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   ウズベキスタン現地予備調査
サマルカンド2日目

ウルグ・ベグ
Ulug'bek in Samarkand

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

掲載月日:2015年3月20日
独立系メディア E−wave Tokyo

無断転載禁

 ここで、まずウルグ・ベグ天文台跡に行く前に、ウルグ・ベグについて触れておきましょう。


ウルグ・ベク 
  〜第四代君主としての為政者であり学者、文化人であった偉人、国民的英雄〜

 先に中央アジアの文化拠点としてのウズベキスタン・サマルカンドについて触れましたが、ここでは、中央アジアの学術研究の拠点としてのウズベキスタン・サマルカンドについて触れたいと思います。

  ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルカンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いたのです。なかでも、天文学、数学、医学などの学問/研究と芸術に造形が深かったのが、下に肖像画がありますウルグ・ベツだったのです。


ウルグ・ベグの肖像画
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 ウルグ・ベグは、ティムールの孫であり、ティムール朝の第4代君主、ウルグ・ベク(1394年 - 1449年)を意味しています。

 ウルグ・ベグは、為政者であるとともに、当時、中央アジアのみならず、世界でも希有で秀逸な文化人でもありました。

  下はソビエト連邦時代に発行された切手ですが、ティムール朝第4代君主ウルグ・ベク(1394年 - 1449年)が描かれた切手です。切手の右下に天文台の側面図が描かれています。
  


 そのサマルカンド総督となったウルグ・ベクは37年間にわたってマーワラーアンナフル地方を統治し、平和な時代が続きました。

 当時、ウルグ・ベクは原則的にヘラートのシャー・ルフからの指示に従っていましたが、シャー・ルフの指示に現れていない独自の政策も実施していました。

 たとえば、ウルグ・ベクの治世には新しい貨幣が鋳造されたり、商業の発達が促進されました。ウルグ・ベク時代のサマルカンドにはティムール時代と同様の自由で享楽的な空気が流れ、美と人生の楽しみを好む性格と学術上の事績からルネサンス的な君主にも例えられています。

 ウルグ・ベクの統治下ではメドレセ(神学校)などの公共施設が数多く建築され、それらの施設には土地がワクフ(寄進財産)として寄進され、ワクフからあがる収益によって施設の維持と管理が行われていました。

 ウルグ・ベクの建造物の中には、後世に崩壊したものもありますが、サマルカンド、ブハラには彼の建てたメドレセが残っています。たとえば、ウルグ・ベク・メドレセ(サマルカンド)、ウルグ・ベク・メドレセ (ブハラ)です。もっとも有名なメドレセは、リンギスタン広場にあるウルグ・ベグ・メドレセであることは言うまでもありません。


中央アジアにおいて天文学研究の中心地であったウルグ・ベク・メドレセ
このメドレセは、サマルカンドのリンギスタン広場にあります!
出典:Wikipedia

 また、ティムールの治世に建設が開始されたサマルカンドのグーリ・アミール廟は、ウルグ・ベクの時代に完成しています。

 さらに、ウルグ・ベクはサマルカンド総督時代から中国の明に対してたびたび使節を派遣しています。 1439年にウルグ・ベクが贈った良馬は明の英宗に気に入られ、英宗は馬の姿を描かせて縁起のいい名前を付けています。

 1449年、ウルグ・ベクの派遣した使節が明の宮廷を訪れましたが、この年にウルグ・ベクは殺害されたために彼が派遣した最後の使者となり、英宗は土木の変でオイラトの捕虜とされました。ウルグ・ベクがサマルカンドに建てた絵画館は、中国の影響を色濃く受けた壁画で装飾されていたといわれています。


つづく