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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド3日目

郷土史博物館 ウズベキスタンの歴史
  Viloyai O'lkashunosilk Muzeyi

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月7日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

◆ウズベキスタンの歴史(概要)

古代-10世紀
 ウズベキスタンの国土の中央部は、古代よりオアシス都市が栄え、東西交易路シルクロードの中継地ともなってきたトランスオクシアナ地域の大部分を占めます。この地域は古代にイラン系のソグド人が活躍しましたが、8世紀にアラブ人によって征服され、宗教的にはイスラム化しました。10世紀にはテュルク民族(カラカルパク人など)が進出し、言語的にテュルク語化が進むことになります。

モンゴル帝国・ティムール朝
 13世紀にはモンゴル帝国に征服され、このとき多くの都市が甚大な被害を受けるがすぐに復興を果たし、14世紀にはこの地から興ったティムール朝が中央アジアから西アジアに至る広大な地域を征服して大国家に発展しました。

ウズベクハン国
 ティムール朝の衰亡後、北からウズベク人が侵入し、ウズベクハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国を立てることになります。

ロシア帝国・ソビエト連邦
 これらは19世紀に北からのロシア帝国に征服され、ロシア革命後はソビエト連邦下の共和国となり、その後ソビエト共産党政府の統治下に入り、ウズベク・ソビエト社会主義共和国となりました。1966年4月、タシュケントを震源として市内では震度八をも記録する大地震が起こり、市内の建物のおよそ2/3が倒壊するという惨事となったのです。


1868年のサマルカンドの要塞の防衛戦。ロシアの図入の雑誌「ニヴァ」 (1872)より。


◆モンゴル帝国時代

 モンゴル帝国はチンギス・カンのもと、13世紀前半に中央アジア一帯を征服しました。中央アジアに対するモンゴル帝国の侵攻はこの地方の歴史のターニングポイントの一つです。モンゴル帝国はあらゆる中央アジアの正統な支配者にはチンギス・カンの血族のみがなる事ができるとする伝統を築いていたため、同地域に長く続く影響を与えることになりました。


チンギス・ハーン。モンゴル帝国はチンギス・カンのもと、13世紀前半に
中央アジア一帯を征服した。

モンゴル帝国


 モンゴル帝国の中央アジアへの侵入は1219年から1225年まで続き、マーワラーアンナフルの人口に劇的な変化をもたらします。

 チンギス・カンの軍隊はモンゴル人の将校に率いられていたものの、配下の兵士の多くはモンゴル軍に取り込まれたテュルク系民族により構成されていたため、征服地のいくつかの部分に急速なテュルク化をもたらしました。モンゴル軍がマーワラーアンナフルの都市を占領した際、彼らは逃亡しなかった現地の住民を自分たちの軍に取り込んだのです。

 モンゴル帝国の征服のもう一つの影響は、ブハラをはじめとする都市やホラズムのような地方に対し、モンゴル軍の破壊がもたらした深刻な被害であったのです。

 ホラズムは甚大な被害をこうむり、ホラズム内の灌漑網は何世代にも渡り修復できないほど破壊されました。そして、多くのペルシア系の知識人は迫害を逃れて南の土地への逃亡を強いられることになりました。


◆モンゴル帝国による支配とティムール朝

 1227年にチンギス・カンが没した後、彼の帝国は彼の一族により分割されました。帝国が瓦解する可能性もありましたが、モンゴル帝国における伝統的な法は何世代にも渡る秩序だった継承を維持しました。

 マーワラーアンナフルの大部分は、チンギス・カンの次男であるチャガタイの子孫に継承されました(チャガタイ・ハン国)。秩序だった王位継承や繁栄、国内平和がチャガタイ・ハン国にもたらされ、モンゴル帝国は全体的に強力な団結を保っていいました。ホラズムは、南部をチャガタイ・ハン国に、北部をキプチャク・ハン国によって分割されます。

 14世紀前半からアジア各地のモンゴル国家で分裂が始まり、チャガタイ・ハン国もまた様々な部族集団がチャガタイ家の王子を擁立して争う混乱期に突入しました。

 1370年代に、こうした部族集団の一つであるバルラス部の族長であったティムールがマーワラーアンナフルに支配権を確立し、マーワラーアンナフルの内争を終結させます。




1370年のバルフ包囲


ティムールによるウルゲンチ包囲


ティムールとトゥグルク朝のスルターン・マフムードの戦闘


トクタミシュと戦うティムール

 ティムール朝は西トルキスタン、イラン、インド北部、小アジア、アラル海北部の草原地帯を征服した。ティムールはロシアにも侵入し、1405年に中国への進軍の途上で陣没します。


 ティムールはサマルカンドを首都に定め、数多くの芸術家や学者を征服した土地から連れてきました。これらの人々を支援することで、ティムールは自身の帝国に非常に豊かなペルシア・イスラム文化を吹き込んだのです。

 ティムール及び彼の直系子孫の治世においては、幅広い宗教的建築物や宮殿の造営がサマルカンドやその他の大都市地域において着工されました。ティムールは学者と芸術家のパトロンとしての役割も果たし、彼の孫ウルグ・ベクは世界有数の偉大な天文学者として名を遺しました。


ティムールの宮廷

 ティムール朝時代にはチャガタイ語の形式をとったテュルク語がマーワラーアンナフルにおいて文語の地位を獲得していましたが、一方でティムール朝は本来はペルシア化された国家でもありました。偉大なチャガタイ語詩人であるアリー・シール・ナヴァーイーは15世紀後半、現代のアフガニスタン北西にあたるヘラートで活動しています。


 15世紀半ばからティムール朝は二つに分裂しました。そして、ティムール朝で継続する内部抗争はアラル海北部に生活する遊牧民であったウズベク族の注意を引きつけます。

 1501年、ウズベク人国家のシャイバーニー朝はマーワラーアンナフルに対する大規模な侵攻を開始しました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2015-3-3

 以下は建築物を造築している模様を絵にしたものです。非常に興味深いものがあります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-3-3


つづく