位されました。

 ※参照 ロッホ・リーヴン城1  ロッホ・リーヴン城2  ロッホ・リーヴン城3


スコットランド女王メアリーが、ロッホ・リーヴン城から逃げる様子を描いたもの、ウィリアム・クレイグ・シレフ作(1805年)
Mary, Queen of Scots Escaping from Loch Leven Castle (1805) by William Craig Shirreff
Source: Wikimedia Commons
Public Domain, Link


 歴史小説家のJean Plaidyはこのペンネームで書いた伝記の中で、メアリーがよく行っていたエクスチェッカー・ハウスという小さく、一人でこもれる家の隣の住人がボスウェルの元召使いであり、ボスウェルがよく逢い引きに使っていたことから、ダーンリー卿殺害以前からメアリーとボスウェルが恋人であったと断じています。

 また、メアリーの連行は、合意の上での拉致の演技だという説もあります。また、メアリーがジェームズの王位継承権を損なわない形でダーンリーを排除したいという言葉が、事実上の殺人命令だったとしています。カトリックのメアリーには、継承権を損なわない離婚ができないからです。

イングランドへの亡命、陰謀と処刑

 1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こしますが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世のもとにスコットランド最南端にあるダントレナン修道院そしてイングランド・スコットランドの境界線近くでイングランド最北部にあるカーライル城などに逃れ、その後、イングランド内各地の城を転々とすることとなります。

 ※参照 ダンドレナン修道院1   ダンドレナン修道院2 
       ダンドレナン修道院3   ダンドレナン修道院4  

 ※参照 カーライル カーライル城1  カーライル城2 

 メアリーはイングランド各地を転々としました。しかし、ここでの生活は軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許されました。

 ※参照 

 しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係したと疑われました。1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などです。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与したとされる証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡されます。

 エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたものの、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城のグレートホールでメアリーは処刑されました。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がっています。

  "メアリー、スコットランドの女王は、イングランドのノーサンプトンシャー州、Fotheringhay城で1587年2月8日に処刑された。 

 メアリーは捕虜になって19年後、彼女のいとこ、エリザベス女王暗殺に関連した有罪判決を受けた。 上に掲げた水彩画は、1613年オランダ指揮者のために書かれたもので、衣装や建築はオランダのように見えますが、写真には目撃者の説明が反映されています。 遺物としてそれらをもつ人物が左端に示されています。


メアリー・スチュアートの斬首  出典:NHK BSプレミアム


オランダの画家(作者未詳)が1613年に描いたメアリー1世処刑の場面
Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる

関連情報:クレジット:1934年購入媒体:紙に水彩画サイズ:21.90 x 26.40 cm
1587年2月8日、英国ノーサンプトンシャー州フォザリングハイ城で、スコット女王のメアリーの執行

 下はスコットランドのメアリー・ステュアート女王が、イングランドのエリザベス一世の命令により、公開処刑される現場です。周辺に多数のイングランドの伯爵、豪族などが処刑を見ています。

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Source:Mary Queen of Scot, International Trailer (Universal Picture 2018)HD

 下は処刑寸前のメアリー。処刑寸前のメアリーです。当時、イングランドでは首をなたで切断するという野蛮な処刑でした。赤のドレスを着ているのがメアリー・ステュアート女王です。女王が処刑される場合、赤いドレスを着てのぞんだと言われています。ただし、この写真は以前上映された映画「エリザベス」の一場面です。


出典:映画エリザベスより

 以下はCTV TWO 制作のスコットランド女王、メアリーの処刑(The Execution Of Mary Queen Of Scots) 、より、最後の場面です。


Source: The Execution Of Mary Queen Of Scots, CTV  TWO


 ※参照 青山貞一・池田こみち: ④闘いと苦難の歴史

 
 ※参照 メアリー・スチュアート女の墓のレプリカの解説
   エディンバラ、スコットランド国立博物館に収蔵されているメアリー
   スコットランド女王の墓のキャスト(鋳造物)。オリジナル(1606-1612)
   は、コーネリアス・キュアとその息子ウィリアムによって造られ、ウェスト
   ミンスター寺院にあります。


撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


 下はロンドンのウエストミンスター寺院、メアリー・スチュアート女王の墓のレプリカ。


ウエストミンスター寺院、メアリーの墓
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link

補足

リッチオ殺害事件について
 このように目立つ方法でリッチオが殺害されたことから、ダーンリー一派はメアリーの暗殺まで狙っていたという説があります。すでにこの事件の前の1566年2月13日に、イングランド大使のランドルフ卿は本国にこんな報告をしています。

 国王(ヘンリー)と父親のレノックスは、スコットランド女王に背いて王位を手に入れようとする計画を進めています。もし計画が実行されればあのリッチオは、国王の了解を得て数日中に殺されるであろう。さらに由々しきことに、私の耳には女王まで暗殺されるという噂まで飛び込んできた、と。

 また、この事件の首謀者はマリ伯だという見方もあります。しかし、前年に起こした反乱について心から自分の過ちを後悔しているとして、メアリーは赦免したため、マリ伯はスコットランド帰国が叶い、以前同様メアリーに重用されることになっています。

ダーンリー卿暗殺事件について
 カーク・オ・フィールド教会でのダーンリー卿暗殺事件に関しては、ボスウェル伯が首謀者とするならなぜ、彼ほどの経験豊富で優秀な軍人が、ダーンリー卿1人を殺害するのにわざわざこんな目立つ方法を選んだのかという疑問が生じます。

 また、ダーンリー卿が自らの即位を目論んで、メアリーをここで暗殺しようと計画していたとする説もあります。メアリーがボスウェル伯のダーンリー卿暗殺計画に賛成した手紙も含まれているとされている「小箱の手紙」に関しても、メアリー・ステュアート研究者達の間では、この数枚の手紙をメアリーの直筆とする説には近年では否定的になってきており、偽造されたとする説が優勢になってきています。

ブキャナン文書
 メアリーに関しては、同時代の人文学者で歴史家であるジョージ・ブキャナン(1506 - 1582)が書いた文書が知られいます。彼は、ダーンリー卿の生前からのメアリーとボスウェル伯との不倫を自分の文書の中で主張しています。

 その一例としてこんな文書があります。

 1566年の10月16日、メアリーはイングランド国境に近い、エディンバラ南東部のジェドバラという町の付近を荒らし回っている盗賊団について、国境警備指揮官のボスウェル伯と話し合うため、マリ伯他数人の臣下達と共にボスウェル伯のいるハーミテージ城に向かい、そこに2時間足らずの間滞在している。ブキャナンはこの日のこの出来事について、「この時すでに、メアリー女王はボスウェルの愛人で、女王はハーミテージ城ではその名誉と身分にあるまじき恥ずべき行為をおこなった」と文書に書き残しています。

 しかし、ボスウェル伯はこの8日前にジェドバラの盗賊団と戦い、盗賊団の首領は倒したものの、頭と右肩と左腕に重傷を負っていました。この時、すでに彼は出血多量により意識不明になっていて、助かるかどうか微妙な容態であったといいます。

 そのため、もうボスウェル伯は死んでしまったのではないかと考える人々も多かったといいます。ボスウェル伯は担架で近くのハーミテージ城に運ばれました。この知らせは瞬く間に広がり、スペイン大使はメアリーに深い同情を寄せこう言っています。「もはやスコットランド女王は頼みの綱を失ってしまった。あれほどの人物はめったにいるものではないというのに」 しかし、このボスウェル伯の死は誤報だとわかり、周囲の人々は安心したといいます。

 ブキャナンは後にメアリーの敵対者側に寝返っている人物で、メアリーの敵対者達の依頼を受けて、このようなメアリーに関する事実と異なると思われる誹謗文書を多く作成しているため、現在のメアリーに関する悪評は差し引いて考える必要があると思われます。

スペインへの手紙

 メアリーは1567年11月、フェリペ2世に宛てて、自分はエリザベス1世とあまりにも親しい関係のように思われていて、カトリックの司祭を頼む事もできないような有様だが、そんな話を聞いて、メアリー女王はもうカトリックの信仰を守らなくなったのだなどと考えてもらっては困ります、という内容の手紙を書いています。


スペイン、フェリペ2世
Source: Wikimedia Commons
Public Domain, Link

 また、どこまで本気で書いたのかは不明とはいえ、1577年には実子のジェームズはカトリック教会に復帰する見込みがないので、イングランド王位継承権をフェリペ2世に譲渡する、という遺言状や、1586年5月末にも、当時パリにいたフェリペ2世の臣下のメンドーサに宛てて 息子のジェームズが自分の死ぬ日までにカトリックにならない場合、自分はイングランドの王位継承権をフェリペ2世に委託する、という手紙を書いています。

 この他にもフェリペ2世が、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアに軍勢を率いさせ、スペイン領ネーデルラントからイングランドに侵攻し、メアリーを救出してドン・フアンと結婚させるという計画を、1576年頃に立てていたという説もあります。

 このように、最後までフェリペ2世は、同じカトリックの君主として、メアリーに対して協力的な態度が見られます。フェリペ2世のこのような態度には、フェリペ2世の3人目の妻で、メアリーがフランス王太子妃時代に義妹かつ幼なじみとして大変に親しかったアンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワの存在があったと考えられています。フェリペ2世は彼女のために舞踏会を催したり、朗読家に朗読をさせたり、共に遊んだりするなど、仲の良い夫婦でした。


アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ
Public Domain, Link

 メアリーは1567年9月末に彼女に宛てて、
 フランスで共に育った2人の揺るぎない友情にかけて、スペインの援助を要請する。自分が改宗するかのような話が流れているのはあくまで見せかけだけの事で、自分は決してカトリックの信仰を捨てるつもりはない。
などという内容の手紙を書き送っています。2人の友情はお互いに嫁いでからもずっと続いていたらしく、エリザベートはダーンリー暗殺に関して、メアリーは無実であると夫に訴えていた可能性があると考えられます。なお、エリザベートは1568年10月3日に死去しています。


メアリーステュアート女王    メアリー・ステュアートの生涯
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