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富士五湖、自然と文化・歴史短訪

景徳院・武田勝頼の墓 2
    

 
(山梨県甲州市)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
23 August, 2018  
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撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

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 景徳院・武田勝頼の墓1  景徳院・武田勝頼の墓2     
 
栖雲寺・武田信滿の墓1   栖雲寺・武田信滿の墓2

景徳院と武田勝頼らの墓

 ここで武田勝頼について概要を紹介する。


武田勝頼像


出典:Wikipedia

 武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけ猛将として知られる武田信玄を父に持つ戦国武将である。詳細としては、天文15年(1546年)、武田晴信(いわゆる武田信玄)の四男として生まれる。生誕地や生月日、幼名は不明で、母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)である。

 いずれにせよ、武田 勝頼勇は甲斐国の戦国大名でり甲斐武田家第20代当主である。

 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。また武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。もちろん、官位はないものの、武田信玄が戦国武将の中でも、稀有で秀逸な武将であったことは違いない。勝頼はその信玄を父に持つ戦国武将である。


武田勝頼に対する評価 出典」Wikipedia


武田勝頼像

 同時代では、上杉謙信や織田信長が書状において勝頼を武勇に優れた武将として評価していた。謙信は信長に対し、勝頼の武勇を警戒するよう注意している。信長は、家督相続当初は勝頼を軽く見ていたが、東美濃侵攻が始まるとその武勇を高く評価するように転じる。

 長篠合戦後は、もはや自分の驚異たり得ないと内外に豪語するようになるが、甲州征伐際に勝頼は最後は必ず決戦を挑んでくると警戒しており、信忠に何度も過渡の前進を諌めている。また『三河物語』によると、勝頼の首級と対面した信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」と、勝頼は運がなかったと感想を漏らしたという。

 なお信長は、武田領国侵攻開始直後に越中において、勝頼が地の利を生かして信長父子を討ち取ったという虚報を流し、これを信じて蜂起した越中一向一揆を逆に鎮圧している。これは逆に言えば当時の人々にとって、勝頼は信長と決戦をして勝利することが可能な武将だと認識されていた事がわかる。

 江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』において勝頼は「強すぎる大将」と記され、慎重さに欠け跡部・長坂ら特定の家臣を寵愛し、武田家滅亡の原因を作ったとする評価が存在した。近世の武家社会では家を守り伝えるのは最も重要な徳目であり、家を滅ぼすの愚行の極みとする通念があった。現在にも通じる勝頼に対する低い評価は、『甲陽軍鑑』の記述とこの近世の武家の倫理規範が融合した結果だと考えれる。

 これに対し、近代には山路愛山や徳富蘇峰が評論において勝頼の再評価を試みた。戦後には上野晴朗『定本武田勝頼』(1978年)や平山優(「武田勝頼の再評価-勝頼はなぜ滅亡に追い込まれたのか-」『新府城の歴史学』(2001年)が勝頼の事跡を検討し、再評価を試みた。


 境内は広大な敷地を持っている。下は景徳院の境内案内図である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 以下は山梨県大和村、現在の山梨県甲州市大和村による景徳院の概説。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 以下は景徳院の前門である。標高もあるので、GW中とはいえソメイヨシノが美しく咲いている。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 さらに下は仁王像がある山門である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


 下は阿吽の仁王像である。
 

撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 以下は景徳院の写真である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


本堂のはずれにて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 以下は鐘楼の写真である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


鐘楼を背景に
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 ここで景徳院の概要を紹介する。

 景徳院(けいとくいん)は、山梨県甲州市にある寺院。曹洞宗寺院で、山号は天童山、本尊は釈迦如来。地名から田野寺とも呼ばれる(『甲斐国志』による)

景徳院の歴史

 天正10年(1582年)3月、甲斐国国主・武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、甲府から移転した本拠であった新府城(韮崎市中田町中條)を放棄し、郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが、途中で信茂は離反し、天目山において滅亡した。

 同年6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て甲斐は三河国の徳川家康が領する。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は家康に臣従し、同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、景徳院を創建した。

 広厳院(笛吹市)から武田家臣・小宮山内膳の弟である7世拈橋チョウ(人偏+長)因を招き、天正16年(1589年)には伽藍が完成した(『国志』、「景徳院文書」による)。家康はこの他にも武田遺臣を保護しているが、無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策でもあったとも指摘される。

 江戸時代には住職不在状態となり衰退し、寛永年間(1624年 - 1644年)に広厳院から住職が招かれ再興されているが、旧武田氏家臣の幕臣の要求により、下総総寧寺の末寺とされたという。

 天保年間(1830年 - 1844年)には火災が生じて主要伽藍を焼失し、弘化年間(1844年 - 1848年)や明治時代にも火災が生じている。

景徳院の文化財

 繰り返された火災から類焼を逃れた山門が県指定有形文化財、境内及び武田勝頼墓が県指定史跡となっているほか、境内の桜が甲州市の天然記念物に指定されている。山野の多い甲州市では「武田家終焉の地」であることを活かした観光業が重要産業であり、景徳院はその中心的観光地としても位置付けられている。

 
勝頼の墓は、現存する宝篋印塔の銘文によれば二百周忌にあたる江戸時代の安永4年(1775年)に11世住職により造立された供養塔で、勝頼を中心に信勝と北条夫人のものが両脇に配されている。


武田勝頼、武田信勝、北条夫人の墓


武田勝頼の墓の墓標
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


武田勝頼の墓の墓標
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 以下は景徳院にある武田勝頼、武田信勝、北条夫人の墓である。

 景徳院境内西南隅の甲将殿の裏手に勝頼の墓所がある。墓所には3つの石塔が並び、うち中央の宝篋印塔が勝頼の墓(総高3.22m)、左右の五輪塔のうち向かって右が北条夫人、同左が嫡男信勝の墓、両端は殉難家臣たちの墓である


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 以下は勝頼、信勝、北条夫人の没頭地蔵寺。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900

 以下は勝頼、北条夫人、信勝の辞世の句である。

 勝頼辞世の句
  おぼろなる月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端
       
 北条夫人辞世の句         
  黒髪のみだれたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒
       
 信勝辞世の句
  あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢


 下は勝頼の夫人、北条夫人の上記の辞世を刻んだ碑である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


つづく