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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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ヤセノヴァツ強制収容所ⅠⅡⅢ( Jasenovac:クロアチア) 地図
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概要

 ヤセノヴァツ(Jasenovac、発音:[jasělʋat͡s])は、第二次世界大戦中、占領下のユーゴスラビアにあったクロアチア独立国(NDH)当局が同名の村に設置した強制・絶滅収容所である。ヨーロッパで10本の指に入る規模の強制収容所は、占領下のヨーロッパで唯一ユダヤ人や他の民族のために単独で絶滅収容所を運営していた裏切り者(売国奴)政権のウスタシェ政権によって設立・運営され[4]、ヨーロッパで3番目に大きな強制収容所にまで急成長した[5]。


ヤセノヴァツ強制収容所 収容所に入った囚人たちはウスタシェの看守に持ち物を奪われる
Source:Wikimedia Common Public Domain, Link

 1941年8月、ヤセノヴァツ村近くのサヴァ川とウナ川の合流地点にある湿地に設立され、1945年4月に解体された。その野蛮なやり方と犠牲者の数の多さで悪名高い[6]。ドイツのナチスが運営する収容所とは異なり、ヤセノヴァツは「特に残忍な種類の1対1の暴力に特化して」[7]おり、囚人は主にナイフ、ハンマー、斧などの鈍器を使って人の手で殺害された[8]。

 ヤセノヴァツでは、犠牲者の大半はセルビア人で(セルビア人大量虐殺の一環として)、その他はユダヤ人(ホロコースト)、ロマ人(ポラジュモ)、一部の政治亡命者であった。ヤセノヴァツはサヴァ川とウナ川の両岸にある210平方km(81平方マイル)に広がる5つのサブキャンプの複合体[9]であった。最大の収容所は、ザグレブの南東約100km(62マイル)にあるヤセノヴァツの「煉瓦造りの」収容所であった。収容所全体は、スタラ・グラディシュカ副収容所、グラディナ・ドニャのサヴァ川対岸の殺害場、5つの労働農場、ウスチカ・ロマ収容所を含んでいた[1]。

 第二次世界大戦中、そして戦後、ヤセノヴァツ強制収容所が3年半以上にわたって運営された間に殺害された犠牲者の数については、多くの議論と論争があった。戦後、70万人という数字は「世間一般の通念」を反映した数字とされている[10][11][12][13]。 2002年以降、ベオグラードのジェノサイド犠牲者博物館は70万から100万の犠牲者という数字をもはや主張しないようになっている。2005年、博物館の研究者であるドラガン・ツェトコヴィッチとクロアチア人の共著者はNDHにおける戦時中の損失に関する本を出版し、ヤセノヴァツの犠牲者はおよそ10万人という数字を出した[14]。 ワシントンDCのアメリカ合衆国ホロコースト記念館(USHMM)は現在、ウスタシェ政権が1941年から1945年の間にヤセノヴァチで77000から99000人の人を殺害したと推定してい
る[2]。


1.背景

 クロアチア独立国(NDH)は、枢軸国によるユーゴスラビア侵攻後の1941年4月10日に建国された。独立国は現在のクロアチア共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてセルビアのシュルミアからなる。枢軸国が傀儡国家に占領軍を維持したため、実質的にはイタリア・ドイツの準保護国であった[15]。 しかし、日々の行政はウスタシェの指導の下、修道士や修道女を含むクロアチア人だけでほぼ構成されていた。

 戦前、ウスタシェは超国家主義、ファシスト、人種差別主義、テロ組織としてクロアチアの独立のために戦っていた。1932年、ウスタシェのリーダー、アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić) はこう宣言した。「ナイフ、リボルバー、機関銃、時限爆弾、これらは偶像であり、クロアチア独立国家の夜明けと復活を告げる鐘である」。 また、パヴェリッチと他のウスタシェの指導者は、1934年にマルセイユでユーゴスラビア国王とフランス外相の暗殺を組織した罪で、フランスの裁判所から欠席裁判で死刑判決を受けた[18]。

 ウスタシェは、セルビア人に対して激しい憎しみをもち、また、反ユダヤ主義者でもあった。17の原則の中で、彼らは「クロアチア人の血」でない者(すなわちセルビア人とユダヤ人)は、将来のクロアチア国家においていかなる政治的役割も持つことはないと宣言している。1936年、パヴェリは「クロアチア問題」の中で、ユダヤ人を「クロアチア人の敵」と呼び、反セルビア人、反ユダヤ人への憎悪を吐露している[19]。


1.1 クロアチア独立国(NDH)の立法
 こちらも参照のこと。
 クロアチア独立国におけるホロコースト
            

ウスタシェ新聞。NDH人種法を宣言、指導者アンテ・パヴェリッチが人種的所属とアーリア人の血とクロアチア人の名誉の保護に関する法的規定に署名したことを指摘する。Source:Wikimedia Common  Public Domain

 NDHの指導者アンテ・パヴェリッチが最初に出した政令のいくつかは、ウスタシェがナチス・ドイツの人種差別思想を取り入れたことを裏付けていた。これらの法律は、1941年4月17日の「国家と国家の保護」のための法令に続き、「クロアチア国家の名誉と重要な利益を害し、クロアチア独立国家の存在を危険にさらす」ことを行った、または行った場合、大逆罪の死刑を義務付けていた[21]。これは遡及法で、逮捕と裁判が直ちに開始された。それに続いて、セルビア正教会の儀式に不可欠なキリル文字の使用を禁止する法令がすぐに出された[22]。

 1941年4月30日、ウスタシェはナチスの人種法に倣い、「人種的起源に関する法律令」、「アーリア人の血とクロアチア人の名誉の保護に関する法律令」、「市民権に関する法律規定」という主要人種法を宣言した[23]。 これらの法令により、誰がユダヤ人か定義し、すべての非アーリア人、つまりユダヤ人とロマ人から市民としての権利を取り上げることになった。ナチスがドイツで同様の措置を実施する数ヶ月前の1941年4月末には、ウスタシェは全てのユダヤ人に記章、通常は黄色のダビデの星をつけることを要求した[24]。 ウスタシェは1941年10月10日に「ユダヤ人とユダヤ人企業の財産の国有化に関する法的規定」を宣言し、これによって全てのユダヤ人財産が没収された[25]。

 ウスタシェはユダヤ人、ロマ人、セルビア人に対して他にも多くの法令を制定し、これらはウスタシェがユダヤ人とロマ人に対して行った大量虐殺政策の基礎となった。セルビア人に対しては、ウスタシ指導者のマイル・ブダクが宣言したように、3分の1を殺し、3分の1を追放し、3分の1を強制的にカトリックに改宗するという政策で、多くの歴史家もこれを大量虐殺と表現していた[26]。この政令は通常の裁判制度だけでなく、新しい特別法廷や拡大した裁判権を持つ移動法廷を通じて執行された[27]。ほぼ直ちに最初の強制収容所が設置され、1941年7月にウスタシェ政府はヤセノヴァツ強制収容所となる場所の整地を開始した。


1.2 集団恐怖の始まり

 ユダヤ人に対する行動は、クロアチア独立国が成立した直後から始まった。1941年4月10日から11日にかけて、ウスタシェはザグレブの著名なユダヤ人たちを逮捕し、身代金として拘束した。4月13日にはオシエクでも同じことが行われ、ウスタシェと民族上のドイツ人( Volksdeutscher)の暴徒がシナゴーグとユダヤ人の墓地を破壊した[28]。

 このプロセスは1941年に複数回、ユダヤ人のグループに対して繰り返された。同時に、ウスタシェは大規模な反ユダヤプロパガンダを開始し、ウスタシェ新聞は、クロアチア人は「人種の純度を守るために他のどの民族よりも警戒しなければならない、...」と記している。私たちは、ユダヤ人の血をきれいに保たなければならない」と書いている。彼らはまた、ユダヤ人は「裏切り、不正行為、貪欲、不道徳、異質」と同義であり、それゆえ「クロアチア国民の大部分は常にユダヤ人を軽蔑し、彼らに対して自然な反感を感じている」とも書いている[29]。

※注) Volksdeutsche
 ナチスドイツ語では、フォルクスドイチェは「言語と文化がドイツ起源であるが、ドイツ市民権を持たない人々」だった。(英文Wikipedia)


 最初のセルビア人の大量殺戮は4月30日に行われ、ウスタシェはグドヴァツ(Gudovac)で196人のセルビア人を検挙して殺害した。その後、多くの大量殺戮が行われた。モスタルのクロアチア人カトリック司教、アロジイェ・ミシッチ(Bishop of Mostar, Alojzije Mišić)は、戦争の初期の6ヶ月間、ヘルツェゴビナのある小さな地域だけで行われたセルビア人の大量殺戮を次のように描写
している[30]。

 人々は獣のように捕らえられた。虐殺され、殺され、生きたまま奈落の底に投げ込まれた。女性、子供を連れた母親、若い女性、少女、少年は穴に投げ込まれた。モスタルの副市長であるイスラム教徒のバルジッチ(Baljić)氏は、役人として黙っているべきであるにもかかわらず、Ljubinjeだけで700人の分裂主義者(すなわちセルビア正教徒)が一つの穴に投げ込まれたと公言している。

 女性、母親、少女、10歳以下の子供を乗せた6両編成の列車がモスタルとチャプルジナ(Čapljina)からシュルマンチ(Šurmanci)駅に運ばれ、そこで降ろされて丘に運ばれ、生きた母親と子供が崖から投げ落とされたのだ。皆、放り投げられて殺された。クレプシ教区では、周辺の村から、3,700人の分裂主義者が殺された。哀れな魂、彼らは冷静だった。これ以上、列挙することはないだろう。これ以上述べることはないだろう。モスタル市では、数百人が縛られ、街の外に連れ出され、動物のように殺された。

1.2.1 最初の強制収容所
 4月15日、NDHの設立からわずか5日後、ウスタシェは最初の強制収容所であるダニカ(Danica)をコプリヴニツァ(Koprivnica)に設立した[31]。1941年5月には、ザグレブのユダヤ人スポーツクラブ「マカビ」のメンバーである165人のユダヤ人青年を検挙し、ダニカ(Danica)に送った(後に3人を除く全員がウスタシェによって殺害された)。クロアチアの歴史家ズドラフコ・ディズダール(Zdravko Dizdar)は、ダニカ収容所を通過した収容者は、セルビア人を中心にユダヤ人やクロアチア共産主義者も含め、約5,600人に上ると推定している。

 ディズダール(Dizdar)が名前を追跡できた3,358人のダニカ収容者のうち、2,862人、すなわち85%が後にヤドヴノ(Jadovno)とヤセノヴァツ(Jasenovac) の強制収容所でウスタシェによって殺されたことが判明した。

 1941年6月、ウスタシェは、ゴスピチュ(Gospič)からヴェレビト(Velebit)山脈、パグ(Pag)島まで伸びる強制収容所の新システムを設立した。ウスタシェの資料によれば、1941年の夏に28,700人をこれらの収容所に送り込んだとされている。したがって、これらの収容所での死者数は24,000人程度と思われるが、40,000人とする資料もある[32] 。ヴェレビト全域で腐敗した大量の死体により飲料水が汚染されていると住民が報告すると、イタリア人は医官を派遣して調査を行った。彼らは、複数の死体の穴と集団墓地を発見し、その中で約12,000人の犠牲者が殺されたと推定している[32]。パグ島のスラナ強制収容所では、一つの集団墓地を掘り起こし、そこには800人近い死体があり、そのうち半数は女性と子供で、最年少は5カ月の赤ん坊だった。

 これらの犠牲者の大半はセルビア人だったが、その中には2,000~3,000人のユ
ダヤ人も含まれていた。このように、ウスタシェはナチスの東欧アインザッツグ
ルッペンとほぼ同時期に、またナチスがドイツのユダヤ人の大量殺戮を開始する
数ヶ月前にユダヤ人の大量殺戮を開始していたのだ。


1.3 ナチス・ドイツの影響

 1941年4月10日、ナチスドイツとファシストイタリアの支援を受け、クロアチア独立国が設立され、同様の人種的・政治的教義が採用された。ヤセノヴァツはナチスの「ユダヤ人問題」に対する「最終的解決」、ロマ人の殺害、政敵の排除に貢献したが、ウスタシェにとって最も重要な目的はクロアチア独立国(NDH)内部のセルビア人の絶滅を達成する手段としてのものであった[33]。

 ヤセノヴァツはクロアチア独立国のドイツ占領地域に位置していた。ナチスはウスタシェの反ユダヤ、反ローマの行動を奨励し、セルビア人の絶滅を目論んでいることへの支援を示した[34]。 やがてナチスは、1941年7月21日の会合でヒトラーがスラヴコ・クヴァテルニク(Slavko Kvaternik)のために行った演説のように、彼らの大量虐殺目標を明確にし始める。

※注)スラヴコ・クヴァテルニク
 (クロアチア語: Slavko Kvaternik、1878年8月25日 - 1947年6月7日)
 クロアチアの軍人、政治家。元帥。現在のプリモリェ=ゴルスキ・コタル郡モラヴィツェ出身。1871年にクロアチアで起きた武装蜂起の指導者エウゲン・クヴァテルニク(Eugen Kvaternik)の孫。オーストリア=ハンガリー軍に勤務し、1911年5月から第42ベンガル連隊の参謀大尉。第一次世界大戦に従軍し、1914年10月からスヴェトザル・ボロイェヴィッチ将軍の副官。1916年2月から1917年10月、第55歩兵師団参謀長、1918年5月に中佐に昇進。戦後、大佐としてユーゴスラビア軍に入隊。アンテ・パヴェリッチと共にクロアチア民族主義運動に参加し、ウスタシャのNo.2となった。1941年4月10日、クロアチア独立国の宣言文をラジオで読み上げ、翌11日、擁護に対する感謝とクロアチアが枢軸国側に立つことについて、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー宛てに電信を送った。4月12日、クロアチア政府を組閣したが、ドイツの命令によりパヴェリッチを国家の最高指導者(ポグラヴニク)として承認せざるを得なかった。4月16日、国防相兼クロアチア独立国軍総司令官としてパヴェリッチ政府に入閣。[1] 1942年までにパヴェリッチと対立し、政府内でのより大きな権限を要求した。 1942年9月に国防相、1943年1月に総司令官を罷免される。戦後、逮捕。1947年5月29日、ザグレブにおいて、ヴラディミル・コザク(en:Vladimir Košak)、ミロスラヴ・ナヴラティル(en:Miroslav Navratil)、メフメド・アライベゴヴィッチ(en:Mehmed Alajbegovic)、I.レチェヴィッチ(Ivan Perčević von Odavna)、O.クレノヴィッチ(en:Osman Kulenović)、および駐クロアチア・ドイツ大使ジークフリート・カッシェ(Siegfried Kasche)等と共に、ユーゴスラビア軍法会議により裁判にかけられる。同年6月7日、被告全員に死刑が言い渡され、銃殺刑に処された。Wikipedia

 ユダヤ人は人類の悩みの種である。もしユダヤ人が、彼らのソビエトの天国で許されているように、彼らの好きなようにすることが許されるなら、彼らは最も狂気の計画を実現することだろう。こうしてロシアは世界の病の中心となった・・・もし何らかの理由で、ある国がユダヤ人一家の存在に耐えることになれば、その一家はやがて新しい陰謀の中心となるであろう。ヨーロッパからユダヤ人がいなくなれば、ヨーロッパ諸国の統一を阻むものは何もなくなる......この種の人々は、社会秩序や組織された国家に統合されることはできない。

 彼らは健全な社会の体に寄生し、まともな人々を排除することで生きているのだ。秩序と規律を必要とする国家に、彼らが適合することを期待することはできない。彼らをどうするかは、ただ一つだ。絶滅させることだ。戦場で尊い命が奪われるのに、この畜生どもを見殺しにするのは犯罪以外の何物でもない。彼らは追放されなければならないし、もし彼らが公衆に脅威を与えないのであれば、強制収容所に収監され、決して解放されることはないのである[35]。

 ヴァンゼー会議で、ドイツはクロアチア政府にそのユダヤ人の南方への移送を申し出たが、「ユダヤ人問題の最終的解決策の法整備については、この問題の重要な側面がこれらの政府がとった過激な行動によってすでに解決されているので、重要ではない」として、その申し出の重要性を疑問視している[36]。

 ナチスは絶滅の手段を指定するだけでなく、しばしば収容者のヤセノヴァツへ
の幽閉や移送を手配した[37][38]。 カシェの使者であるクネヘ(Knehe)少佐は
1942年2月6日に収容所を訪問した。カシェ(Kasche)「はその後、上官に報告し
た。

 収容所の実働部隊長であるルブリッチ(Luburic)大尉は収容所の建設計画について説明した。この計画は、彼が亡命中に作ったものであることがわかった。これらの計画は、彼がドイツの強制収容所施設を訪問した後に修正された[39]。

 カシェは次のように書いている。
 ポグラヴニク(Poglavnik)はバーダー将軍(General Bader)に、ヤセノヴァツ収容所ではコザラ(Kozara)からの難民を受け入れることができないことを自覚するよう求めている。私は、この収容所は東方へのユダヤ人強制送還の問題を解決するためにも必要であるため、同意した。トゥリーナ大臣(Minister Turina)はユダヤ人をヤセノヴァツに強制送還することができる[40]。


 スタラ=グラディシュカ(Stara-Gradiška)は、ユダヤ人がアウシュヴィッツに移送される主要な場所であったが、カシェの手紙は、この点に関して特にチグラナ分屯地(Ciglana subcamp)を指している。すべての文書で、「ヤセノヴァツ」という用語は、複合施設全体か、特定の収容所に言及する場合には、1941年11月から主要収容所であった第三収容所に関連している。ヤセノヴァツでのセルビア人の絶滅は、ポール・バーダー将軍(General Paul Bader)が難民をヤセノヴァツに連れて行くように命じたことがきっかけとなった。ヤセノヴァツは拡張されたが、「ヤセノヴァツ強制労働収容所は無限に囚人を収容することはできない」と当局に言われた。その後すぐに、ウスタシェはユダヤ人よりもセルビア人の抹殺を重視していたことから、イタリアとカトリックの圧力がウスタシェにユダヤ人の殺害を思いとどまらせているというドイツ側の疑念が新たに生じた[41]。

 ナチスはユダヤ人をアウシュヴィッツに移送する可能性を再検討したが、それは、そこでの駆除が容易であっただけでなく、犠牲者から生じる利益をクロアチア人やイタリア人のために残すのではなく、ドイツの手元に残すことができたからである[42]。 代わりにヤセノヴァツは移送できないユダヤ人を収容して殺害する場所として存続させた。このようにして、テンイェ(Tenje)からユダヤ人が強制送還される一方で、ヤセノヴァツにも2回の強制送還が行われたのである[43]。

 ハンス・ヘルム(Hans Helm)からアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)に送られた報告書にも示されている。そこには、ユダヤ人はまずスタラ=グラディシュカ(Stara-Gradiška)に集められ、「ユダヤ人はウスタシュの収容所で『強制労働』に雇われるだろう」とあり、ヤセノヴァツとスタラ・グラディシュカだけに言及して、「国外追放にはならないだろう」とある[44] 。

 ナチは赤十字の代表団が訪れた後、収容所に残っているユダヤ人に関心を持ったのは1944年6月のことである。カシェは「シュミドリン(Schmidllin)はユダヤ人に特別な関心を示していた」と書いている。... ルブリッチは、シュミードリンが、ユダヤ人は最もすばらしい方法で扱われなければならない、何が起ころうとも、彼らは生き延びなければならないと言ったと私に語った。... ルブリッチはシュミドリンがイギリスの工作員であると疑っていたので、彼とユダヤ人との接触をまったくさせなかった」[45]。

 ハンス・ヘルム(Hans Helm)は、ユダヤ人を強制収容所に送還する責任者であった。彼は1946年12月にベオグラードで他のSSやゲシュタポの幹部と共に裁判にかけられ、アウグスト・マイツナー、ヴィルヘルム・フックス、ヨーゼフ・ハーン、ルードヴィヒ・テイクマン、ヨーゼフ・エッカート、エルンスト・ヴァイマン、リチャード・ケーセラー、フリードリヒ・ポルテ(August Meyszner,Wilhelm Fuchs, Josef Hahn, Ludwig Teichmann, Josef Eckert, Ernst Weimann,Richard Kaserer and Friedrich Polte)と共に絞首刑による死刑判決が下された[46]。


2.収容所の設立と運用


メインキャンプシグラナとその他のキャンプの位置
SoSource:Wikimedia Commons By Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, Link


 ヤドブノ(Jadovno)強制収容所は、ウスタシェが絶滅させるために使用した最初の収容所だった。ヤドヴノは1941年5月から稼働していたが、同年8月、同月にヤセノヴァツに収容所が設立されたのと同時期に閉鎖された。ヤセノヴァツ複合施設は、1941年8月から1942年2月の間に建設された。最初の2つの収容所であるクラピエとブロチツェ(Krapje and Bročice)は、1941年11月に閉鎖された[47]。

 以下の新たな3ヶ所の収容所は、終戦まで機能し続けた。

・チグラナ(ヤノセヴァツ Ⅲ)Ciglana (Jasenovac III)
・コジャラ(ヤセノヴァツ Ⅳ)Kožara (Jasenovac IV)
・スタラ・グラディシュカ(ヤセノヴァツ Ⅴ)Stara Gradiška (Jasenovac V)


2.1 収容所司令部


ヤセノヴァツのメイン収容所の施設配置図
Source:Wikimedia Commons By Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, Link


ヤセノヴァツ強制収容所付近の集団墓地で処刑するウスタシェの民兵組織
Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link

 ヤセノヴァツの指揮系統の頂点にいたのは、ナチス式の人種法に署名し、ユダヤ人、セルビア人、ロマ人に対するウスタシェの大量虐殺を指揮したウスタシェの指導者アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić)であった[48]。パヴェリッチは、収容所での大量殺戮の組織をUNS(「ウスタシェ監督局」)に委ね、側近のディド・クヴァテルニク(Dido Kvaternik)をその長に据えた[50]。 [51] バチカンのNDH代表の秘書であったジュゼッペ・マスッチ(Giuseppe Masucci)は、クヴァテルニクをウスタシェの最悪の人物とみなし、彼がクロアチア系ユダヤ人が「30万件の中絶、レイプ、若い少女の汚辱」を行ったと語ったと指摘している。「52] ヤセノヴァツを頂点とするセルビア人やその他に対するウスタシェのテロがパルチザンのより広い抵抗に火をつけると、1942年10月にドイツはパヴェリッチに圧力をかけ、ディド・クヴァテルニクを排除し追放した[53]。 クヴァテルニクは後にウスタシェの犯罪についてパヴェリッチを非難し、彼は単にパヴェリッチの命令を実行しただけだと主張している。[54].

 収容所は、NDHの特別警察である「ウスタシェ監督局」(Ustaška nadzornaslužba、UNS)の第三部によって建設、管理、監督された。ヤセノヴァツの主な指揮官には、次のような人物がいた。

・ヴィエコスラフ・"マクス"・ルブリッチ(Vjekoslav "Maks" Luburić)。
 1941年5月から7月にかけて亡命先から戻ったルブリッチは、リカで数百人のセルビア人民間人の複数回の虐殺を指揮し、セルビア人の反乱に火をつけた[55][56][57] NDHのすべての強制収容所を監督するウスタシェ監視局の第三局長に昇進し、1941年9月にドイツに渡ってSS強制収容所を学び、これをヤノヴァツのモデルとして使用する[58][59]。ドイツの覚書はルブリッチを「神経症的で病的な性格」と記述している[59]。 ルブリッチの部隊が数百人のセルビア人市民を虐殺し[61][62]、ウスタシェが数万人をヤセノヴァツに幽閉したコザラ(Kozara)攻防戦の後、彼は450人の避難民であるセルビア人少年を「採用」して黒いウスタシェ軍服を着せて「小さな親衛隊」(オスマン帝国体制に従って、バルカン地方のキリスト教徒の家庭から連れ出した少年をオスマン軍に編入していた)と名付けた[63]。ルブリッチの実験は少年たちをウスタシュにすることに失敗し、ほとんどがヤセノヴァツで栄養失調と病気で死亡した[63]。

・リュボ・ミロシュ(Ljubo Miloš)
 1941年10月、リュボ・ミロシュがヤセノヴァツ司令官に任命された。クロアチアの政治家ヴラドコ・マチェク(Vladko Maček)は、ヤセノヴァツでウスタシェに投獄され、後に、ミロシュ(Miloš)にヤセノヴァツで行った残虐行為について「神の罰を恐れているか」尋ねたと書いている。ミロシュはこう答えた。「自分がしたことのために地獄で焼かれることは分かっている。しかし、私はクロアチアのために焼かれるだろう」[64][65]。多くのヤセノヴァツの収容者は、ミロシュが医師のふりをして収容者の喉から胃にかけてナイフで切り裂くなど、その犯罪を証言した[66]。 ヤセノヴァツの警備員を率いて近くのセルビア人村の虐殺と略奪を行った後、ドイツの主張でミロシュが裁かれ投獄されたが、すぐにルブリッチの介入で解放された[67]。

・ミロスラフ・フィリポヴィッチ(Miroslav Filipović)
 ルブリッチは、1942年2月にバニャ・ルカ(Banja Luka)付近で行われた最大2,300人のセルビア人市民の大量虐殺にウスタシェの司祭として参加したフィリポヴィッチ(Filipović)をドイツ軍が投獄した後、フィリポヴィッチをヤセノヴァツに呼び寄せた。1942年5月にヤセノヴァツⅢ区の司令官に、10月にはスタラ・グラディシュカで司令官に昇進した[68]。 [69] フランシスコ会であったため、収容者は彼を「ブラザー・サタン」と呼び、子供を含む多くの囚人を個人的に殺害したと証言した[70]。リュボ・ミロシュが大量殺人を命令したフィリポヴィッチを非難した一方で、フィリポヴィッチは、彼が「セルビア人は無慈悲に絶滅しなければならない」と指示したと述べたルブリッチを非難し、自分自身を単にウスタシュの従者であると描写している[71]。

 このほか、イヴィツァ・マトコヴィッチ、アンテ・ヴルバン、ディンコ・シャキッチ(Ivica Matković, Ante Vrban and Dinko Šakić)など、収容所を管理していた人物は、時期によって異なる。収容所管理者はまた、ウスタシェの大隊、警察部隊、ドモブラニ部隊、ボスニアのイスラム教徒で構成された補助部隊、ドイツ人やハンガリー人を使用した。ウスタシェは、ヤセノヴァツに男性、女性、子供を収容し、拷問し、処刑した。最も多くの犠牲者はセルビア人であったが、犠牲者にはユダヤ人、ロマ人(または「ジプシー」)、および一部の反体制クロアチア人とボスニアのイスラム教徒(すなわちパルチザンまたはそのシンパ、ウスタシェによってすべて「共産主義者」として分類された)も含まれていた[72]。

 収容所に到着すると、囚人にはナチスの強制収容所バッジと同じように、セルビア人は青、共産主義者(非セルビア人レジスタンスメンバー)は赤というように色がつけられ、ロマ人にはマークがなかった。この慣習は後に放棄された[73]。ほとんどの犠牲者は収容所近くの処刑場で殺害された。グラニク(Granik)、グラディナ(Gradina)、および他の場所である。生かされていた人々は、ほとんどが必要とされる職業や取引に長けており(医師、薬剤師、電気技師、靴職人、金細工師など)、ヤセノヴァツでの仕事や工房に雇われていた[74]。


2.2 受刑者数

ヤノセヴァツ強制収容所では、セルビア人が収容者の大半を占めていた[75]。一般的にセルビア人は、カトリックへの改宗を拒否した後にヤノヴァツ強制収容所に連行された。NDH周辺の多くの自治体では、カトリックに改宗しないセルビア人は強制収容所に送還されると警告ポスターで宣言されていた[76]。ウスタシェ政権のセルビア人の大量殺戮政策はジェノサイドであると見なされた[77][78][79][80][81][82][83][84]。

 ヤセノヴァツ記念地区の犠牲者リストでは、80,914人のうち45,923人と56%以上がセルビア人である(犠牲者リスト参照)。セルビア人の民族性を認めると即座に殺されるケースもあり、ほとんどがそれが投獄の唯一の理由と考えていた[85]。セルビア人は主にコザラ(Kozara)地方から連れて来られ、ウスタシェがパルチザンゲリラが保持していた地域を占領していた [86]。ドイツ人はヤセノヴァツ強制収容所に直接はいなかったが、パルチザンの戦争被災地からの「浄化行動」後の人々の収容に参加し、特にコザラ攻勢の間、さらにドイツや占領下のヨーロッパの他の収容所での強制労働に収容者を連れて行った[87]。 これらは判決なしに収容所に運ばれ、ほとんど即時処刑の運命で、機関銃の使用によって加速されたのであった。ヤセノヴァツにおけるセルビア人の正確な犠牲者数は不確かであるが、最も低い一般的な見積もりでは60,000人程度であり、第二次世界大戦のセルビア人犠牲者全体の中で最も重要な部分の1つである[88]。

 ナチスの大量虐殺の主な対象であるユダヤ人は、ヤセノヴァツでの犠牲者の中で2番目に大きなカテゴリーであった。ユダヤ人の犠牲者の数は不確かであるが、
約8000人[89]から、クロアチアのユダヤ人人口37,000人のほぼ3分の2(約25,000人)までの間とされている[90]。


トラヴニク地域のユダヤ人をヤセノヴァツとスタラ・グラディシュカ収容所に強
制送還した報告書、1942年3月
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 ヤセノヴァツでのユダヤ人の処刑のほとんどは、1942年8月以前に行われたものである。その後、NDHは彼らをアウシュビッツに送還した。一般的に、ユダヤ人は当初、ザグレブに集められた後クロアチア各地から、サラエボに集められた後ボスニア・ヘルツェゴビナからヤセノヴァツに送られた。しかし、一部は他の都市や小さな町から直接ヤセノヴァツに運ばれた[要出典]。ヤセノヴァツのロマは、ボスニアの各地、特にコザラ地方で捕らえられたロマとシンティの両方から構成されていた。彼らはヤセノヴァツに運ばれ、栄養、水分補給、避難所、衛生状態のすべてが他の収容所独自のひどい低水準以下であるエリアⅢ-C区画に連れて行かれた[91]。殺されたロマの数字は2万から5万と推定されている[91]。

 反ファシストとは、ウスタシェ政権の政治的、思想的な反対者、敵対者からなる様々な種類の人たちのことをさす。一般的に、彼らの扱いは他の収容者と同様であったが、既知の共産主義者はすぐに処刑され、有罪判決を受けたウスタシェや法執行機関の職員[92]、あるいはクロアチアの農民などウスタシェに近い意見を持つ者は、有利な条件で収容されて、一定期間の服役後に恩赦が与えられた。禁止されたクロアチア農民党のリーダーであるヴラドコ・マチェク(VladkoMaček)は1941年10月から1942年3月までヤセノヴァツに収容され、その後は厳しい自宅監禁が続いた[93]。第二次世界大戦中のファシスト国家としてはユニークで、ヤセノヴァツにはシサク(Sisak)に子供専用の収容所があった。約20,000人のセルビア人、ユダヤ人、ロマの子供たちがヤセノヴァツで死亡した[94]。

2.2.1 女性と子供たち
 ヤセノヴァツ記念館に登録されている83,145人の犠牲者のうち、半数以上が女性(23,474人)と14歳以下の子供(20,101人)である。その多くは、女性と子供のために特別に設計されたヤセノヴァツ複合施設のスタラ・グラディシュカ収容所(Stara Gradiška)[95]、およびヤブラナツとムラカ(Jablanac and Mlaka)の関連収容所に収容され、子供達はシサク(Sisak)とヤストレバルスコ(Jastrebarsko)の他のウスタシェ強制収容所に収容されていた。収容所の子供の多くは、ドイツ・ウスタシェ・コザラ攻勢の際に捕らえられた数万人のセルビア人の中に含まれており、その後、彼らの親の多くはドイツの強制労働に送られ、子供たちは親から引き離されてウスタシェ強制収容所に入れられたのである。さらに、NDHにいたほぼすべてのロマの女性と子どもはヤセノヴァツで絶滅させられ、何千人ものユダヤ人の女性と子どもも同様に、数としては、ヤセノヴァツで殺害されたクロアチア人ホロコースト犠牲者の3分の2に上ったのである。子供たちが収容されていたひどい状況を、女性収容者の一人であるジョルダナ・フリードレンダー(Giordana Friedländer)は次のように語っている。

 私が部屋に入ったとき、何かが見えた。一人の子供が糞の中に頭を突っ込んで寝ていて、他の尿にまみれた子供も重なり合って寝ていた。私は一人の女の子を汚物のプールから持ち上げようと思って近づいたのだが、彼女は微笑むように私を見ていた。彼女はもう死んでいたのだ。全裸の10歳の男の子が一人、座れないので壁際に立たされていた。彼からはハエに覆われた腹部が垂れ下がっていた[96][97]。

 その後、収容所の司令官であるアンテ・ヴルバンは、部屋の密閉を命じ、顔にマスクをつけてチクロンガスを部屋に噴射し、子どもたちを殺した[96][97]。 裁判で、アンテ・ヴルバン(Ante Vrban)司令官はこれらの殺人を認めた[98]。


2.3 生活環境

 収容所の生活環境は、ナチスの死の収容所の典型的な厳しさを示していた。乏しい食事、悲惨な宿泊施設、ウスタシェの看守による残酷な扱いなどである。多くの収容所と同様に、1942年2月に訪れた報道関係者の代表団や1944年6月の赤十字の代表団など、代表団の訪問中に一時的に状況が改善され、代表団が去った後に元に戻されることがあった[100]。


ヤセノヴァツでウスタシェに処刑された囚人たちの遺体[99]
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・構造的な飢餓。
 これも死の収容所の典型だが、ヤセノバツの収容者の食事は生命を維持するのに十分ではなかった。ブロチツェ(Bročice)収容所では、朝食にデンプンを入れたお湯で作った「スープ」が与えられ、昼食と夕食には豆が与えられていた(6時、12時、21時に提供されていた)。

 第三収容所の食事は、当初は豆の代わりにジャガイモが使われており、よりマシなものであったが、1月[何年?]には、薄い「カブのスープ」が毎日1食、しばしばお湯にキャベツの葉2、3枚を放り込んだものに変更された。年末には、食事は再び変更され、水とデンプンでできた薄いお粥が1日3食になった[102]。ひどい飢えをしのぐために、「人々は草や葉を食べたが、これらは非常に消化しにくいものであった。」という。特別扱いされた囚人は死んだ犬を食べ、「収容者がウスタシャの便所の糞から未消化の豆などを取り除くスカトファギア(scatophagia)を行うこと」があった[103]。人々はすでに1941年10月に餓死し始めた。

・水
 ヤセノヴァツは、飲用水の全般的な欠如という一点において、他の死の収容所よりもさらに厳しいものであった。囚人たちは、サヴァ川の水を飲むことを余儀なくされた。

・宿泊施設
 最初の収容所であるブロチツェとクラピエ(Bročice and Krapje)では、収容者は寝台が3段になった標準的な強制収容所のバラックで眠ていた。冬には、これらの「バラック」は、屋根や壁の隙間から雨や雪が容赦なく入り込んだ。また、足首までの深さの水をかき分けて入ることもあった。死亡した囚人は、搬出されるまで数日間「バラック」の中に放置されることもしばしばあった。約3,000人が収容された第三収容所では、当初、収容者は作業場の屋根裏、鉄道の「トンネル」と呼ばれる開放された倉庫、あるいは単に野外で寝泊まりしていたという。しばらくして、8つのバラックが建てられた[104][105]。収容者はこれらのバラックのうち6つのバラックで眠り、残りの2つは「クリニック」と「病院」として使われ、病気の収容者はそこで死ぬか処刑されるために送られたのである[106]。

・強制労働
 他の強制収容所と同様に、ヤノセヴァツの収容者は、最も些細な理由で収容者を処刑するウスタシシェの捕虜の目の前で、毎日約11時間の重労働を強いられた[107][108]。労働部門はウスタシェのドミニク「ヒンコ」ピチリ(Dominik"Hinko" Piccili)(またはピチリ)とティホミール・コルディッチ(Tihomir Kordić)が監督していた。ピチリは、個人的に受刑者を厳しく働かせるために鞭打つこともあった[109]。

 彼は「ヤノセヴァツ労働力」を建設、煉瓦工、金属工、農業などの16のグループに分けた。受刑者は過酷な労働で死に至ってしまう。煉瓦工場での作業は過酷だった[110][111]。 受刑者がウスタシェのためにナイフなどの武器を鍛えるために、鍛冶屋作業も行われた。建設工事では、堤防工事作業が最も恐れられていた[112]。

・衛生状態
 収容所内では、乱雑さ、血、吐瀉物、腐敗した死体がバラックに充満し、害虫やしばしば溢れる便所のバケツの悪臭が充満していた[113]。風雨にさらされるため、収容者は健康を害し、チフス、発疹、マラリア、胸膜炎、インフルエンザ、赤痢、ジフテリアの流行に見舞われることになった。労働の休憩時間(5時~6時、12時~13時、17時~20時)[114]には、野原に掘られた大きな穴を板で覆った野外便所で用を足さなければならなかった。収容者の中には、そのトイレの穴に落ちて倒れ、死亡するものもしばしばいた。ウスタシェは、被抑留者に板を切り離させたり、被抑留者を物理的に溺れさせたりして、(こうした事故の発生を)助長していた。収容者のボロ布や毛布は、バラックのシェルターと同様に霜にさらされるのを防ぐには薄すぎた[116]。 衣服や毛布は、湖が凍結する冬の時期を除いて、月に一度だけ収容者に湖水で簡単に洗うことが許されたため、ほとんど浄化されることはなかった[117]。その後、倉庫に衛生装置が建てられ、そこで衣服は不十分な煮沸が行われていた[114]。

・私有物の不足
 収容者は、持ち物や身の回りのものをはぎ取られた。受刑者である彼らに与えられたのは、ボロボロの刑務所支給の衣服だけだった。冬には薄いレインコートが与えられ、軽いサンダルを作ることも許可された。受刑者には個人用の食器が与えられ、その中には0.4リットルの「スープ」が入るように設計されていた。その食器がなくなったしまった(例えば、排便のために他の受刑者に盗まれた)受刑者には、食事が与えられなかった[118]。代表団訪問の際、受刑者にはスプーン付きの2倍の大きさの食器が与えられた。その際、受刑者には色付きの札が渡された。

・不安
 死への恐怖、そして、生きている者が死者の隣に住むという状況の逆説は、被抑留者に大きな影響を与えた。基本的に強制収容所での被収容者の生活は、収容所への到着、収容所での生活、そして解放という3つの段階で見るのが最適である。第一段階は、収容所への移動中の苦難によるショックである。ウスタシェは、到着時に多くの収容者を殺害し、新しく到着した者を倉庫や屋根裏、列車のトンネル内や屋外に一時的に収容することによって、収容者たちのショックを煽ることになる[119]。

 収容所での生活に慣れてくると、今度は死の苦悩、悲しみ、苦難、虐待を生き抜くという、最も重要な段階に入る。死の危険が最も顕著に現れるのは、「公然の罰のためのパフォーマンス」、つまり、収容者を集団で並べ、個人をランダムに指摘して、他の者より先に死の罰を受けさせる選抜の時である。ウスタシェは、このプロセスを長引かせ、巡回して質問をし、受刑者を見つめ、彼らを選び、そしてやめてはまた別の者を指摘することでこれを恐怖を増幅させた[120][121]。受刑者として、人々はウスタシの犯罪に対して能動的または受動的に反応することが可能だった。活動家は抵抗運動やグループを形成し、食料を盗み、脱走や反乱を企て、外の世界と接触していた[122]。

 すべての受刑者が、食べ物に対する強迫観念、パラノイア、妄想、白昼夢、自制心の欠如など、ある程度の精神的トラウマを負っていた。生存者のイリヤ・イヴァノヴィッチ(Ilija Ivanović)、ニコラ・ニコリッチ博士(Dr NikolaNikolić)、デュロ・シュワルツ(Đuro Schwartz)のように、残虐行為を記録しようと試みた受刑者もいた。書くことは死罪であり、日付を追うことは極めて困難であったため、そのような行為は危険なものであった[123]。


2.4 大量殺戮と残虐性

 ウスタシェがヤセノヴァツに1年間幽閉したクロアチア人反共産主義者の移民アンテ・シリガ(Ante Ciliga)は、「ヤセノヴァツの原始的残虐性はこのバルカン半島のアウシュビッツとは異なっていた」が、アウシュビッツと同様に「絶滅」を主目的とした巨大な殺人機械と評している。「125] セルビア・ユダヤ人コミュニティの元会長であるヤシャ・アルムリ(Jaša Almuli)によれば、ヤセノヴァツは、残虐性の点で、アウシュヴィッツを含む多くのドイツの対応する収容所よりもはるかに恐ろしい強制収容所であったということである。


サヴァ川に投げ込まれたヤセノヴァツ収容者たちの遺体 r[124]
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 1942年の夏の終わりに、NDH軍がパルチザンと戦っていたボスニアのコザラ地方から数万人のセルビア人の村人がヤセノヴァツに強制送還された[126]。男性のほとんどはヤセノヴァツで殺害され、女性はドイツの強制労働収容所に送られた。子どもたちは殺害されるか、カトリックの孤児院に分散された[127]。 生存者の証言によれば、子どものために作られた特別収容所では、カトリックの修道女が監視下の子どもたちの足をつかみ、頭を壁に押し付けて殺害したというが、これらの主張は検証も認定もされていない[128]。

 1942年8月29日の夜、刑務官たちは、誰が最も多くの被収容者を虐殺できるかという賭けをした。看守の一人であるペタル・ブルジッツァ(Petar Brzica)は、自分が約1,360人の新入者[130]の喉を切り裂いたと自慢していた[129]。

 賭けに参加したことを告白した他の参加者には、約600人の受刑者を殺害したアンテ・ズリヌシ-シプカ(Ante Zrinušić-Sipka)と、事件の詳細で一貫した報告をしたマイル・フリガノヴィッチ(Mile Friganović)がいた[131]。 フリガノヴィッチ(Friganović)は、約1,100人の受刑者を殺害したことを認めている。彼は、特に、ヴカシン・マンドラパ(Vukasin Mandrapa)という老人に対する拷問について語っている。彼は、この老人にアンテ・パヴェリッチを祝福するよう強制しようとしたが、老人がそれを拒否する度に、耳と鼻を切り落としたがその後も、これを拒否していたという。最終的には、老人の目をくり抜き、心臓を取り出し、のどを切り裂いた。この事件はニコリッチ博士(Dr Nikoli ć)が目撃している [132]。

2.4.1 スルボジェック
 ウスタシェは「スルボシェック」(セルビア語キリル文字: Србосјек,"Serb-cutter" )として知られるようになったナイフで受刑者を虐殺した[133][128][7][134][135]。


Srbosjek」または「Serbcutter」と呼ばれる農業用ナイフで、手に縛り付けて使用する。ウスタシェ民兵がヤセノヴァツで収容者を迅速に殺害するために使用した。
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 構造はもともと、第二次世界大戦前から戦時中にかけて、ゾーリンゲン=ヴィッデルト(Solingen-Widdert)のドイツ工場Gebrüder Gräfrathが「Gräwiso」の商標で製造した麦束用ナイフの一種[136][137][138][139]である。ナイフ上部は革製のグローブのような形で、穴に親指を通して着用し、刃だけが手に突き出させる設計になっていた。長さ12cmの湾曲したナイフで、刃先は凹んでいる。このナイフは弓形の楕円形の銅板に固定され、銅板は厚い革のバングルに固定されていた[140]。農業用としては、畑仕事人が脱穀の前に麦束を切り開くのに使用された。ナイフを手袋の板に固定したのは、怪我を防止し、作業速度を上げるためであった[139]。


2.5 組織的な囚人たちの殺害

散発的な殺害や劣悪な生活環境による死亡のほかに、ヤセノヴァツに到着した多くの収容者は、組織的な抹殺が予定されていた。選別の重要な基準は、その囚人の予想される拘留期間だった。労働能力があり、3年未満の懲役を言い渡された屈強な男達は、生きることが許された。不定期刑または3年以上の刑を宣告されたすべての受刑者は、その体力に関係なく、直ちに処刑されることとなっていた。[141]。

 組織的な殺害は、場所も形態も様々であった。ナチスの方法論に従った機械的な処刑もあれば、手作業による処刑もあった。機械的な殺害の手段には次のようなものがあった:

・死体の火葬
 ウスタシェは、生きている受刑者を時には薬漬けにし、時には完全に覚醒した状態で焼却炉に入れ、また死体も火葬していた。最初の火葬は、1942年1月にレンガ工場の炉で行われた。クロアチア人技師ドミニク・「ヒンコ」・ピチリ(Dominik "Hinko" Piccili )またはピチリは、窯の炉室の7つをより洗練された火葬場に改造することでこの方法を完成させた[142][143]。火葬場はサヴァ川の向こうのグラディナ(Gradina)にも設置された。しかし、国家委員会によれば、「稼働したという情報はない」[144]。 しかし、後の証言では、グラディナの火葬場は稼働していたとされている[145]。 戦争末期の遺体発掘でわかるように、火葬ではなく埋められた遺体もあった[なぜ?]【要出典】。

・ガスと毒殺
 ウスタシェは、スタラグラディシュカに到着した受刑者を殺すために毒ガスを使おうとした。彼らはまず、シモ・クライチ(Simo Klaić)が「緑のトーマス」と呼んだガスを運ぶ貨物列車(バン)で、ジャコヴォ(Djakovo)から到着した女性や子供をガスで殺そうとした[146]。この方法は後にチクロンBと二酸化硫黄の固定ガス室に置き換えられた[147][148][149][150] ヤセノヴァツ強制収容所はガス室を持っていなかった[151][152]。

 ナイフ、ノコギリ、ハンマーなど、鋭利な道具や鈍い道具を使って行われる処
刑である。これらの処刑は様々な場所で行われた。

・グラニク
 グラニクはサヴァ川貨物船の荷物を降ろすのに使われた移動式階段・斜路(ランプ)である。 1943-44年の冬、季節農業の労働者は失業し、新しい抑留者の大規模な輸送が到着し、予想される枢軸国の敗北に照らして、清算の必要性が大きくなっていた。ヴィエコスラフ・"マクス"・ルブリッチ(Vjekoslav "Maks"Luburić)は、クレーンを絞首台として利用し、そこで虐殺を行い、死体を川の
流れに投棄する計画を考案した。秋になると、ウスタシェの下士が20日ほど毎晩やってきて、倉庫に収監されていた人々の名前のリストを持って、裸にし、鎖につなぎ、殴り、「グラニック」に連れて行き、腕に曲げたワイヤーに重りをつけて、腸と首を切り、頭に鈍器で一撃を加えて川に投げ捨てたのだそうです。その後、この方法は強化され、受刑者は二人一組で背中合わせに縛られ、腹を切られてから生きたまま川に投げ込まれた[153]。

・グラディナ(Gradina)村
 ウスタシェは、ドニャ・グラディナ村とウスチカ村 (Donja Gradina and Uštica)の近辺の空き地を利用し、虐殺と集団墓地を示す区域を針金で囲った。ウスタシェは、犠牲者をナイフで殺害したり、頭蓋骨を木槌で叩き割ったりして殺害した。ロマ人が収容所に到着すると、彼らは選別を受けず、むしろ「Ⅲ-C」と呼ばれる収容所の一区画の屋根のない部屋に集められた。そこからロマ人はグラディナの粛清・殺害の場所に連れて行かれ、殺害の合間に(男性は)堤防で、また(女性は)トウモロコシ畑で働かされた。こうしてグラディナとウスチカは、ロマの集団墓地となった。さらに、ロマの小集団は墓堀り人として利用され、グラディナでの虐殺に実際に参加した。こうして、この場所での絶滅は、それがヤセノヴァツの主要な殺戮場となるまで拡大したのである。グラディナでは、総面積10,130m²に及ぶ105の集団墓地が発見された[154]。さらに、その範囲がまだ確認されていない22の集団墓地も発見されている[154]。それとは別に、ウスチカでも1218 m²の表面積を持つ21基の集団墓地が発見されている[155]。

・リマニ(Limani)の墓
 グラディナで囚人の清算が始まった1942年初頭以前は、ほとんどの囚人がヤセ
ノヴァツⅢ収容所内で殺されていた。囚人墓掘りの特別部隊は、毎日、収容所の
フェンスの近くに掘られた巨大な溝に遺体を埋めるよう命じられた。リマニと呼
ばれるこの地域には、7つの集団墓地があり、その総面積は1,175m²であった
[156]。

・メジェストロゴヴィ(Međustrugovi)とウスコシェ・シュメ(Uskočke šume)
 これらは、主に1944年にスタラ・グラディシュカ出身の囚人が大量に殺害された場所である。1946年、4つの集団墓地から967人の犠牲者(男性311人、女性467人、子供189人)が掘り起こされた[157]。遺体は後にスタラ・グラディシュカの共同墓地に埋葬され、確認された犠牲者は出身地(主にスリジェム(Srijem) 地区)に戻された。メジェストロゴヴィの森には、さらに約1,000人の犠牲者が一つの巨大な集団墓地に埋葬されている[157]。

・クラピエ(Krapje)
 1941年11月にクラピエ(第1収容所)とブロチツェ(Brocice)(第2収容所)が閉鎖されたとき、当時収容所にいた3,000人から4,000人の囚人のうち、1,500人ほどだけが新しい第3収容所(煉瓦工場)に移送され、残りは殺された。[158] クラピエでは、中央の集団墓地、主にユダヤ人の犠牲者が埋められた第2集団墓地、そしてザグレブの電気トラムの従業員の死刑囚を埋めた第3の大きな墓地、この三つの塊墓が見られる[159]。

・ムラカ(Mlaka)とヤブラナク(Jablanac)
 収容所ⅢとVの女性や子供のための収集・労働キャンプ[160]として使われた二つの場所である。しかし、これらの女性や子供、また他のグループの多くが、これら二つの村周辺の田舎で処刑された場所として使われた。ムラカとその周辺では5つの集団墓地が確認された[161]。

・ヴェリカ・クスタリツァ(Velika Kustarica)
 国家委員会によると、1941年と1942年の冬にここで5万人もの人々が殺された[162][よりよい出典が必要] 当時とその後で殺害が行われたことを示唆する証拠がある[出典が必要]。

 ウスタシュは、指の爪の下に熱い釘を差し込んだり、目玉をくり抜いたり、頭
蓋骨が割れて目が飛び出すまで頭に鎖を巻き付けたり、開いた傷口に塩を入れたりするなど、被拘束者に対して、拷問や殺害の手段を広範に行っていた。 [163]女性は、レイプ、乳房の切断、妊婦の子宮の切断など、言いようのない恐怖に直
面した[164][163]。ウスタシェは、自分たちが犯した犯罪に誇りを持ち、セルビア人の犠牲者から切り取った人間の目や舌のネックレスをつけていたほどだった165]。


2.6 収容者の援助

 1942年7月、ディアナ・ブディサヴリェヴィッチ(Diana Budisavljević)はドイツ人将校アルベルト・フォン・コツィアン(Albert von Kotzian)の助けを借りて、スタラ・グラディシュカ強制収容所から子供たちを引き取る許可を書面で得た[166]。カミロ・ブレズラー(Kamilo Bresler)らを含む社会省(Ministry of Social Affairs)の助けを借りて、収容所からザグレブなどに児童収容者を移転させることができた[166]。

赤十字は、ナチス・ヨーロッパで迫害された人々への援助が不十分であると非難された。現地代表のユリウス・シュミッドリン(Julius Schmidllin)は、資金援助を求めるユダヤ人社会から連絡を受けた。この団体はユダヤ人の収容所か
らの解放を支援、ヤセノヴァツ収容所の訪問に関してクロアチア政府と議論したこともあった。その願いは、結局1944年7月に叶った。収容所は代表団の到着のために準備されていたので、犯罪につながるものは何も見つからなかった [167]。収容者の抵抗組織は、ウスタシュの人脈に助けられた。これらのグループの1つは、皮なめし工場で活動していたウスタシェのマリン・ユルチェフ博士(Dr Marin Jurčev)と彼の妻によって支援され、彼らは後にディンコ・シャキッチ(Dinko Šakić)の命令でこのために絞首刑にされ、収容者と交際または協力することで有罪となったウスタシャは処刑されることになった[168]。


3.収容所の終焉

3.1 死体の焼却


 ナチスのSonderaktion 1005※と同じように、戦争末期に、ウスタシはヤセノヴァツでの犯罪の証拠を隠滅しようとした[169]。収容所の数少ない生存者のうち、少なくとも4人、ミロスラフ・トラウトマン、カール・ヴァイス、ヴァルター・グリューン、エゴン・ベルガーは、ウスタシがヤセノヴァツで死体を掘り起こして焼いたと証言している[170]。「収容所から出たすべての油と角材(梁など)はグラディナ(ヤセノヴァツの主要な殺戮場の一つ)に運ばれた。これらの角材から、焼くための台・施設が建てられ、その上に掘り起こされた死体が投げ込まれ、油で覆われ、そして焼かれた」[170]。 ヴァルター・グリュンはこう証言している。収容所から出たすべての油と梁などの角材は、グラディナ(ヤセノヴァツの主要な殺戮場の一つ)に運ばれた。また、これらの梁から炙り台が立てられ、その上に掘り起こされた死体が投げ込まれ、油で覆われ、そして焼かれた」と証言している[170]。ヤセノヴァツ収容所司令官ミロスラフ・フィリポヴィッチとリュボ・ミロシュ(Miroslav Filipović and Ljubo Miloš)は、ウスタシェがヤセノヴァツにおける集団墓地の証拠をすべて完全に破壊するという命令を下したことを確認し、ミロシュもその過程を説明している[171]。「現場の周囲には強力な警備が敷かれ、その後、収容所から健康な収容者が連れてこられ、彼らは死体を掘り起こし、ある特定の場所に積み上げ、ガソリンや油で完全に燃やした」[170]と述べている。

※注 )Sonderaktion 1005(特別措置1005)
 1944年後半。プロジェクトの目標は、ラインハルト作戦の下で起こったポーランドにおける大量殺戮の証拠を隠したり破壊したりすることだった。正式にはLeichenkommandos(「死体班」)と呼ばれるゾンダーコマンドの囚人のグループは、集団墓地を掘り起こし、遺体を燃やすことを余儀なくされた。囚人はしばしば彼らが逃げるのを防ぐために鎖で繋がれた。このプロジェクトは、100万人以上のユダヤ人、ローマ、スラブ人を含む数百万人を殺害したドイツの死の部隊である警察大隊とアインザッツグルッペンによって犯された大量虐殺の証拠を破壊するために実施された。その行動は、警備部隊(Sicherheitsdienst:SD)の選ばれた分隊と統一された秩序警察(Order Police)によって監督されていた。
(英文Wikipedia)


 この死体の集団焼却処理は、戦後の委員会によって確認され、ヤセノヴァツで選択的な発掘が行われ、ほとんどの場所で「灰と骨の焼けた跡」を発見したが、189体の死体、ほとんどが潰れた頭蓋骨、その中の51人の14歳以下の子供、を含む複数のそのままの集団墓地を見つけることに成功した[170]。


3.2 最後の粛清と逃亡

 1945年4月7日の時点で、収容所には約3,500人の収容者が残されていた。サラエボからの撤退後、マクス・ルブリッチはさらに多くの捕虜となった民間人を連れてきて、彼らはすぐに殺された[172]。 4月15日と16日にレポグラヴァ刑務所(Lepoglava prison)が避難したとき、ウスタシェは1,590人の収容者をヤセノヴァツに送り、彼らはそこですべて殺された。[172]4月19日にルブリッチから収容所を破壊する命令が出された。ウスタシェは、まず、残っていた医療関係者と病人を殺害し、次いで、それまで免除されていた高度の資格を持つ労働者の多くを殺害した。[173]

 1945年4月21日、パルチザンの接近に伴い、ウスタシェはヤセノヴァツに残っていた700~900人の女性を殺害した[174][175]。その後、推定1,073人の男性捕虜だけが残り、4月21日から22日の夜、彼らは脱走を決行した[175] 。4月22日に、600人の囚人が反乱を起こして、そのうち92人が逃げることができ、残りの全員が殺害された。反乱の日、ウスタシェは脱出を選ばなかった残りの460人の囚人を殺害し[176]、その後、収容所の建物、監視所、拷問室、「ピチリ炉(PicciliFurnace)」、その他すべての建造物に放火した。5月に収容所に入ったパルチザンは、廃墟、煤、煙、そして何百人もの犠牲者の骸骨を発見しただけであった。
 戦後、ドイツ人、NDH、スロベニア人、チェトニック人の捕虜が廃墟となった収容所に連れてこられ、建築資材を採取した。その中には、収容所を囲んでいた長さ2キロ、高さ4メートルのレンガ壁も含まれていた。当局は採取した煉瓦と他の建築資材を地元住民に寄付し、家や集落を再建するために使用した[177]。

※注)チェトニック
 第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。名称はチェトニクとも表記される。(Wikipedia)



4. 犠牲者数

 第二次世界大戦後、学者やホロコースト機関は、ヤセノヴァツで殺された犠牲者の数を110万から3万までと様々に推定してきた[178]。現代のほとんどの資料では、10万人程度とされている。 [75][179][180][181][182] 歴史家のトミスラフ・ドゥリッチ(Tomislav Dulić)は、ヤセノヴァツでしばしば引用される70万人という数字に異議を唱えているが、それでも推定10万人という犠牲者数は、第二次世界大戦中のヨーロッパで最大の収容所のひとつになると述べている。 [75][181] 歴史家のイヴォ・ゴールドスタイン(Ivo Goldstein)は、ウスタシェがその犯罪を隠すために"最善"のことをしたという事実から犠牲者の推定が複雑になっていると指摘している。多くの犠牲者は、収容所で登録されることなく、直接処刑場に連れて行かれた[183]。また、彼らは登録ファイルを破棄した[184]。

 無数の犠牲者がサヴァ川に投げ込まれ[185]、その場所にあった火葬場で死者と生きている人も焼いた[186]。戦争終結時の死体の大量発掘と焼却により証拠はさらに破壊されていた。[169][187] アメリカ合衆国ホロコースト記念館のウェブサイトでは、「ユーゴスラビア、クロアチア、そしてヤセノヴァツの犠牲者の数を決定することは、多くの関連文書の破壊、独立した学者が残存したそれらの文書に長期間アクセスできないこと、戦後の党派的(パルチザン的)学者やジャーナリズムの思想的な取り上げ方により非常に問題がある」と述べている。[2]イデオロギー的な意図によって、ヤセノヴァツ被害者について、著しく誇張したものから完全に最小化し否定したものまで、幅広い推定がなされた[188]。


ヤノセヴァツ収容所に囚人を運ぶ列車
Source:Wikimedia Commons :, CC BY-SA 3.0, Link


4.1 現代の資料

 ヤセノヴァツ事件当時の資料は、ユーゴスラビアをめぐるさまざまな側面の戦いに由来している。ひとつはドイツ軍とイタリア軍、もうひとつはパルチザンと連合軍の戦いである。また、ウスタシェ自身とバチカンの文書に由来する資料もある。

4.1.1 ドイツ側資料
 ドイツ軍の高官は、ウスタシェがNDH(クロアチア独立国)全体で25万人(1943年3月時点)[189]から70万人のセルビア人を殺害したと見積もっていた[189][190]。特にヤセノヴァツに関しては、ナチスの情報機関であるナチスドイツSSとナチス党諜報機関(Sicherheitsdienst)が、ウスタシェ強制収容所の責任者であるヴェコスラヴ・ルブリッチ(Vjekoslav Luburić)に関する報告の中で、ウスタシェはヤセノヴァツで12万人、スタラ・グラディシュカ(Stara Gradiška)で8万人、そしてその他のウスタシェ収容所で2万人のセルビア人を殺害したと述べている。[189] フォン・ホルステナウ将軍(General von Horstenau)は、ヤセノヴァツの看守によって行われた虐殺の余波で、収容所の近くのクルクヴェニ・ボク(Crkveni Bok)のセルビア人住民を収容所に集団で追いやったときに収容所で死んでいく子どもたちの目撃談を次のように記述している[191][192]:

 「ウスタシェの中佐の指揮の下、不幸にも約500人の15歳から20歳の凶暴なやつらが降ろされた不幸な場所、クルクヴェニ・ボク(Crkveni Bok)では、人々がいたるところで殺され、女性はレイプされ、拷問されて死に、子供たちは殺された。私はサヴァ川で、目をくり抜かれ、性器に杭を打たれた若い女性の死体を見た。この女性はせいぜい20歳くらいで、この怪物どもの手に落ちたのだ。周囲では、埋葬されていない人間を豚が食い荒らした。「幸運な」住民たちは恐ろしい貨車で輸送された。これらの不本意な「旅行者たち」の多くは、収容所[ヤセノヴァツ]への輸送中に自ら血管を切ったのである。」

4.1.2 ウスタッシェの資料
 ウスタシェ自身は、殺害した人数についてもっと誇張した見積もりを出していた。すべてのクロアチア人収容所の司令官であったヴィエコスラフ「マクス」ルブリッチ(Vjekoslav "Maks" Luburić)は、1942年10月9日の式典で、ヤセノヴァツ収容所の素晴らしい「効率」を発表した。その後の宴会で、彼はこう報告した。

  我々はここヤセノヴァツで、オスマン帝国がヨーロッパを占領していた間に行った以上に多くの人々を虐殺した[143]、と。

 ウスタシェ総本部からの回覧板にはこう書かれている。「ヤセノヴァツの強制労働収容所は無制限に被収容者を 受け入れることができる」 同じ精神で、かつてユーゴスラビア軍に捕らえられたフィリポビッチ=マジュストロビッチ(Filipović-Majstorović)は、彼の3ヶ月の管理期間中に2万人から3万人が死亡したと認めた[193]。彼の告白がヤセノヴァツで犯した犯罪の程度をなんとなく最小限にしようとしたものであることが明らかになると、彼の個人的に100人を殺したという主張は極めて控えめで、フィリポビッチ=マジュストロビッチの数字もいくつかの資料で、3万人から4万人として再検討されるようになる。[要出典」フィリポヴィッチは1942年夏から初秋にかけてヤセノヴァツの司令官を務め、ウスタシェが25,000-27,000人のロマ人を絶滅させ[194]、ほぼ全員がヤセノヴァツで行われ、その間、他の民族の大量虐殺も進行中だったというのが学者のコンセンサスである。

 ヤセノヴァツ収容所指揮官のミロスラフ・フィリポヴィッチとリュボ・ミロシュの両名は、戦争終結直前にウスタシェが、残った収容者に死体を掘り起こして燃やすことを強制することによって、ヤセノヴァツにおける集団墓地のすべての証拠を完全に破壊する命令を出したと証言している[195][170]。これはクロアチア独立国の領土にあるサジミシュテ(Sajmište)強制収容所を含むナチの行ったことと同じことである。ヤセノヴァツにおける死体の大量焼却は、多くの生存するヤセノヴァツの収容者によって別途証言されており[195][170][196]、また戦後の発掘調査によって多くの場所で灰と骨の焼けた跡だけが発見されている[197][198]。

4.1.3 カトリック教会の資料
 ユレ・パルシッチ(Jure Paršić)は1942年11月、アロイェ・ステピナク(Alojzije Stepinac)によってヤセノヴァツの町のカトリック司祭に任命された。パルシッチ( Paršić )はウスタシェの大義に共感し、犠牲者の大半が殺された後にヤセノヴァツに到着したが、それでも彼はウスタシェがヤセノヴァツで3万から4万人を殺したと推定した[199]。1985年にドイツで執筆した彼は、収容所で何が行われたかを町全体が知っており「子供でさえ必要以上に知っていた」と述べている。パルシッチは、ウスタシェの看守から「自分が思っていたよりもはるかに恐ろしい」ことを知り、「自分の手を血で汚さなかった」看守がいたかどうか疑わしいと告白している。しかし、この話は告白(告解)で聞いたので、パルシッチは「この情報を墓場まで持っていく」と述べた[199]。

 また、ユレ・パルシッチは、ヤセノヴァツで発見したことを大司教ステピナチに詳しく話したと書き、ステピナチは「涙を流した」と述べている[199]。ウスタシェがヤセノヴァツで7人のスロベニア人カトリック司祭を殺害した後[200]、1943年2月24日にステピナはアンテ・パヴェリチに、これは「ヤセノヴァツの全体が独立国家クロアチアにとって恥ずべき汚点と復讐が求められる罪」であることを示したと書いている。

 1942年6月、カトリック神学者のアウグスティン・ユレティッチ(Augustin Juretić)神父は、「ヤセノヴァツの強制収容所は、まさに虐殺の場である」と書いている。どこにも-GPUやゲシュタポの下でさえ-「ウスタシェ」が犯したような恐ろしいことを読んだことがない。...ヤセノヴァツの物語はウスタシェ政権の最も暗黒のページである、何千人もの男性がそこで殺されたのだから」[201]と述べている。

※注)GPU(ゲーペーウー)
 Gosudarstvennoe politicheskoe upravlenieは、ソ連の国家政治保安部の略称。反革命運動の取り締まりを任務とした秘密警察。1922年に設置され、1934年に内務人民委員部に吸収された。(Weblio辞書)


4.1.4 収容者の資料
 ヤセノヴァツの収容者ミルコ・リファーとエゴン・ベルガー(Milko Riffer and Egon Berger)は「数十万人」の犠牲者について書いている[202][203]。ロマ人はすべて同時に連行され、他の収容者から見えるような鉄条網が張られた場所に収容され、数ヶ月以内にすべて殺害された。したがって、ロマの犠牲者の推定はより具体的で、最大2万人(Riffer, p. 155)から4万5千人(Berger, p. 67)である[194]。リファーも他の推定がより困難である理由について言及している-多くの犠牲者が収容所に入る前に殺されたので登録されなかったし、さらにウスタシェが犯罪を隠すために収容所記録を焼いからである、と。

 反共産主義者、反ユーゴスラビアの政治亡命者で、元ヤセノヴァツ収容者のアンテ・チリガ(Ante Ciliga )は、ヤセノヴァツを「入ったとたんに殺される者と、時間をかけて殺される者」という唯一の目的を持った「巨大な機械」だと表現している。 [204] 彼はグラディナを主な殺害場所として特定し、「我々の三途の川であり-川を渡ってグラディナに足を踏み入れた者は、生きている者のところに戻ることはできなかった」[205]と述べており、彼はまた、ヤセノヴァツⅢ-C副収容所の収容者の余命は2週間だったと述べ[206]、副収容所を脱出しようとしたロマ人の大量処刑を目撃したことについて述べている。彼と他の収容者は、ヤセノヴァツの占有率が3,000人から5,000人に保たれており、その数を超えて収容所に連れてこられた者はすべて殺され続けていたと述べている[207]。チリガと他の者は、収容所での共食い、すなわち極度の飢餓のために収容者が死んだ仲間を食べること、について言及している。[208]。


4.2 ユーゴスラビアとクロアチアの公的推定値

 戦後のユーゴスラビアとその後の独立したクロアチアとセルビアでは、ヤセノヴァツの犠牲者の見積もりは、当初は誇張された見積もりで、後に犠牲者数の最小化とウスタシェの犯罪の否定という激しい思想戦の主題となった[209]。

 ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito)率いるユーゴスラビア新政府が委託した占領軍とその協力者の犯罪調査のためのクロアチア国家委員会の1945年11月5日の報告書は、ヤセノヴァツで50万から60万人が殺害されたと指摘している。この報告書は、一般的な近似値とともに生存者の証言に基づいていたため、方法論的な欠点があった[210]。これらの数字は、1990年の『ホロコースト百科事典』において研究者のイスラエル・グットマン(Israel Gutman)とメナケム・シェラック(Menachem Shelach)によって引用されている[211]。シェラックは、約30万人の遺体が発見・発掘されたと書いている[212]。サイモン・ウィーゼンタール・センターの寛容博物館(The Simon Wiesenthal Center's Museumof Tolerance)もある時点で同じ数字を採用している。[213].

 1964年、ユーゴスラビア連邦統計局は597,323名の第二次世界大戦犠牲者リストを作成し、不足分は20~30%と推定され、犠牲者は75万人から78万人の間とされた。20万人の「協力者と裏切り者(売国奴)」[明確化が必要]が殺されたという推定と合わせると、その数は約100万人に達するだろう。1964年の犠牲者国勢調査によれば、ヤセノヴァツで49,874人、スタラ・グラディシュカで9,587人、グラディナで128人、合計で59,589人が殺害された[215]。調査結果では、ヤセノヴァツで死亡した59,188人ははるかに低く、そのうちセルビア人として記録されたのは33,944人だった[14]。

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 『Vojna enciklopedija(戦争百科事典)』第2版(1972年)は、国家犯罪委員会の数字を再現し、1943年までにヤセノヴァツで60万人の犠牲者を出した[216]と改めて記載した。1983年8月にパルチザンのヴェリミール・テルジッチ将軍(General Velimir Terzić)は、最新のデータによれば、少なくとも100万のセルビア人がヤセノヴァツで殺されたと主張している。小説家のミラン・D・ミレティッチ(Milan D. Miletić:1923~2003)はその数を100万人以上と推測している[216]。文書資料や収容者や収容所職員からの情報、公式の戦争犯罪委員会からの情報に基づき、記録家のアントゥン・ミレティッチ(Antun Miletić) は60~70万人の犠牲者でそのほとんどがセルビア人という推定を資料から引用している[217]。

 ユーゴスラビアで出版された1970年代の高校の歴史教科書を分析すると、どの教科書もウスタシェの犯罪について1から2段落程度を割いているが、当時の共和国間で被害者の推定にかなりの差があることがわかった。したがって、1970年代の主要なクロアチアの歴史教科書はヤセノヴァツの犠牲者を最も低く見積もり(数千人)、セルビアの教科書は「数十万人」と書き、ボスニアの教科書は80万人の犠牲者と記載していた[218]。

 1980年代から1990年代初頭にかけて、70万人から120万人の犠牲者がSANU覚書プログラムの一環として、またスロボダン・ミロセヴィチ(Slobodan ilosević)政策の一環として、多くのセルビアの出版物で強調された[219]。

※注)SANU覚書
 セルビア科学芸術アカデミーの覚書、通称SANU覚書は、セルビア科学芸術アカデミーによって1985年から1986年にかけて作成された草案文書。1986年9月、草案は漏洩し公の知れるところとなった。この覚書はただちにユーゴスラビア全土に知れ渡るところとなった。それは、この文書が民族国家に関して物議をかもす論点を表明し、セルビア人民族主義による議論を展開していたためである。


 1982年の著書において、フランヨ・トゥジマン(Franjo Tuđman、後のクロア
チア大統領)は1964年の調査を意図的に誤って解釈し、NDHの全ての収容所で6
万人が死亡したと主張している[220]。ヤセノヴァツについて、トゥジマンは何の
証拠も提示せずに3万から4万人の犠牲者を主張し、さらにセルビア人の犠牲者
を最小化してロマ人とユダヤ人に続く3番目に位置づけている[221]。ユーゴス
ラビア崩壊の間、クロアチア側は公に犠牲者の数が大幅に少ないということを示
唆し始めていた[222]。

 1991年、クロアチア新政府は戦争・戦後犠牲者決定委員会を設立し、その最終
報告書において、ヤセノヴァツの犠牲者は2,238人、クロアチア全体のユダヤ人
犠牲者は293人に過ぎないとした[223]。後に委員会の代表で元憲法裁判所判事の
ヴィセ・ヴコジェヴィッチ(Vice Vukojević)は、「ヤセノヴァッチ収容所は
ユダヤ人が運営しており、(NDH)国は警備員を提供しただけ」と主張した[224]。

 クロアチア独立戦争終結後、クロアチア政府が主催する博物館機関であるヤセ
ノヴァツ記念館は[225][226][227]、現在の研究では犠牲者の数を8万から10万
人と推定していると述べている。[182] 他方、クロアチアにおける修正主義者の
努力は、ヤセノヴァツの犠牲者数を大幅に最小化し、あるいはユダヤ人、セルビ
ア人、ロマ人の大量殺害の場所であったことを完全に否定し、代わりにヤセノヴァ
ツは単なる「労働キャンプ」であると主張して続けている[228][229][230] 批判
者は、これらの修正主義者の努力がクロアチアカトリック教会、国家メディア、
いくつかの政治家から支持を得て、国家資金さえ得ていることを指摘する
[229][230][231][232]。

 1946年からの占領軍とその協力者の犯罪を調査するクロアチア国家委員会は、次のように結論付けている。

 このような先入観に基づく非人道的な拷問と虐殺のやり方は、歴史に  記録されたことがない。ウスタシェの犯罪者たちは、ドイツの主人の模範に正確に従い、最も意識的にその命令のすべてを実行し、可能な限り多くのわが民族を絶滅させ、彼らのために可能な限り大きな生活空間を作り出すという一つの目標のためにそれを実行したのである。
 ウスタシェによるドイツ人主人への完全な依存、収容所そのものの創設、「不忠者」の派遣、ヒトラーの人種差別的ナチス理論の残酷な実行と人種的・民族的に「不純」な者の収容所への追放と絶滅、同じ手法の拷問と残虐行為にウスタシェによる残虐行為の細かいバリエーションが加わっている。炉の建設と炉での犠牲者の焼却(ピチリ炉)-すべての証拠が、ヤセノヴァツとそこで行なわれた犯罪は、ドイツのヒトラー派の命令とその召使であるウスターゼによる実行によって、ドイツのやり方に基づいて作られたと結論付けている。したがって、ヤセノヴァツの犯罪の責任は、ドイツ人の主人とウスタシェの実行者に等しくあるのである[233]。



4.3 法医学的調査

1946年、スタラ・グラディシュカ収容所の967人の犠牲者(男性311人、女性467人、子供189人)が、ウスコチュケ・シュメ(Uskočke šume)の4つの集団墓地から掘り出された[157]。遺体は後にスタラ・グラディシュカの共同墓地に埋葬され、特定された犠牲者は出身地(主にシルミア(Srijem/Srem)地域)に戻された。メジェストロゴヴィ(Međustrogovi)の森には、さらに約1,000人の犠牲者が、一つの巨大な集団墓地に埋葬されている。これらの犠牲者は裸で絡み合ったまま穴に投げ込まれ、遺体の状態や位置のために掘り起こして確認することは不可能であった[157]。

 1961年11月16日、ボサンスカ・ドゥビツァ(Bosanska Dubica)の元パルチザンの自治体委員会は、法医学の専門家ではない地元の人々が中心となって、ドニャ・グラディナ(Donja Gradina)の敷地で非公式の調査を実施した。この調査で3つの集団墓地が発見され、そのうちの1つから17体の人間の頭蓋骨が確認された。これを受けて、科学者たちが現場を検証するために呼ばれた。AlojzŠercelj博士が最も可能性の高い墓の位置を特定するための予備掘削を開始し、1964年6月22日から27日にかけて、リュブリャナ大学(Ljubljana University)のVida BrodarとAnton Pogačnik、ノヴィ・サド大学(Novi Sad University)のSrboljub Živanovićがヤセノバツで遺体の発掘とサンプリング法調査が実施された。

 ウスタシェや、戦争終結前にその犯罪を隠すために死体を大量に焼いたという数少ない生存者の証言と一致して、科学者たちはいくつかの場所で灰と骨の焼けた跡だけを発見した。[197][198] また、彼らは合計7つの集団墓を発見し、そこには合計284人の犠牲者の遺体があり、そのうちの1つの集団墓には197人の死
体が発見され、そのうち51人は14歳以下の子供で、123人は女性だった[197][198] これらの死体の多く、特に子供のものには砕けた頭蓋骨があった。科学者たちは、ヤセノヴァツの施設群全体には約200の同様の場所がある可能性があると結論づけた[234]。

 ヤセノヴァツ記念地区では、現在までに160以上の集団墓地が発見されており、のうち105の集団墓地はグラディナで発見され、総面積は10,130 m²であった[154]。さらに22の集団墓地が同じ場所で発見されており、ロマ人とセルビア人の女性と子供のための収容所があったウスチカ(Uštica)ではさらに21の集団[156] クラピエ(Krapje)ではさらに3つの集団墓地が発見され、ほとんどユダヤ人の犠牲者が埋葬された。[159] 主にセルビア人の女性と子供が拘束され殺害されたヤブラナク(Jablanac)とムラカ(Mlaka)のサイトでは、5つの集団墓地が発見された。[161] さらにウスコチュケ・シュメ(Uskočke šume)では、4つの集団墓地が発見され、947体の遺体が掘り出され、Međustrogoviでは約1000体の遺体がある大規模な集団墓地が発見された。[157]

 1985年10月、ウラジミール・デディジェ(Vladimir Dedijer)をリーダーとするセルビア科学芸術アカデミーの調査団(Serbian Academy of Sciences and Arts)がヤセノヴァツを訪れ記録を作成したが、その中で記録者のアントゥン・ミレティッチ(Antun Miletić)が1961年の発掘に言及したが、それが確認した犠牲者の数は550,800人と誤記した。また、1964年の発掘についても言及し、グラディナには366,000人の犠牲者の遺骨があると推定しているが、それ以上の説明はない[234]。

 ユーゴスラビア崩壊前の1989年、セルビアの人類学者スルボルジュブ・ジヴァノヴィッチ(Srboljub Živanović)が1964年の研究の全結果を発表したが、彼の言葉によれば「兄弟愛と統一の名の下にチトー政権によって、クロアチアのウスタシュの犯罪に重きを置かないように圧力を受けた」 [235][236]という。

 1989年11月、ジヴァノヴィッチ(Živanović)はテレビで、自分たちの調査の結果、犠牲者の数は50万人以上であり、70万人から80万人の推定が現実的であると主張し、すべての集団墓地に800体の骸骨があると述べた。[234] ヴィダ・ブロダル(Vida Brodar)はその発言についてコメントし、調査の結果、犠牲者の数は決して明らかにならず、これらの数はジヴァノヴィッチの操作であり、裏付けとして調査記録のコピーを提供したと述べた。クロアチアの歴史家であるゼリコ・クルセリ(Željko Krušelj)は、この件でジヴァノヴィッチを公に批判し、詐欺師とレッテルを貼った[234]。


4.4 犠牲者リスト

・ヤセノヴァツ記念地区では、セルビア人47,627人、ロマ人16,173人、ユダヤ人13,116人、クロアチア人4,255人、ボスニアのイスラム教徒1,128人、スロベニア人266人を含むヤセノヴァツ犠牲者の名前リスト(2013年3月まで収集)を管理している。83,145人の犠牲者のうち、20,101人が14歳未満の子供で、23,474人が女性である[94]。この記念館は、死者の総数を80,000から100,000人と推定している[182]。このリストは更新することがあり、2007年には69,842件のリストがあった[237]。・ベオグラードの軍事公文書館の研究者であるアントン・ミレチッチ(Antun Miletić)は、1979年からヤセノヴァツに関するデータを収集している[238]。 彼のリストには77,200人の犠牲者の名前があり、その内41,936人がセルビア人である。[238]

・1997年、ベオグラードのジェノサイド犠牲者博物館は、ヤセノバツでのユダヤ人犠牲者10,521人をフルネームで確認した[239]。

・1998年、ボスニアック研究所はSFRユーゴスラビアによるヤセノヴァツ収容所の戦争犠牲者の最終リスト(1992年に作成)を発表した[240]。 このリストにはヤセノヴァツの犠牲者49,602人の名前があり、セルビア人26,170人、ユダヤ人8,121人、クロアチア人5,900人、ロマニ1,471人、ボスニアのムスリム787人、民族の特定できない6,792人と単に「その他」と記載されていた者が含まれる[240]。

・1998年、クロアチア国立公文書館は、国家戦争犯罪委員会の一部生データを含むノートが発見されたという発表を行い、そこにはクロアチア人民共和国領からのヤセノヴァツ犠牲者の数は15,792人、年別犠牲者は次のように記されていた。1941年2,891人、1942年8,935人、1943年676人、1944年2,167人、1945年1,123人である。この手帳は、特にヤセノヴァツの記録が不完全であると一般的に言われていたが、この手帳で言及されている他のすべての犠牲者の数が国家委員会によって公開された他の文書からのものと一致していたため、当該数字は信憑性があると考えられていた[241]。

・ウラジミール・ジェリヤヴィッチ(Vladimir Žerjavić)によると、殺された人数は約85,000人で、それぞれセルビア人50,000人、ユダヤ人13,000人、クロアチア人10,000人、ロマニ人10,000人、ムスリム2,000人となっている[242]。


4.5 ホロコースト関連機関の推計

米国ホロコースト記念館は、ウスタシェが1941年から1945年の間にヤセノヴァツで殺害したのは、「いわゆるクロアチア独立国のセルビア人住民4万5000人から5万2000人、ユダヤ人1万2000人から2万人、ロマ(ジプシー)1万5000人から2万人、政権に政敵だったクロアチア民族とムスリム5000人から12000人」[2]と推定している。


4.6 統計的推計

 1980年代、セルビアの統計学者ボゴルジュブ・コチョヴィッチ(Bogoljub Kočović)とクロアチアの経済学者ウラジミール・ジェリヤヴィッチ(VladimirŽerjavić)が計算し、ユーゴスラビアにおける犠牲者の総数を当時の公式推計である170万人に満たないと主張したが、いずれも犠牲者の数は約100万人と結論付けている。コョヴィッチは、そのうちの37万人から41万人のセルビア人がクロアチア独立国で死亡し、そのうち45,000~52,000人がヤセノヴァツで死亡したと推定した[75][243]。ジェリヤヴィッチは、NDHで322,000人のセルビア人が死亡し、そのうち5万人がヤセノヴァツで殺された[245]と推定した。 [14]コチョビッチとジェリャビッチの両者は、ジャセノヴァツでの総死亡者数を83,000人と推定している[246]。ジェリャビッチの数字にはセルビア人の他にユダヤ人、ロマ人、クロアチア人とボスニアのイスラム教徒が含まれている[244]。彼の数字によれば、13,000人のユダヤ人が、約10,000人のクロアチア人、10,000人のロマ人とともに、収容所で死亡した[247]。

 ジェルジャヴィッチの研究は、ベオグラードの軍事公文書館長であるアントゥン・ミレティッチ(Antun Miletić)によって批判され、1997年にヤのセノヴァツに関する数字は110万であると主張した。また、ジェルジャヴィッチ(Žerjavić)氏を批判したミラン・ブラジッチ氏(Dr Milan Bulajić:ベオグラードのジェノサイド犠牲者博物館元館長)は、70万から100万の範囲であると主張している。ブラジッチが退任した後、博物館の研究員でありクロアチア人の共著者であるドラガン・ツェトコヴィッチ(Dragan Cvetković)が戦時中の犠牲者に関する本を出版し、ヤセノヴァツでの犠牲者を約10万人とした[14]。 10万という数字は典型的な概算として用いられる[248][249][250]。ユダヤ系クロアチア人の歴史家であるイヴォ・ゴールドスタインも、83,811人の犠牲者リストに言及しながら、「10-20%はまだ行方不明かもしれない」と付け加え、現在も調査が行われているとして、その概算を挙げている[251]。


5.メモリアル・サイト(記念の場所)


ボグダン・ボグダノビッチによるヤセノバツ記念碑。
Source:Wikimedia Common

 第二次世界大戦後のユーゴスラビアでは、民間人の犠牲者ではなくパルチザンの抵抗を記念することに重点が置かれていた。[252] 当局は、ナチスとファシストの占領者を主犯格として提示しようとし、国内の売国奴(裏切り者)たちは副主犯格でしかないとした。[253] 「兄弟愛と統一」の名の下に、ウスタシェやチェトニク(注:第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。)の犠牲者の民族性は強調されなかった[252][253]。 ヤセノヴァツの犠牲者の高い推定値は凍結されたが、ゴールドスタイン(Goldstein)は、リファー、ミリシャ、チリガ、フォン・ホルステンナウ、ディアナ・ブディスヴァルジェヴィ(Riffer, Miliša, Ciliga, Von Horstenau and Diana Budisavljević)のヤセノヴァツ関連の回想録といった特定の詳細はほとんど発
表されなかったと述べている[253]。

 ヤセノヴァツ記念館は、1960年にユーゴスラビア戦争帰還兵組織連盟の主導で設立された。その中心的なシンボルは、ボグダン・ボグダノヴィッチ(Bogdan Bogdanovic)
によって設計された「永遠の再生の証」である花の記念碑であり[254]、クロアチアの詩人・パルチザン、イヴァン・ゴラン・コヴァ(Ivan Goran Kovačić)の反戦詩「The Pit(穴)」の一節を刻んだプレートである: [255] [256] 。

あの素朴な幸せ、窓の輝き。
燕と若葉、あるいは風の吹く庭の甘い香り......
どこ?- 揺りかごが眠たそうに傾いているのは?
それとも敷居のそば、足元の陽だまり?

 The Pit, Ivan Goran Kovacic (英語全編)
 https://allpoetry.com/The-Pit


ウスタシェの死の強制収容所の再現、バンジャ・ルカの博物館での展示。
Source:Wikimedia Common CC BY-SA 4.0, Link


 1968年、犠牲者に焦点を当てた展示を行う博物館がメモリアルサイトに加えられた[257]。クロアチア社会主義共和国は、同国初の民主的選挙の直前、1990年にヤセノヴァツ記念サイトに関する新しい法律を採択した[258]。

 その年、クロアチアの大統領にフランヨ・トゥッジマン(Franjo Tuđman)が選出されると、強制収容所の歴史に対する修正主義者の見解が目立つようになった。記念館の地位は自然公園に格下げされ、資金援助も打ち切られた。1991年6月、クロアチアが独立を宣言し、ユーゴスラビア連邦から脱退すると、記念館は2つの国にまたがってしまった。ドニャ・グラディナ(Donja Gradina)の敷地は、当時まだユーゴスラビアの一部であったボスニア・ヘルツェゴビナに属することになった[259]。


恐怖のポプラ
Source:Wikimedia Common Serbian Wikipedia
, CC BY-SA 4.0, Link

 ウスタシェがセルビア人、ユダヤ人、ジプシーを吊るして虐殺した恐怖の木。ここは、ヤセノヴァツ強制収容所の南にあるドニャ・グラディナ絶滅収容所の一部だった。現在もその痕跡(くさび、首吊り用の穴)が残っている。1978年に落雷が当たり、木は破壊され、現在はドニャ・グラディナ記念収容所の一部となっている。 

 ヤセノヴァツ記念館の副館長シモ・ブルダール(Simo Brdar)は、民族主義者が支配するクロアチア当局が強制収容所の遺物や資料を保存することに疑問を抱いていた。1991年8月、彼は資料の一部をボスニア・ヘルツェゴビナに運んだ。ユーゴスラビア戦争が展開される中、クロアチア軍は1991年9月、記念碑とその博物館を破壊し、荒廃させ、略奪を行った。クロアチア軍は1ヵ月後、ユーゴスラビア人民軍によってヤセノヴァツから追い出された。彼は収集した資料が、スルプスカ共和国の公文書館に収容された1999年まで補完していた。[259][260][261] しかしこの説明は、10月8日にセルビア・クラジナ共和国軍がヤセノヴァツに進駐した後、準軍事隊によって記念博物館が荒廃し、この場所のアーカイブ、博物館、文書資料が破壊されず保存され、後に1997年4月にベオグラードで行われた博物館の展示で使用されたと言うクロアチア側の資料によって異論が唱えられる[262][263]。

 1996年、フランヨ・トゥッジマン(Franjo Tuđman)大統領はウスタシェの遺体をヤセノヴァツに移す計画を発表したが、アメリカ、イスラエル、国際ユダヤ人社会、クロアチアの左派から抗議を受け、この計画は断念された[264][265][266]。

 2000年末、スルプスカ共和国(Republika Srpska)政府との合意により、コレクションはアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館(USHMM)に移管された。その1年後、USHMMはコレクションをクロアチアに移送し、ヤセノヴァツ記念館に寄贈した[259]。2003年にイスラエルのモシェ・カツァフ(Moshe Katsav)大統領がヤセノヴァツを訪問し、イスラエルの国家元首としては初めて公式に訪問した。

 2004年、毎年開催されるヤセノヴァツ記念式典で、クロアチア当局は記念施設の新しい計画を発表し、博物館のコンセプトと内容の一部を変更した。記念館の館長であるナタシャ・ヨビッチ(Nataša Joviči)は、恐怖心を煽らないよう常設展示を変更し、「死の技術」(木槌や短刀など)の展示をやめ、むしろ元囚人たちの個人的な話を中心にした展示にすると説明した。当時クロアチアのドイツ大使であったゲブハルト・ヴァイスは「恐怖の支配の露骨な写真の回避」に対して懐疑的な態度を示している[267]。

 ニューヨーク市公園局、ホロコースト公園委員会、ヤセノヴァツ研究所は、元米国下院議員アンソニー・ウィーナー(Anthony Weiner,民主党)の協力を得て、2005年4月(収容所解放60周年)にヤセノヴァツの犠牲者のための公的記念碑を設立した。献堂式には、ユーゴスラビアのホロコースト生還者10人をはじめ、セルビア、ボスニア、イスラエルの外交官が出席した。現在も、バルカン半島以外で唯一の犠牲者の記念碑となっている。毎年4月には、恒例の記念式典が開催されている[268]。

 2006年11月、ヤセノヴァツ記念館は、クロアチア人建築家Helena Paver Njirićの設計による新しい展示と、Produkcija社の設計による教育センターで再オープンした。記念館は、ゴムで覆われたスチール製のモジュール、ビデオとプロジェクションスクリーン、収容所の遺物を展示したガラスケースで構成されている。暗い展示室の上には、犠牲者の名前が刻まれたガラスパネルが設置されている。ニジリッチはこの美術館の制作で2006年のザグレブ建築サロンの一等賞を受賞した[237]。

 しかし、この新しい展示は、エフレイム・ズロフ(Efraim Zuroff)によって「ポストモダニズムのゴミ」と評され、ウスタシェの殺害道具がすべて展示から外され、クロアチア国民の名においてそこで行われた犯罪に至ったイデオロギーについて説明がないとして批判を受けた[237]。

 イスラエルのシモン・ペレス(Shimon Peres)大統領は2010年7月25日にヤセノヴァツを訪れ、「まったくのサディズムのデモンストレーション」と評した[269]。

 2011年4月17日、クロアチアの元大統領イヴォ・ヨシポヴィッチ(IvoJosipović)は記念式典で、「ヤセノヴァツの犠牲者の数を大幅に減らそうとする試みがある...クロアチア国民のあるメンバーが最も残酷な犯罪を犯す能力があったという破壊的事実に直面して、私は我々全員が物事の責任を負うと言いたい」と警告した。同じ式典で、当時のクロアチア首相ヤドランカ・コソル(Jadranka Kosor)は、「犯罪に弁解の余地はなく、したがってクロアチア政府は、歴史修正主義やファシスト思想の復活、あらゆる形態の全体主義、過激主義、急進主義のあらゆる試みを断固拒否し非難する......パヴェリッチ政権は悪、憎悪、不寛容の政権であり、そこでは人種、宗教、国籍、政治的信条、そして他者であり異なるという理由で人々が虐待され殺された。」[270]と述べている。

 2020年、アメリカ国務省はホロコーストの生存者のための正義への取り組みを調査したJUST法報告書を発行した[271]。 報告書は、ヤセノヴァツ記念サイトと博物館の情報は「犠牲者に適切に焦点を合わせているが、常設展示は、ホロコーストにおけるクロアチアの役割、NDHの形成と大衆の支持、クロアチア国内で行われた犯罪の全容に関する情報など必要な歴史的・文化的文脈が著しく欠けている」[272]と述べている。


6.論争

 1986年、セルビア科学芸術アカデミーの代表団の訪問を受け、美術館の新しい展示が指示された。「死者が生者の目を開く」と題した巡回展に伴い、死体や暴力が露骨に描写された大型写真が展示された。この展覧会はJNAの兵舎に運ばれ、1990年代初頭のセルビア兵に見せられた。ある写真の説明にはこう書かれていた。
「彼らは飼い葉桶の中の子供たちを殺し、ナイフ、斧、かみそりで屠り、銃剣に突き刺し、ヤセノヴァツの火葬場で焼き、大鍋でスープを炊いた」。(これらは)教育的であるどころか、プロパガンダの道具として機能したと学者ナタシャ・ヨヴィチ(Nataša Jovičić)が書いている[188]。

 ユダヤ人やセルビア人の組織、クロアチアの歴史家、反ファシスト、そして国際的なオブザーバーは、クロアチアにおける修正主義やホロコースト否定について繰り返し警告してきた。[273]最近の例としては、ヤセノヴァツ強制収容所を含むすべてのウスタシェ強制収容所の長として10万人以上の死者を出したマクス・ルブリック[274]を讃える本「クロアチアの騎士」の出版[274]や、ウスタシェ強制収容所での子供の死を最小限に抑えるドキュメンタリーなどがある。[275]ルブリッチの本はクロアチア・カトリック教会の援助を受けて宣伝され[274]、教会の情報源は強制収容所での子どもの死を最小限に抑えていた。

 クロアチアの歴史家たちは、教会が修正主義を推進し、ウスタシュの犯罪を最小化するリーダーであったと指摘している[275]。2013年、クロアチアの主要なカトリック教会新聞であるGlas Koncilaは、ヤセノヴァツ否定派のイゴール・ヴキッチ(Igor Vukić)によるヤセノヴァツに関するシリーズを掲載し[276]、ヤセノヴァツは「単なる労働キャンプ」であり、大量処刑は行われていなかったと主張している。2015年、クロアチア司教協議会の会長は、ウスタシュの「Za dom spremni(故郷のために備えよ!)」という敬礼をクロアチア軍に採用するよう求めた[277]。 2020年、クロアチアカトリック大教区の機関紙『グラス・コンチラ(Glas Koncila)』は、ユダヤ人や他の囚人の引用を選択的に、あからさまに歪めて、またもやヤセノヴァツで大量絶滅が行われなかったとする出版を行い、またしても、チャセノヴァツを否定する、ホロコーストさえ否定する連載を行っている[278]。

注)ザ・ドム――スプレムニ!」(クロアチア語:Za dom - spremni!)
 「故郷のために――備えよ!」という意味で、クロアチアの民族主義者のスローガン。その起源は19世紀にさかのぼり、当時のクロアチア王国の総督(バン)であるヨシップ・イェラチッチ(Josip Jelačić)に対する挨拶であった。しかしながら、第二次世界大戦時にセルビア人などを虐殺したクロアチア独立国のファシスト組織・ウスタシャが、クロアチア版「ジークハイル」としてこのスローガンを使用したことにより、それ以降は人々に嫌悪感を抱かせるような、否定的な意味合いを帯びるようになった。2019年、欧州ストラスブール裁判所はナチスの象徴として合法的に分類した。(Wikipedia)


 歴史家たちは、「三収容所ヤセノヴァツ研究会」のようなヤセノヴァツ否定派の組織に対するクロアチア政府の資金提供を批判している[279]が、その中には「宣伝家」やイゴール・ヴキッチ(Igor Vukić)のような非歴史家も含まれている。ザグレブ大学の歴史家ゴラン・フチネック(Goran Hutinec)は、例えば、ミルコ・リファー(Milko Riffer)のようなヤセノヴァツの生存者の本を、ヤセノヴァツでは大量殺戮が行われなかったという「証拠」として引用しているが、逆に、その本は、ヤセノヴァツでの数千人の獣害や数万人のロマ人の絶滅の目撃談を記述している、と述べている。 [280]クロアチア国営テレビ(HTV)も同様にヤセノヴァツ否定派を番組「Roman Leljak」で無批判に紹介している[281]。

 2016年、クロアチアの退役軍人組織HOSは、ナチスの「ジーク・ハイル」に相当するウスタシェの「Za dom spremni」敬礼[282]のプレートをヤセノヴァツの町に掲示した(ユダヤ人がウスタシェの死の強制収容所に送られたザグレブの中継所に同じ敬礼が掲げられていた)。ユダヤ人、セルビア人、クロアチア人の反ファシスト組織の抗議にもかかわらず、アメリカ国務省のホロコースト問題担当特使の批判[283]によってクロアチア政府が近くの町に移動させられるまで、プレートとウスタシュの敬礼はヤセノヴァツに残されることを許可された。この結果、またウスタシェの犯罪の最小化に対する政府の寛容さの疑惑から、ユダヤ人、セルビア人、クロアチア人の第二次世界大戦の抵抗団体は、毎年のヤセノヴァツ記念式典に政府の代表者と共に出席することを拒否している[284]。

 2016年、映画監督のヤコフ・セドラー(Jakov Sedlar)は修正主義的なドキュメンタリー「ヤノセヴァツの真実:Jasenovac - the Truth」を発表し、ウスタシェ収容所での死者数を最小限に抑え、一方でパルチザンがクロアチア人を殺害したとされる「戦後のヤノセヴァツ」を捏造した[285]。この初日には、文化大臣のズラトコ・ハサンベゴヴィッチなど、与党クロアチア共和国HDZの4人の大臣が出席し、賞賛した[285]。歴史家は、この映画には多くの嘘と捏造が含まれており、捏造された新聞の見出しには、「戦後のヤセノヴァツ」の死体が60マイル以上上流のザグレブに流されたと宣言していることを指摘している。[286][287]イスラエル大使はこの映画を非難し[288]、ザグレブ市長のミラン・バンディチ(Milan Bandič)はユダヤ人団体からの抗議を受けながらセドラー にザグレブ市賞を授与し[289]、ザグレブ大学学長のダミール・ボラス(Damir Boras)はセドラーを文化顧問に任命した[290]。


7. 映画や文学においての扱い

 『リュドロフカ ヤノセヴァツ(Ljudolovka Jasenovac)』という本は、収容所の生存者であり作家でもあるZaim Topčićによって書かれた小説で、1985年に出版されたものである。彼は1943年に収容所に閉じ込められた。Topčićはそこを生き延びた数少ない一人である[291]。

 リメイクは2003年の戦争映画で、ディノ・ムスタフィッチ(Dino Mustafić)監督、ズラトコ・トプチッチ(Zlatko Topčić)脚本によるものである。映画の一部では収容所をテーマにしている[292]。

 収容所の生き残りであるイリヤ・イヴァノヴィッチ(Ilija Ivanović)による『ヤセノヴァツの地獄の目撃者』は2002年に英語版で公開され、収容所に強制送還された8歳の少年として、また収容所からの脱出を生き延びた数少ない一人としての著者の体験を語っている[293]。

 『ヤセノヴァツでの44ヶ月(44 Months in Jasenovac)』は、収容所の生存者でるエゴン・ベルガー(Egon Berger)が書いた本で、1966年にセルボ・クロアチア語で、2016年に英語で出版された[203]。ベルガーによると、1942年6月から11月まで25万人の人々が殺されたとのことである。

 映画『ヤセノヴァツのダラ(Dara of Jasenovac)』はプレドラグ・アントニェヴィッチ(Predrag Antonijević)監督の歴史ドラマで、2020年の公開日は収容所解放の75周年と重なった。ヤセノヴァツに関する初の現代ホロコースト映画であり、マルコ・ヤンケティッチ(Marko Janketić)が司令官ルブリッチ役、ヴク・コスティッチ (Vuk Kostić)がフィリポヴィッチ「マジェストロヴィッチ」
役を演じる[294]。


8. 以下の関連資料を参照のこと

・Yugoslav pursuit of Nazi collaborators
・The Holocaust
・Jadovno concentration camp
・Kaiser Wilhelm Institute of Anthropology, Human Heredity, and Eugenics
・List of Nazi-German concentration camps
・Research Materials: Max Planck Society Archive
・Sisak children's concentration camp
・Stara Gradiška concentration camp
・World War II casualties


脚注

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Compare with Schwartz, pp. 299?303, 332

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外部リンク
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Holocaust Encyclopedia: Jasenovac, hosted at USHMM

US Holocaust Memorial Museum: Jasenovac

Concentration camp Jasenovac, Archives of Republika Srpska

Jasenovac Committee of the Holy Assembly of Bishops of the Serbian Orthodox

教会
Eichmann Trial ? Alexander Arnon testimony

Unscrambling the History of a Nazi Camp, The New York Times, 6 December 2006

New expanded Jasenovac Memorial opened

Spomenik Database - Monument at Jasenovac educational & historical resource

出典:Wikipediaクロアチア語→英語→日本語翻訳


欧州におけるナチスドイツの強制収容所。ユーゴスラヴィアの北側にヤセノヴァツ強制収容所がある。
Source:Wikimedia Commonss
I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, リンクによる

ックロアチアにおけるヤセノヴァツァ強制収容所の位置
首都ザグレブの南東、ボスニアとの国境線近くにある
出典;Google Map
Plan of Jasenovac main camp  ヤセノヴァク収容所の施設配置図
出典:出典・Source:Wikimedia Commons
Goran tek-en, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ヤセノヴァツ強制収容所の位置
出典:Source:Wikimedia Commons
Jasenovac camp complex [in Serbian]  
ヤセノヴァイウ収容所施設群(セルビア内)
出典:出典・Source:Wikimedia Commons
Goran tek-en, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ヤセノヴァク強制収容所への死の列車
出典・Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Ссылка
強制送還のために集められたセルビア人とジプシーは、コザラとジャセノバックの強制収容所に運ばれた。出典・Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる
ヤセノヴァック収容所でウスタシャ(クロアチアのファシスト集団)によって処刑
された囚人の遺体
出典・Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

Iアメリカのホロコースト記念博物館からの画像情報写真#85799概要:セルビア人とジプシーは、帰国のために集められ、ウスタシャの警備員の下にあるヤノヴァック強制収容所に運ばれた。日付:1942年 - 1943年 場所:[クロアチア]ユーゴスラビア提供:

注追記:ウスタシャとは
クロアチアのファシスト集団。「反逆者」の意味。1928年からイタリアに移住したクロアチア人政治家パベリチAnte Paveli(1889―1959)が、イタリア・ファシストの援助を受けて組織した。彼は、1941年にドイツをはじめとする枢軸軍がユーゴスラビアに侵入すると国内に戻り、枢軸軍の傀儡(かいらい)政権である「クロアチア独立国」の指導者として、セルビア人やユダヤ人の虐殺を行った。国家の権利に基づくクロアチアの独立を唱えるウスタシャの思想的な起源は、1895年にクロアチア人フランクJosip Frank(1844―1911)が創設した純粋権利党のイデオロギーにあるとされている。その後も旧ユーゴ国外で、クロアチアの分離、独立を掲げるウスタシャの動きがみられた。1991年6月にクロアチアが独立すると、ウスタシャ評価の見直しが図られ、ファシスト集団という一面的な評価から、愛国主義者集団としての側面が強調されるようになった。
出典・Source:Wikimedia Commonsパブリック・ドメイン, リンクによる

ウスタサはセルビア人(ボサンクサ・グラディシュカ近郊の村グラボヴァツ出身の
ブランコ・ユギッチ)の男の頭を見送った。ソーは今日、レプブリカ・スルプスカ州
バニャ・ルカの博物館の一部です。
出典・Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる


ヤセノヴァク強制収容所近くの集団墓地で人々を処刑するウスタシェ民兵
出典・Source:Wikimedia Commons  Domena publiczna, Link


"セルブカッター"(セルビア式ナイフ)は、特にナチスに操られていたクロアチア独立国のヤノセヴァク強制収容所において、ウスタシャが囚人の迅速な虐殺のために身につけていた特別なナイフである。
出典・Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる

ヤノセヴァク強制収容所のウスタシャ警備員たち。
出典・Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンクによる
ヤノセヴァク強制収容所の犠牲者数を示す表示板。
出典・Source:Wikimedia Commons CC BY 4.0, קישור
Monument to Jasenovac concentration and extermination camp.
出典・Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0, Lien
以下は関連論稿
◆大虐殺 忘れ去られた第二次世界大戦の大虐殺 クロアチア・ナチス同盟はたった1日で、3つの村と鉱山で2,300人以上のセルビア人市民を、発砲することなく殺害した RT
The Great Slaughter: A forgotten genocide of WWIIIn just one day, Croatian Nazi allies killedmore than 2,300 Serb civilians in three villages and a mine, without firing a shot RT