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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所(概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018  updated August 31, 2020
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ルンブラ大虐殺(Rumbula: ラトヴィア  地図
ラトヴィア> サラスピルス  カイザーヴァルト   リガ・ゲットー
ダウガフピルス・ゲットー  ルンブラ大虐殺   個別収容所詳細ヘ
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 本稿はRumbula massacre - Wikipediaを全編池田こみちが翻訳したものである。理解を促すため、いくつかの注をつけている。

概要

 ルンブラ大虐殺は、ホロコーストの期間中、ラトヴィアのリガに近いルンブラの森に行く途中または森の中で、約25,000人のユダヤ人が殺害された二日間(1941年11月30日と12月8日)の事件の総称である。

※ 英  Rumbula Massacres
   独  Rumbula Massakers 
   ラトヴィア Rumbulas slaktila
   波 Masakra Rumbula
   日 ルンブラ大虐殺

 ウクライナのバビ・ヤール(Babi Yar)大虐殺を除き、ルンブラの大虐殺は、絶滅収容所の稼働前までの2日間における過去最大のホロコースト残虐行為であった。犠牲者の約2万4千人は、リガ・ゲットーからのラトヴィアのユダヤ人、また約1,000人は列車で森に運ばれたドイツのユダヤ人であり、合わせて約25,000人となる。

 ルンブラの大虐殺は、アライス・コマンド(Arajs Kommando)の地元協力者と他のラトヴィアの助けを借りたナチのアインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)Aによって実行された。

 注)アインザッツグルッペン(独:Einsatzgruppen)
  アインザッツグルッペンは、ドイツの保安警察 (SiPo) と保安部 (SD) が
  ドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺するた
  めに組織した部隊である[1]。アインザッツグルッペンは複数表記で、単
  数形はアインザッツグルッペ(Einsatzgruppe)となり、直訳すると「出動集
  団」である。正式名称は「保安警察及び保安部のアインザッツグルッペン」
  (Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes)とい
  う[2][3]。ここでは「アインザッツグルッペン」と表記するが、意訳で「特別
  行動部隊[4]」「特別任務部隊」という表記もよく見られる[3][5]。それ以外
  には「移動虐殺(もしくは殺人・抹殺・殺戮)部隊」といった意訳も見られる
  [3][6]。


 以前(ルンブラの森大虐殺)、ウクライナで同様の虐殺を監督したHohererSSとPolizeifuhrerFriedrich Jeckelnが実施を担当し、 後にWannsee会議に参加したルドルフ・ランゲ(Rudolf Lange)も、大虐殺の組織化に参加していた。

 注)アライス・コマンド(Arajs Kommando)
  SSの指揮官と協力者Viktors Arjsが率いるアライス・コマンド(Arajs
  Kommando)は、ドイツのSicherheitsdienst(SD)に属するラトヴィアの
  補助警察(German:Lettische Hilfspolizei)の部隊を意味する。 それ
  はホロコーストにあって悪名高い殺害部隊であった。


 ラトヴィアのヘルベルト・ククールに対する非難のいくつかは、アライス・コマンドによるリガ・ゲットーの清算に関連している。ルンブラの殺害は、他の多くの人々とともに、第二次世界大戦後におけるインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)の司令官らの多くが、「人道に対する罪」で有罪判決を受けた後の裁判の基礎となった。

命名

 ルンブラの森大虐殺は「ビッグ・アクション」や「ルムブラ・アクション」など、さまざまな名前で知られているが、ラトヴィアでは単に「ルンブラ」または「ランブル」と呼ばれている。文字通り英語の「行動」や「操作」と翻訳された「Aktion」という言葉は、ナチスによって殺人の婉曲表現として使われた言葉だった[5]。

 ルンブラにとって、公式の婉曲表現は「射殺行為」(Erschiessungsaktion)に他ならなかった[6]。ニュルンベルク軍事裁判の前に開かれた移動虐殺部隊(アインザッツグルッペン:Einsatzgruppen)裁判では、この事件について、まだ名称が与えられておらず、単に、1941年11月30日の「10,600人のユダヤ人の殺人」と記載された [2]。

位置

 ルンブラ(Rumbula)は、ラトヴィアの主要都市で、首都リガの南12キロ(7.5マイル)に位置しており、ラトヴィアの第二の都市ダウガフピルス(Daugavpils)と、ダウガヴァ川の北側に沿って走る鉄道で結ばれたの小さな鉄道駅のある町だった [7]。駅から約250メートル(820フィート)の丘に位置している虐殺の場所は「どちらかというと、開けた行きやすい場所」だった[8]。視界は植生によって遮られてはいたが、銃撃の音は駅の敷地から聞こえたと推察される。

 以下は現在のルンブラの位置を示すグーグルマップ群である。青山貞一、池田こみちは、2010年2月の真冬ににバルト三国への現地調査を行っている。現地はいずれもマイナス℃で、降雪があった。


ルンブラの位置。バルト三国、ラトヴィア、リガ近く
  出典:グーグルマップ


ルンブラの位置。リガ市とルンブラの位置関係。近くにはリガ・ゲットーやサラスピルス強制収容所があった。  出典:グーグルマップ


ルンブラの位置。ダウガバ川に接している。
  出典:グーグルマップ


ルンブラの位置  出典:グーグルマップ航空写真

 この地域は、線路とリガ-ダウガフピルス高速道路の路線の間にあり、高速道路の北側に線路が走っていた[7]。ルンブラ(Rumbula)は、ラトヴィア語でヴァールヌ・メス(不気味な森)として知られている森林と沼地の一部で、英語では「烏の森」(クロウ・フォレスト:Crow Forest)を意味している。

 大虐殺による銃火の音は高速道路の方向から聞こえたことと思われる。 [9]ナチス占領当局はルンブラ近郊のダウガヴァ川北岸で数多くの虐殺行為を行った。土地は砂地で、墓を掘るのが簡単だったからである[7]。

 周囲の松の木はまばらだったが、中央に深い森があったので、そこが処刑場となった[7]。鉄道と高速道路があったため、犠牲者をリガから楽に移動(移動手段がなければ、市街地の南東にあるリガゲットーから徒歩圏内に連れていけたはず)だけでなく、殺人者たちと武器も輸送することができた。

ラトヴィアのホロコースト

 ラトヴィアのホロコーストは、1941年6月22日、ドイツ軍がリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト諸国を含むソ連を侵略したときに始まった。バルト三国は、第一次世界大戦後の独立直後はソ連軍に占領されていた。

 ユダヤ人、共産主義者、その他の人々は、ドイツ軍の殺人部隊(アインザッツグルッペンとも言われる)とともに、ドイツ保安警察(Sicherheitspolizei またはSipo)、親衛隊保安部隊警といった他の組織も関わって殺害された。

 最初の殺人は1941年6月23日の夜に、リエパーヤ近くのグロビナの町で、特殊部隊(ゾンダーコマンド)1aのメンバーが教会墓地で6人のユダヤ人を殺害した事件だった[5]。ナチスの占領者たちは、アライス・コマンド(Arajs Kommando)として知られる地元のラトヴィア人部隊の支援を受け、また、多少なりともラトヴィア補助警察の支援も受けていた。[3] [11]

地元住民の関与

 ナチスは、地元のラトヴィア人たちがユダヤ人の殺害に関与しているかのように見せたかった。ナチスはユダヤ人を対象に「虐殺(ポグロム)」と呼ばれる地域内での激しい暴動を巻き起こそうと試みたがあまり成功しなかったが[12]。彼らは、各地に広がっている放火や他の犯罪の原因がユダヤ人だという噂を広め、さらに上官にも同様の報告を行った[13]。

 ナチスが「自浄作戦(Self-cleansing Action)」と呼んだこの扇動政策は、移動虐殺部隊(アインザッツグルッペ) Aの指揮官であり、バルト諸国におけるナチスの殺人についての中心的な人物であったフランツ・ヴァルター・シュターレッカー(Franz Walter Stahlecker)によって失敗と認識された。[14][15]

リガ・ゲットーの創設

 親衛隊保安部(SD)の目標は、ナチスの新語でいう「ユダヤ人のいないラトヴィア( Latviajudenrein)」、翻訳すると「ユダヤ人なし」の状態を作ることであった。 1941年10月15日までに、ナチスはナチス占領が完了するまでに国を逃れられなかった約6万6千人のユダヤ人のうち3万人を殺害した[13]。

 (ドイツの政治家でありナチス党の大管区指導者の一人である)ヒンリッヒ・ローゼ(Hinrich Lohse)は、ユダヤ人を絶滅させず、彼らの全財産を奪い、ゲットーに閉じ込め、ドイツの戦争に使える奴隷労働者として働かせた方が良かったということを、親衛隊の上司であるハインリッヒ・ヒムラー(HeinrichHimmler)ではなく、アルフレッド・ローゼンベルグ(AlfredRosenberg)に伝えていた。

 この官僚たちの紛争のために、1941年9月と10月の殺害ペースは遅くなった。親衛隊はローゼンバーグが、「文民統制」の一部として、そうした計画に反していると認識していた[17]。ローゼは1941年11月15日、すべてのユダヤ人が「経済的な面を考慮することなく」殺されるべきなのか、ローゼンバーグからの指示について尋ねた[18] [19][20]。

 ローゼンバーグは10月の終わりまでにすべてのリガのユダヤ人とリガの周辺地域のユダヤ人の一部を、市内のゲットーに封じ込めた。ゲットーの門は、ルンブラから10キロほど離れてた場所にあった[3]。リガ・ゲットーはナチス自身が造ったものであり、戦争前には存在しなかった[21]。

フリードリッヒ・イェッケルン(Friedrich August Jeckeln)の参入動機

 ヒムラーが、ラトヴィア、リガのユダヤ人を一掃しようとした目的・動機は、そうすることによってドイツとオーストリアのユダヤ人をリガのゲットーに追放し、彼らをそこに収容できると考えたからだった[24]。同様の動機、目的で、東部地域のコヴノ(1941年10月28日に10,000人死亡)や、ミンスク(現在ベラルーシュの首都)(11月7日に13,000人が死亡、11月20日に7,000人が死亡した)で、ゲットーに閉じ込められたユダヤ人たちの大量殺人が実行されていった。 
 
 この計画を実行するために、ヒムラーはウクライナからフリードリッヒ・イェッケルンをラトヴィアに連れてきた。イェッケルンは、バビ・ヤール(死者30,000人)を含む数々の大量殺人を指揮し実行してきた人物だった。イェッケルンの部下約50人が1941年11月5日、殺人者として、また、支援者としてにリガに到着した。イェッケルンは彼らと一緒に到着しなかったが、1941年11月10日から11月12日の間ベルリンに行き、ヒムラーと会ていた[26]。

 ヒムラーは、イェッケルンに、リガ・ゲットーのユダヤ人全員を殺すように指示し、ローゼに対して、これは、ヒムラーとアドルフ・ヒットラーの命令であると伝えるように言った。「ローゼにそれは私の命令であるとともに総統の望みであると言え。」と。

 ※フリードリヒ・アウグスト・イェッケルン(Wikiより)
  ナチス・ドイツの親衛隊(SS)の将軍。最終階級は親衛隊大将、警察
  大将及び武装親衛隊大将。第二次世界大戦中にドイツ軍占領下ロシ
  アの親衛隊及び警察指導者を務め、アインザッツグルッペンの殺人活
  動を監督していた人物。



フリードリヒ・アウグスト・イェッケルン
出典・Source:Wikimedia Commons
Soviet government employee - Fleming, Gerald, Hitler and the
Final Solution, 1982, Plate 3, reprinted from USSR State
Archives, Moscow, パブリック・ドメイン, リンクによる


 イェッケルンはその後リガに行き、それ以上の異議を提起しなかったローゼに状況を説明した。

 イェッケルンは1941年11月中旬まで、リッターハウス(Ritterhaus)として知られているリガの旧街区内の建物に居住していた[28]。ベルリンでは、ナチスの階級でローゼ上官であるローゼンバーグがヒムラーから1つの譲歩を得ることができた。すなわち、16歳から60歳のユダヤ人男性を抽出し奴隷労働者とすることはドイツの戦争活動にとって非常に重要であるという合意であった。

 その結果、これらの人々は後に回され、女性、子供、老人、そして障害者といった人々が先に射殺されることとなった。こうした犠牲者の分離を実行すたイェッケルンの計画は、「小さなゲットー」として知られるようになっていった[3]。

大虐殺を計画する

 ゲットーを空にするというヒムラーノ命令を達成するため、イェッケルンは1日に12,000人を殺す必要があった。その時季は、昼間と夕暮れを併せても約8時間しかなかったので、犠牲者の最後の列は遅くとも正午12時までにリガ・ゲットーを出る必要があった。警備員たちが、10キロメートルに及ぶ列全体の両側にに配置されることになった。全行程を予定通り実行するためには、約1,700人の要員が必要だった。[29]

 イェッケルンの建設専門家エルンスト・ヘニッカー(Ernst Hennicker)は、殺害される人の数を事前に知ったときにショックを受けたと述べていたにもかかわらず、その時点では異議を唱えず、2万5000人を埋葬するのに十分な6つの死体を埋めるための大きな穴(壕)の掘削を監督することとなった [30]。

  ピットの実際の掘削は、ロシアの捕虜200人[3]または300人[30]が行った。ピット自体は目的を持って設計されていた。逆ピラミッドのように掘られ、上にいくほど幅が広くなっていて、犠牲者たちが文字通り自ら墓に向かって各段に歩いて下っていけるような構造になっていた。ピットを完成させるのに約3日かかり、1941年11月23日までに完成した。[29]

 実際の射撃は、イェッケルンの警護員であった10人または12人の男たちによって行われた。その中には、Endl、Lueschen、Wedekindなど、すべて経験豊富な殺人者たちが含まれていた。イェッケルンの運転手であるヨハネス・ジングラー(Johannes Zingler)は、イェッケルンに自分の家族を傷つけると脅されたので殺人者として射殺に加わらざるを得なかったと証言している。

 ロシアとウクライナでの同様の虐殺では、ジングラーズの意見に反して、参加は自発的であり、時にはひっぱりだこだったが、射撃に参加することを拒否した人々は後に酷い仕打ちを受けたということもなかった。特にアインザックコマンド5(スパイ部隊であった出動分遣隊)の責任者アーウィン・シュルツは、イェッケルンのが行った別の場所、バビ・ヤールでの残虐行為への参加を拒否したが、彼自身の要望により、専門家としての地位を失うことなくベルリンでの戦前の地位に戻された[31]。

 イェッケルンはラトヴィア人を射撃に連れて行かなかった。それは、イェッケルンは、犠牲者たちをピットの中で狙撃するには狙撃技術が必要であると考え、ドイツ人の方がラトヴィア人より本質的に正確な射手であることを証明したかったためだった。

 また、イェッケルンは、彼の希望を実行する上でたとえナチスの組織であっても、自分の組織以外を信じていなかった。親衛隊保安部(SD)と秩序警察(オルポ)が関与していたにもかかわらず、イェッケルンは自分の部隊を任命し、作戦のすべてを自ら監督した[29]。

場所を決める

 イェッケルンと彼の補佐官パウル・デゲンハルト(Paul Degenhart)は、場所を見つけるためにリガの周辺を探索した。リガは水面が地面に近い沼地にあった。これは、何千もの死体の適切な処分を妨げることになる。イェッケルンには高台の土地が必要だった。

 この場所は、ダウガヴァ川の北側でゲットーから徒歩圏内、北側でなければならなかった。11月18日か19日頃にイェッケルンがサラスピルスの強制収容所(南部に建設中)に車で向っていると、たまたま彼が探していた場所にぴったりのルンブラにたどり着いた。その場所はリガの近くにあり、高台にあり、砂の土壌であったが、唯一の欠点は高速道路(約100メートル)に近接していることだった[29]。

イェッケルン方式

 イェッケルンは、彼がウクライナで多くの殺人を計画実行した間に「イェッケルン方式」というものを開発した。これにはバビ・ヤールとカームヤネツィ=ポジーリシクィイ大虐殺(Kamianets-Podilskyi Massacre)が含まれていた。彼はそれを「イワシの梱包」(Sardinenpackung)と呼んだ[33]。

 イェッケルン方式とは、名前に由来するのではなく、ニュルンベルク軍事裁判におけるアインザッツグルッペン指揮官への判決の中で、(射殺された囚人の)死体を墓に押し入らなければならないという余分な作業を避ける手段として注目された。経験豊かなアインザッツグルッペンの殺人者の一部でさえ、その行為の残虐さに震え上がったと報告されている[32]。

 射殺による絶滅は、女性や子供たちの番になったときに問題となった[35]。オットー・オーレンドルフ(彼自身、大勢を殺した殺人者)は、人道に対する罪についての戦後の裁判で、イェッケルン方式には反対だったと証言している[36]。

 イェッケルンには、Genickschusspezialisten - 「首撃ち名人(ネック・ショット・スペシャリスト)」を含め、一連の虐殺行為のなかでそれぞれ個別の部分を専門とするスタッフが存在していた。リガ・ゲットーに適用されたこの組立ライン方式(流れ作業方式)には、9つの構成要素があった。

①警察はゲットー内の家々から人々をたたき起こした。・ユダヤ人は1000人ずつ列を作らされて、殺害場所まで行進した。

②ドイツ秩序警察(オルポ:Ordnungspolizei or Orpo)がその列をルンブラに導いた。

③3つの穴がすでに掘られ、殺害が同時に行われた。

④犠牲者たちは衣類を脱がされ、貴重品を剥奪された。

⑤犠牲者たちは、衛兵による二重の哨兵線の間を走り殺害現場までいった。

⑥射殺した後の死体を穴に投げ入れる手間を省くために、殺人者たちは生きている人々を、すでに射殺されて穴に倒れている人の上、すなわちトレンチの最上部に無理矢理並ばせた。

⑦弾倉は50発の装着が可能であったため、ドイツの武器よりもむしろロシア製の短機関銃(別の筋 によれば、半自動ピストル[7])が使用されていたが、武器は一度に1発ずつ発砲された可能性がある[38]。

⑧殺人者たちは、犠牲者たちに穴の底に顔を向けて伏せるように寝かせたが、多くの場合、撃たれたばかりの人々の体の上に顔を押しつけて横たわらせた。人々には弾丸が降り注がれた訳ではない。

⑨むしろ、弾薬を節約するために、各人は頭の後ろに一発だけ撃たれた。即死しなかった人々は、ピットを土で覆うためにそのまま生き埋めにされた。[39]

衰弱した犠牲者のための輸送の手配

 イェッケルンは10から12台の自動車と6台から8台のオートバイを直接用意していた。これは、殺人犯たちや公式の立会人たちを輸送するのに十分なものだった。しかし、イェッケルンは10キロ(6.2マイル)の行進ができないと思われる病人、身体障害者、そして、彼が意図した射殺対象者たちを運ぶためにより大型の輸送手段を必要としていた。

 また、イェッケルンは、行進ルートでは途中で多くの人が殺害されることを予想しており、そのために、約25台のトラックが必要だった。 結果的に、彼は部下たちに、リガ市内をあさって走り回り適切な車両を見つけるよう命じた[40]。

最終的な計画と指示

 1941年11月27日の木曜日かその前後、イェッケルンは、これから実行する大虐殺についての調整をおこなうため、ドイツ警察(Ordnungspolizei)の支部である保護警察(Schutzpolizei)のリガ事務所で、(計画に)参加する部隊の指導者たちによる会合を開いた。これは、ブローニング教授が述べたように、ホロコーストで秩序警察が果たした実質的な役割と一致していると思われる。

 ブローニング教授が述べたように、もはや、ドイツ秩序警察のキャリアの専門家と予備兵が、大隊の編成や警察管区の警察活動の両方において、ホロコーストの中心にあり、多数の強制送還を行うための輸送や、ゲットー一掃作戦、そして、虐殺を実行するための主要な人的資源を提供していたことはもはや疑問の余地はない。-クリストファー・ブローニング[41]

 イェッケルンは1941年11月29日土曜日の午後、リッターハウスで第2回の上級指揮官の企画会議を開催した。後に開催された会合の出席者によると、イェッケルンは、指揮官たちに、当時すでにかなり東部地域まで激化していた戦争の最前線にいるかのように、リガ・ゲットーのユダヤ人を殺すことが彼らの愛国的義務であるという趣旨のスピーチを行っている。

 また、指揮官たちは、イェッケルンが、「(ユダヤ人の)抹殺に参加しないことは、脱走(任務放棄)に相当するとみなされることから、その行動に参加しない親衛隊及び警察高級指導者(Hohere SS- und Polizeifuhrer、略称HSSPF)のすべての人員が公式の証人として絶滅(射殺)現場に出席することを義務づけられている」と言ったと述べていた。 11月29日のリッターハウスでの会議にはラトヴィアの当局者は出席していなかった[42]。

 11月29日の午後7時頃、今回は、保護警察本部で第3回の短時間(約15分)の会合が開催された。これは警察の長官であるカール・ハイゼ(Karl Heise)が主宰した会議だった。彼は、部下に翌朝、午前4時に、リガ・ゲットーの人々に「再移住」を行うと伝えなければならないと言った。

 「再移住」とは大量殺人のためのナチスの婉曲表現であったが、ハイゼと参加していた保護警察官たちの多くはその行為の本当の意味を知っていた。最終的な指示が、ラトヴィアの民兵と警察にも伝えられ、ゲットーの住人たちをまとめ、射殺現場までの道の途中では警備員として働くことが言い渡された。ラトヴィア警察は、ユダヤ人を移住キャンプへ輸送するためにルンブラ駅に移動させるように指示された[42]。

 1970年代初期のイャンケ(Jahnke)裁判で、ハンブルクの西ドイツ裁判所は、イェッケルン方式の目的が最後まで殺人目的を隠匿することであることを明らかにした[43]。裁判所はさらに、次のようなことも明らかにした。

①1941年11月29日の夜の会議では、中間司令官も予定された殺人事件の全範囲を知っていた。

②中間司令官は、20キロの手荷物規定が、犠牲者を本当に移住していると信じさせ欺くための手段であることも知っていたこと[7]。

③下級兵士たちは、実際に森の中での銃撃を見るまで何が計画されているのか分からなかった。[43]

 (ラトヴィアの)アンドリュー・エゼルガイリス(Ezergailis)教授は、そこは母国(ラトヴィア)であり、ラトヴィア警察が実際にこれから起こることについて何かより良い考えを持っていなかったのかどうかという点について疑問を抱いた。

 ドイツ人がラトヴィア警察に誤解を招くような指示を与えたことを含め、反証を示した。少なくとも一部のドイツ人には、行進の過程で「不従順」なユダヤ人の処刑に失敗するような場合は、射殺しても良いという指示が与えられてた。

ドイツ国防軍による事前情報

 工兵隊少将であったワルター・ブルンズ(Walter Bruns)は、ニュルンベルク軍事裁判の前に、11月28日にリガで予定されていた大量処刑が間もなく行われることを知ったと後に証言している[44]。ブルンズは彼の上司に報告書を送った後、ワルター・アルテメイヤー(Walter Altemeyer)という名前の信頼できる「行政官」に、ブルンズが返事を受け取るまで行動を延期するよう促した。

 しかし、アルテメイヤーはブルンズに、作戦は「総統の命令」に従って実行されていると言った[44]。ブルンズはその後、監視と報告を行わせるため、二人の将校を現場に送った[44] [45]。計画されていた殺人についての実行命令は、リガのドイツ国防軍諜報活動機関の事務所(アプヴェーア:Abwehr)に届いた[46]。

 この虐殺とは関係のないこの事務所は、処刑が始まる直前にヴィルヘルム・カナリス司令官(Wilhelm Franz Canaris)から電報を受け取った。この電報は、リガの諜報機関に対し、要約すると、「諜報官が、尋問や虐待に加わったり同席することはふさわしくない」という指示をしていた[46]。カナリスは、ここで言う「尋問や虐待」とは、計画された大虐殺を指していた[46]と述べている。

 ※アプヴェーア(Wikiより)
  ドイツ軍において1921年から1944年まで存在した諜報活動機関である。
  アプヴェールともカナ表記される。1938年2月4日以降は、Amt Ausland
  /Abwehr im Oberkommando der Wehrmacht(国防軍情報部海外電信
  調査課/外国課)となった。歴代部長の中で、ヴィルヘルム・カナリス
  (Wilhelm FranzCanaris)は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に面
  従腹背の姿勢を取っていたことで特に有名(詳細は後述)。


 アプヴェーアは第1次世界大戦後、連合軍に譲歩するために諜報活動は防御のみにするという前提で設立された。実際には、アプヴェーアは防諜を意味しているその名称にもかかわらず、情報収集だけでなく、特に色々な場所から寄せられる生の情報を集め、ヒューミントを行った。情報部の部長は直接、国防軍最高司令部へ直接報告を行っていた。

 ※ヴィルヘルム・フランツ・カナリス(Wilhelm Franz Canaris)1887年1月1日
   - 1945年4月9日 ドイツ海軍の軍人。国防軍情報部の部長。最終階級は
  海軍大将。ナチス党政権下におけるドイツ国の軍事諜報機関のトップとし
  てアドルフ・ヒトラーを補佐する一方で、ヒトラー暗殺計画を含めた反ナチス
  運動に関与していたことが発覚し処刑された。(Wikiより)


大虐殺の準備

他の人と区別された強健な男性たち

 1941年11月27日、リガ・ゲットーの4ブロックが有刺鉄線で繋がれ、この区域は「小さなゲットー」と呼ばれることとなった[16]。11月28日、ナチスは強健な男たちに小さなゲットー(small Ghetto)へ移動するよう命令を出し、残った者たちには、軽作業のため、11月30日の午前6時に20キロ(44ポンド)の鞄をもって、別の地区に移動すると告げた。

 それに対するユダヤ人たちの反応はある種の恐怖だった[47]。7月と8月には、ラトヴィア人男性たちが最初に撃たれたが、女性と子供は少なくともしばらくの間は生きていられた。

 男性が家族から離されるという命令は、男性たちが殺されることを意味しているに間違いないと認識され、ローゼンバーグとヒムラーの間の段取りについては、彼らの知るところではなかった。11月29日の土曜日の朝までに、ナチスは強健な男たちを小さなゲットーに分ける作業を終了した。[48]

 ゲットー生存者のひとり、マックス・カウフマン(Max Kaufmann)は、11月27日の木曜日の朝、ゲットーのサドルニカ通りに大きなポスターが張られていたことについて、この光景を多少異なった形で書いている。それによると、ポスターには、他の事とともに、1941年11月29日土曜日、すべての収容者たちは、ゲットーから退避するため、ゲットーの門の近くにそれぞれ1000人ずつの列を作らなければならないと書かれていた。

 ゲートに最も近い住民が最初に出発することになるだろう[49]。カウフマンは、堅強な男たちを他の人々と区別するための特定の命令については述べていない。その代わり、「大規模工事の作業員たちについては、新しく造られた小規模収容所に残る可能性があり、後でそれぞれの家族とまた一緒になる」と述べていた。

 カウフマンによると、29日の朝に1,000人ずつの列を作らされたが、後に彼らは解散し、すべての避難は中止になったと信じた人々の中には助かった人たちもいた。300人の女性の裁縫隊員(お針子たち)が選出され、ゲットーから中央刑務所に移された[49]。

 アンドリュー・エゼルガイリス(Ezergailis)教授は、男性が仕事をしている間、ナチスはゲットーに残っている人の中から有能な強健な男たち選び出し、作業員が戻ってくると、戻ってきた労働者に対して同じプロセスが再び繰り返したと述べている。

 約4000人の強健な男性が新しく造られた小さなゲットーに送られた[48]。カウフマンは、29日の仕事から帰った後、彼自身と当時16歳の息子は大きなゲットーに戻らず、小さなゲットーのヴィラヌ通りにある廃墟となった建物に収容されていたと述べている[49]。

ドイツのユダヤ人の最初の輸送がリガに到着

 1941年11月27日、ベルリンを出発したドイツのユダヤ人は、1941年11月29日土曜日にリガに到着した。ユダヤ人は、長時間の労働をした上で餓死するのか、単に殺されるのか まだはっきりしていなかった[19]。 どうやら最後に、ヒムラーはこれらのドイツのユダヤ人をすぐに殺したくないと決め、彼の計画は代わりに、彼らをリガ・ゲットーに収容し、居住させることによって、ラトヴィアのユダヤ人の殺害を可能にするというものだった[50]。

 このため、1941年11月30日の日曜日、ヒムラーは親衛隊保安部の長であり、イェッケルンの上司であったラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)[51]に電話をかけた。ヒムラーの電話記録によると、ベルリンから輸送したユダヤ人がナチス用語で「殺害」されることはなく、ナチス用語でいうところの「清算(Keent Liquidierung)」されることもなかったと記している。しかし、ヒムラーはこの日曜日の午後1時30分にこの電話をしただけだったが、その時までに列車内の人々は死んでいた。

 何が起こったかというと、彼らがリガに到着したとき、追放されたドイツのユダヤ人たちを収容する家がなかったため、ナチスは人々を列車に残したままにした。翌朝、ナチスは彼らの乗った列車をルンブラ駅まで走らせた。

 そして、彼らは列車から人々を連れ出し、犯行現場までの短い距離を歩かせ、午前8時15分から午前9時までの間にすべての人々を射殺した[7]。彼らはその日に死ぬ最初のグループとなった[3]。この罪のナチス流の婉曲表現は、1,000人のベルリンのユダヤ人が「処理された」というものだった[52]。

 その後、12月1日、そして1941年12月4日の個人的な会議で、ヒムラーはイェッケルンに対し、ヒムラーからの急ぎの命令もないまま輸送されたドイツのユダヤ人たちを大量に殺害しないように厳しい指示を発令した[50]。「オストランドの領土に追放されたユダヤ人は、私と私に代わって国家保安本部(Reich Security Main Office)が与えたガイドラインにのみに従って扱われなければならない。勝手な行動や違反は罰せられるであろう」[53]。

 イェッケルンは戦後の裁判で、11月10日または11日にヒムラーから「最後の一人に至るまでオストランドのすべてのユダヤ人を撲滅しなければならない」という命令を受けたと主張した[19]。イェッケルンは、ドイツのユダヤ人をルンブラでの大虐殺の直前、リガに輸送する際に殺したことは、ヒムラーが望んでいたことだと信じていたと思われる。

 ルンブラ大虐殺とは、1941年11月25日と29日に、リトアニアのカウナスで東部地域に到着した直後に実行されたドイツ・ユダヤ人の大量殺害事件であり、そのとき、SiPo(保安警察)はベルリンからの1000人のユダヤ人を含め11月11日に輸送され到着した5000人のドイツとオーストリアのユダヤ人を殺害した。

 フレミング教授は、ヒムラーの「清算なし」命令のいくつかの理由を示唆している。 列車には、40~45人の「不当な避難のケース」とみなされる人々がいて、彼らは高齢者であったか、または大戦中ドイツへの勇敢な奉仕のために鉄十字の勲章を与えらた者たちだった。

 1941年11月30日時点で、まだドイツとの戦争に至っていない米国の姿勢を恐れて、ヒムラーはドイツのユダヤ人に対する処刑を躊躇していたかもしれない。{27]。

 ブローニング教授は、命令と、上記の二つのはっきりした例外を除いた事実に原因があると考えている。すなわち、ドイツの(地元住民と対立している)ユダヤ人を撃つことによっていくつかの問題が持ち上がることへのヒムラーの心配と、より秘密が保たれ、ナチスの内部での紛争ができるだけ起こらないような時期まで(ドイツのユダヤ人の)射殺を延期したいというヒムラーの願いから、総じてドイツからのリガへのユダヤ人のさらなる移送がすぐさま大量虐殺に結びつかなかったと考えている。

女性、子供、そして高齢者がゲットーから追放された。

 11月29日土曜日に列が解散となったとき、ゲットーの住民は、退避がなくなったことで彼らは助かったと信じていた[49]。しかし、これは間違っていたことが証明された。ゲットーでの最初の行動(作戦)は、1941年11月30日日曜日の夜明けの午前4時に始まった。西から東へ(即ち、ルンブラへ)、親衛隊保安部(SD)の部隊、保護警察、アライス・コマンド(Arajs Kommando)、そして約80人からなるユダヤ人ゲットー警察は、人々を眠りからたたき起こし、30分で集合を報告するように指示した[16]。

 マックス・カウフマンは、29日の真夜中に襲撃が始まったと述べている[56]。彼は“何千人”もの "完全に酔っぱらっている"ドイツ人とラトヴィア人がゲットーに侵入し、アパートに飛び込み、激しく叫びながら居住者たちを追い詰めたと話した。彼は子供たちが3階の窓から投げ出されたとも述べている[56]。分遣隊員たちは、塀の特殊な開口部を切って、森林地帯の南側の高速道路により迅速に出られるようにした。(ゲットーの詳しい地図はエゼルガイリス[57]とカウフマンによって提供されている)

 強健は男たちがいなくなったにもかかわらず、人々は彼らの住居から強制的に追い出されることに抵抗し、ゲットーの東部を通って移動しながら列から逃げようとした。ナチスは人々を追い払う過程で600~1,000人を殺害した。最終的に約1,000人の列が結成され、行進が出発した。最初の縦列は弁護士のエリヤスチョ(Eljaschow)博士が率いていた。

 「彼の顔の表情は平静そのものだった。逆に、誰もが彼を見ているので、笑っているように見えるよう努力した」[58]。 エリヤスチョ博士の次はラビ・ザック(Rabbi Zack)だった。他の有名なリガ市民が列に並んでいた[58]。警備員の中には、アルトメイヤー(Altmeyer)、イエガー(Jager)、ヘルベルツ・ククルース(HerbertsCukurs)がいた。世界的に有名なパイロットであるククールスは、最もよく知られているラトヴィアの親衛隊保安部員であり、カウフマンが次のように説明している[59];

 ラトヴィアの殺人犯ククルースは、彼は体の横に、ピストル(Nagant)を入れた革製のホルスターを着て車から出た。彼はさまざまな指示をするためにラトヴィアの警備員になった。彼は間違いなく、我々を待っていた大惨事について詳細に知らされていた。- チャールン・レットランド(Churbn Lettland) - ラトヴィアのユダヤ人絶滅[56]

 ラトヴィアの歴史家アンドリュー・エゼルガイリス(Andrew Ezergailis)は、「ゲットーでの作戦の最後に関わったのは、アライアスの男たちだけではなかったが、そこでの残虐行為に参加した程度でいえば、その主な責任は、ヘルベルツ・ククルス(HerbertsCukurs)の肩にかかっていた」[60]

 ユダヤ人たちには、犠牲者の間で単に移住させられたという印象を作り出すために、見せかけとしていくつかの荷物を運ぶことが認められていた[7]。ピットでの虐殺の数少ない生存者の1人であるフリーダ・ミケルゾン(Frida Michelson)は、彼女がその日に見たものを後に説明した。

 「すでに明るくなり始めていました。武装した警官によって守られた終わりのない人々の列が通り過ぎていきました。若い女性、幼い子を抱いた女性、老いた女性、近所の人に手助けされている障害者、少年少女、--みんなが行進、行進していました。

 突然、私たちの窓の前で、ドイツ人親衛隊の男が群衆の中に自動銃を至近距離から直射しまし始めました。人々は銃撃によってなぎ倒され、石畳に倒れました。列は乱れました。人々は倒れてしまった人たちを踏みにじっていました。前に向かって人々を押し分けていき、親衛隊の男たちの広範囲な狙撃から逃げました。彼らはバッグを捨てて、より速く走れるようにしていました。ラトヴィアの警官たちは、「もっと速く、速く」と叫び群衆の頭に鞭を打っていました。

...人々の列は、前に前に動いていました。時には半ば走りながら、行進し、早足で進み終わりがありませんでした。また一人、こっちにもまた一人、人々は倒れ、その上を歩いて行きました。そして、彼らは絶えず鞭と小銃を持った、警察官によって、「速く、より速く」と促され、倒れた人の上を歩いて行きました。

...私は窓のそばに立って、行進の恐怖が終わった昼頃まで見守っていました。今通りは静かで、何も動かなかった。死体はあちちに散らばっていた。もう生きていない体から細く血が流れ出ていた。彼らはほとんどが高齢者、妊娠中の女性、障害児、障害者であり、- こうしたすべての人々は非人道的な行進のテンポに追いつかなかった人たちだった。


 - フリーダ・ミケルソン(Frida Michelson)、「私はルンブラを生き抜いた」、pp。77-8より

殺害現場・穴まで10キロ進む

 約50人の警備員を伴った最初の列は、06:00にゲットーを出発した。 1941年11月30日に、リガで記録された気温は、07:00に-7.5℃(18.5°F)、09:00に-1.1°C(30.0°F)、09:00に1.9°C(35.4°F )21:00に1.9℃(35.4°F)だった。

 前夜の雪は7cm(2.8インチ)だったが、11月30日の午前7時から午後21時までは雪が降っていなかった[7]。人々は警備員が強要する歩く速度を維持することができず、列は次第に伸びていった。

 警備員は、列から外れたり、10キロ(6.2マイル)の行進ルートの途中で休息した人たちを殺害した。後で戦争犯罪裁判にかけられたドイツの警備員は、大部分の殺害を行ったのはラトヴィア人だと主張した。しかし、ラトヴィアでは、ラトヴィアの警官が人を撃つよう命じられたという話があった[62]。

ルンブラに到着し殺す

 最初の列は11月30日午前9時頃にルンブラに到着した。人々は、衣服を脱ぐように命じられ、貴重品を指定された場所や収集箱に入れさせられた。靴はここ、衣服は別の箱というように、分けて預けるように命じられた[7]。荷物は、ユダヤ人たちが森に入る前に預けさせられた[7]。

 彼らは殺人壕に向かって行進した。すぐさま殺せる状態で到着した人があまりに多い場合には、彼らはその順番がが来るまで近くの森で待機させられた。

 衣服の塊が巨大になるにつれて、アライース・コマンド(Arajs Commando)のメンバーはトラックに荷物を積んで、リガに戻った。衣類を脱ぐ場所は殺人者たちに注意深く監視されていた。それはコンベヤのようなシステムのなかで、唯一抵抗や反乱が起きる可能性のある一時停止があるポイントだったからである[3] [7]。

 その後、人々は、穴に向かって斜め下に進んでいき、10人ずつがひとグループになり、先に撃たれてまだ生きている10人の上に一列に並ばされた[7] [63]。何人かの人々は泣き、他の人は祈り、ユダヤ教の律法(モーゼの五書)を朗読していた。障害者や高齢者は、彼らより丈夫な犠牲者に手助けされながら穴に進んでいった[7]。

 犠牲者たちは、すでに撃たれた人の上に顔を伏せて仰向けに寝そべっていた。血まみれになってのたうち回り、上下に揺れ、血がにじみ、脳のようなものや排泄物ガたまっていた。ロシアの自動武器を用い一発で撃墜することから、狙撃者たちは約2メートルの至近距離からユダヤ人を殺した。イェッケルン方式で1人あたり1つの弾丸が割り当てられた。

 - アンドリュー・エゼルガイリス(Andrew Ezergailis)、ラトヴィアのホロコースト、
1941-1944:失われたセンター(The Missing Center)、pp。253-4
 
 (ユダヤ人たちの)射殺は、日が落ちて夕暮れまで続き、午後5時頃に暗くなってようやく終了した。(この証拠では、射撃が終わった時間に矛盾がある[64]。ある筋によると、射撃はたっぷり日が暮れて夜になるまで続いたと言われて[7])その日、リガと殺害現場を行き来していたナチス警察びカール・ハイゼ大将は、跳ね返った銃弾が目に当たるという不幸に見舞われたため、射撃の狙いは、夕暮れになって悪化した可能性があった。イェッケルンは、1946年の初めに開かれた彼の裁判において、自らルンブラについて語っている。

質問:誰が撃ったのか?
回答:10人または12人のドイツ人親衛隊兵士。
質問:その手順は?
回答:すべてのユダヤ人は、リガにあるゲットーから粛正場所に歩いて行った。穴の近くで、彼らは衣類を預け、その衣類は洗濯され、分類され、ドイツに送り返された。ユダヤ人の男、女、そして子供たちは、ドイツ兵に射殺される現場の穴に向かう途中、警察官の哨兵線を通っていった。

 - イェッケルンの尋問から抜粋[65]

 狙撃兵たちは、小さな穴のすぐ際から発砲した。大きな穴では、死者や死にかけている人の間を歩いて墓穴の下の方まで進み、そこでさらに犠牲者を撃ち殺した[7]。ドイツ軍の工兵予備役将校であったオットー・シュルツ・デュ・ボワ(Otto Schulz-Du Bois)は、その地域で、橋や道路の点検任務を行っていたところ、断続的ではあるが絶え間なく銃撃が聞こえたという[66]。

 シュルツ・デュ・ボワ は作業を中止し、警備が緩かったので殺人事件を目撃することができた。それから数ヶ月後、彼はドイツで、彼が目撃したことを友人たちに話し、その友人たちは1980年にSchulz-Du Boisが語ったことを次のように報告している:

 彼が最初に目撃したのは、大量の衣服の山でした。そして、男性、女性、子供、高齢者が下着だけで一列に並んでいました。列の先頭は小さな森の中に造られた大きな墓穴のそばに居ました。最前列に並んでいた人たちはピットに飛び込み、頭にピストルで打ち抜かれ殺害されました。6人の親衛隊の男性はこのひどい作業で多忙を極めていました。犠牲者たちは完全な平静を保っていました。叫び声はなく、かすかなむせび泣きと泣き声しか聞こえず、子供たちをなだめていました。

 - ジェラルド・フレミング著、「ヒトラー、そして最終解決策」[66]


公式の証人

 イェッケルンはルンブラでの殺害についての証人として、ナチスの高官を要求した。 イェッケルン自身は、穴の最上部に立って狙撃者ひとりひとりに指示を出していた。東部占領地域(オストラント)の国家委員(国家弁務官:Reichskommissar)[67]であるヒンリッヒ・ローゼ(Hinrich Lohse)は、少なくともしばらくはそこに居た。


ヒンリッヒ・ローゼ
出典・Source:Wikimedia Commons
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the Latvian National Library, latvian nationalistic newspaper Tevija from August, 8th,
1941</a>, Public Domain, Link


 ラトヴィアの領土局長(Gebietskommissar)であったオットー・ハインリッヒ・ドレヒスラー(OttoHeinrich Drechsler)博士が出席していた可能性がある。


 ラトヴィアの協力者民兵(敵国の占領軍に協力する人々:シュッツマンシャフツ)のチーフであるロバーツ・オシス(Roberts Osis)が大抵、出席していた。酔っていたヴィクトル・アライス(ViktorArajs)は、犠牲者たちを警備し穴に落とし込む仕事をしていた彼の部隊のラトヴィア人の男たちを監督するため、穴のすぐ近くで働いていた[3]。

ゲットーでのその後の殺人と身体処理

 カール・ハイゼ(Karl Heise)は午後一時にルンブラからリガ・ゲットーに戻った。そこで彼は、移動するにはあまりにも病弱な約20人のユダヤ人が殺人現場にではなく、病院に連れて行かれたことを発見した。ハイゼは、彼らを病院から連れだし、路上の藁のマット上に寝かせ、頭を撃つように命じた。

 路上での患者たちの殺人犯には、警察官(Schutzpolizei)だった、ヘスフェル(Hesfer)、オットー・ツチェル(Otto Tuchel)、ノイマン(Neuman)などが含まれていた。朝の強制退去の後も、数百の遺体が残っていた。強健なユダヤ人男性の部隊は、それらを持ち上げて、ソリ、手押し車、馬車を使ってユダヤ人の墓地に運んだ。路上で撃たれた人は皆死んだわけではなかった。

 まだ生きていた人たちはアライスの司令官によってとどめを刺された。墓地には一人一人の墓穴が掘られていた訳ではなかった。その代わりに、ナチスは、ダイナマイトを使って地面を吹き飛ばして大きな穴を開け、死者を火葬することなく、穴に投げ入れた[3][16][70]。

1日目のピットでのその後

 最初の日の終わりまでに約13,000人が撃たれたが、すべてが死亡したわけではなかった。 カウフマンは、「半死の人々が大勢いたため、地中はしばらくのあいだうめき声で波打っていた」と報告している[71]。傷ついた裸の人々は、遅くとも翌日の午前11時頃まで助けを求めて周囲をさまよっていたが助けはなかった。エゼルガイリス教授の言葉によれば:

 ピット自体はまだ生きていた;出血しもだえ苦しむ体が意識を取り戻していた。 . うめき声やささやきが夜になってもよく聞こえていた。中には、わずかに負傷しただけの人や、まったく傷を負っていない人もいた。彼らは穴から這い上がった。何百人もが人間の肉の重さで窒息せざるを得なかった。衛兵は、穴の周辺に配置され、ラトヴィア人の協力隊員(Schutzmannschaften)がその地域を守るために派遣された。彼らに対する命令は、現場の生存者全員を粛正(殺害)することだった。

 -アンドリュウ・エゼルガイリス著、「ラトヴィアのホロコースト」、1941-1944:The
Missing Center、p。255

 ラトヴィアのホロコーストの生存者の一人である歴史家のバーナード・プレスによると4人の若い女性が最初に弾丸から逃れた。 裸で震えていた彼女らは、殺人犯の銃身の前に立って、極限の断末魔の苦しみの中で、自分たちはユダヤ人ではなくラトヴィア人であると叫んだ。彼女らの訴えは受け入れられ、街に連れ戻された。翌朝、イェッケルン自身が彼女たちの運命を決めた。

 一人は確かにラトヴィア人であり、ユダヤ人の養子となっていた。その他はユダヤ人だった。そのうちの一人は、彼女の最初の夫である陸軍中佐スクーヤ(Skuja)からの支援を期待していた。彼は、彼女の国籍について電話で尋ねられたところ、彼女はユダヤ人であり、彼女の運命には興味がないと答えた。彼女は殺された。

 二人目の女性はラトヴィア人だったが、夫がユダヤ人でユダヤ学研究に従事しているということで、イェッケルンの慈悲を受けることはできなかった。この回答で、彼女は死刑執行令状に署名した。イェッケルンは彼女が「ユダヤ教に汚染されている」と判断したからだ。3人目の少女、エラ(Ella Medalje)だけがイェッケルンに対して最もらしい答えをするほど賢かったので、命を長らえることができた。 

 - ラトヴィアのユダヤ人の殺害、pp。106-7

生存者間の反応
 ゲットー自体、カウフマンが説明したように、11月30日にユダヤ人たちの行列が出発した後、大量殺人の現場となった。

 ゲットーの中心にあるLudzas通りには、殺された人々が大勢いた。彼らの血は、道路脇の溝を流れていた。また、家の中にも、射殺された多くの人々がいた。人々はゆっくりと死体を片付け始めた。ヴィッテンベルク弁護士は、この聖なる仕事を自分自身で行い、残っていた若者たちを動員してこの任務に加わらせた。
 - チュールン・レットランンド(Churbn Lettland) - ラトヴィアのユダヤ人絶滅[71]

 血は文字通り、排水溝を流れていた。目撃者のフリーダ・ミケルソン(Frida
Michelson)は、翌日の12月1日にまだ通りに血溜まりがり、凍っていたと記録している[70]。

 新しく建設された小ゲットーの男性たちは、前日と同じように日曜日に作業場に送られた。途中、彼らはルンブラへの行進のために列がつくられているのを見て、泣き声や叫び声、銃声を聞いたが、詳細は分からなかった。男性たちは、何が起こったのかを知るために、現場に行ってほしいと知り合いのドイツ兵士の一部に頼んだ。これらの兵士はもちろん現場に行けたが、ゲットーへの入場は許可されなかった。遠くからでも、彼らは「多くの恐ろしい出来事」と見ることができた。

 彼らは、こうした事実を、仕事に派遣されているユダヤ人たちに報告し、家族に会うため、早く仕事から帰らせてもらえるように頼んだ。14:00になってこの要求は少なくともごく一部の人に認められ、彼らはゲットーに戻った[72]。彼らは街にものが散らばっているのを見たが、それらを集めて警備員室に運ぶよう指示された。

 彼らはまた、小さな包みを発見したが、それは生後約4週間の赤ん坊であることがわかった。ラトヴィアの警備官が子供を奪っていった。カウフマンは、子供が殺されたことに間違いないと確信した[72]。

12月8日の殺人事件

 イェッケルンは12月1日にも殺害を続けたいと思ったが、やらなかった。エゼルガイリス教授は、その理由として、イェッケルンがリガのユダヤ人たちの抵抗運動(レジスタンス)のような問題に忙殺されたためかもしれないと指摘した。いずれにせよ、殺害は1941年12月8日月曜日まで再開されなかった。

 エゼルガイリス教授によると、この時は、300人のユダヤ人がゲットーから強制的に連れ出され殺害された。(別の情報源によれば、ゲットーでの12月8日の残虐行為は11月30日のものよりも悪化していた[16])。その月曜日には雪が降っていて、人々は最悪の事態は過ぎ去ったと信じていたかもしれない[16]。

 それでも、11月30日の日曜日のように、ゲットーの人々は列をつくらされて街から行進させられたが、前日とは違う点がいくつかあった。彼らは11月30日のように、20キロの荷物を運ばされることはなく、荷物はゲットーに残されたのだ。そして、荷物の所有者たちには、荷物をトラックで移住のための虚偽の出発点まで輸送すると言われていた。

 小さな子どものいる母親たちと高齢者たちには、そりに乗ることができると言われていて、そりは実際に利用可能だった[74]。11月30日の虐殺で何らかの役割を果たした少なくとも2人の警察官は、12月8日に再び参加することを拒否した。これらはドイツのジンマーマンとラトヴィアのヴィルニスであった。行進自体は速いペースで進み、残忍なものだった。多くの人々が踏みにじられて死に至った[74]。

 小ゲットーの作業員の一人であったマックス・カウフマンは、12月8日に行進に出発した人たちに何が起こっているのかを知りたいと考えていた。彼は賄賂を使って表向きには木材を集めるためのトラックで遠出を画策したが、実際には列の後を着いていき、かれらの行き先を知ることになった[76]。 カウフマンはその後、リガからダウガフピルスに向かって高速道路に沿って南に移動したトラックから見たものを説明した;

 ..第一陣の避難者に遭遇しました。 私たちは速度を落としました。彼らはかなり静かに歩いていて、ほとんど音が聞こえませんでした。 私たちが会った行列の最初の人は、ポーラ・シュムリアン夫人でした* * *彼女の頭は深く殴られ、彼女は絶望していたようでした。 私はまた、行進中の人々の中に私の他の知り合いが居るのを見つけました。 ラトヴィア人は、時折、棍棒でその人たちを一人また一人と殴ってるのだろう。途中で、雪の中に顔を伏せている6人が殺されているのに出会いました。

 - チュールン・レットランンド(Churbn Lettland) - ラトヴィアのユダヤ人絶滅[76]

 カウフマンは、森の近くの雪の中で機関銃が密接してセットされていることに気づいた。そして、ドイツ軍から来たと思われる60から80人の兵士がいることも確認できた。トラックを運転していた兵士は、逃げ道を防ぐために機関銃を並べていると述べた。 (カウフマンは、その著書の中で、ドイツ軍がルンブラ大虐殺において役割を果たしていると確信していたと述べている)[76]。

 その日、彼らは、ユダヤ人がその地点まで避難したという噂を調査するためルンブラを通過し高速道路をサラスピルス村の強制収容所に向かった。収容所で、彼らはロシア人戦争捕虜に遭遇したが、リガからのユダヤ人は居なかった。

 囚人たちは、ユダヤ人について何も知らないと彼らに言った[76]。フリーダ・ミケルソンは列に加わって行進した。そして、親衛隊の男たちがリング状に森を囲んでいたと説明した[74]。ミケルソンはさらに、その日の朝、ルンブラに到着したときの状況を説明した:

 私たちが森に来ると、私たちは再び銃声を聞きました。これは私たちの未来の恐ろしい前兆だったのです。もし私が拷問者の意図について疑いを持っていたとしたら、みんな今は居なかっただろう。 ...私たちはすべて恐怖に麻痺し、機械的に命令に従った。私たちは考えることができず、従順な家畜の群れのようにすべてを差し出していました。

 - フリーダ・ミケルソン(Frida Michelson)著、「私はルンブラを生き延びた」、
pp.85-8

 その日、ゲットーからルンブラに強制退去させられた12,000人のうち、3人の生存者とされる人たちが後に話している:フリーダ・ミケルソン(Frida Michelson)、エル・マデール)Elle Madale)、マチス・ルトリンズ(Matiss Lutrins)の三名である。ミケルソンは犠牲者たちが彼女の上にたくさんの靴を投げ捨てたので死んだふりをして生き残った[77]。

 エル・マデールはラトヴィア人であると主張した[78]。 機械技師のマティス・ルトリンズは、ラトヴィア人のトラック運転手を説得して、彼と彼の妻(後にナチスが見つけて殺害した人物)を、リガに送り返す犠牲者の衣服を積んだトラック貨物の下に隠してもらって逃げ延びた[78]。

 12月8日に殺害された人々の中には、有名なユダヤ人作家、歴史家、活動家であるサイモン・ドゥブノウ(Simon Dubnow)がいた。 ドゥブノウはナチスが権力を握った1933年にベルリンを逃れ、安全を求めてリガにやって来た。1941年12月8日、彼は森まで歩けないほどの病気だったため、ゲットーで殺害され[51]、集合墓地に埋葬された。カウフマンは、11月30日以降、Dubnow教授はルザス通り56番地にあるユダヤ人警官の家族と一緒に暮らしていたと述べている。

  12月8日、残忍なラトヴィアの警備員監督であるアルベルト・ダンスコプ(Alberts Danskop)が家に来て、ドゥブノウに警官家族の一員であるかどうかを尋ねた。ダブノウは、家族ではないと言うと、ダンスコップはちょうどそのときに家の前を行進していた列に加わるように彼を家から追い出した。そのとき家の中で騒ぎが起こり、カウフマン氏がアイアン・クロスを獲得したドイツ人であると指摘したユダヤ人警察官の一人が、ドゥブノウを救出しようと急いだが、それは遅すぎた[79]。

 別の資料によると、ドゥブノウを殺したのは元学生だったドイツ人だった[80]。後で伝説にまで発展した噂は、ドゥブノウが彼の人生の最後の瞬間に、ユダヤ人に贈った言葉である:「もし、あなたが生き残ったら、ここで起こっていることを決して忘れずに、証拠を提供して、書いてまた書いて、ひとつひとつの言葉、動作、叫び、涙を生かして欲しい」と[73][81]。親衛隊は歴史家の蔵書や書類を盗んで、ドイツ国家に送ったことは間違いない[82] [83]。

 ※ライヒ(Reich)Wikiより
  ドイツ語で大きな領域を持つ「国」を現す語。ドイツ語では「国家」を現す
  言葉として「シュタート」(Staat、複数形:Staaten)も存在するが、微妙に
  用法は異なる。元来、ドイツ語において「Reich」は英語の「Empire」とほぼ
  同義であり、ラテン語の「imperium」に相当すると考えられていた[1]。つま
  り「帝国」である。

12月9日の大虐殺

 強健な体で働ける男以外のユダヤ人は、11月30日と12月8日に大量虐殺から逃れ、新しい「小ゲットー」に隠れることができた[83]。 1941年12月9日、ナチスは今度は小ゲットーにおいて、3度目の大虐殺を始めた。

 彼らは男たちが仕事場に出ている間にゲットーを捜索した。隠れていて発見された人々は、リガの地方自治体当局から借りた青いバスに乗せられ、リガの北東側のビーケルニアキ(Bi?ernieki)の森に連れて行かれ、そこで殺されて集団墓地に埋められた。約500人がこの作戦で殺害された。 ルンブラのでの虐殺のように、ゲットーからの退避は正午12時に終わった[83]。
 
ルンブラがホロコースト計画に与えた影響

リガ・ゲットーでドイツのユダヤ人をラトヴィア人に置き換える

 1941年12月、ナチスはドイツのユダヤ人に対し、東方への追放を通告するという指示を出し続けた。これらの人々の大半は、ヒムラーの計画の変更(彼の「keine Liquiderung」という電話連絡で示されているように)のために、彼らが殺される番が来るまでゲットーで1,2年の命を得ることになるだろう[50][84] [85]。

 リガに到着する最初の列車の1つが「ビーレフェルト輸送(Bielefeld Transport)」と呼ばれた[84]。ドイツのユダヤ人が 1941年12月にリガに到着した後、彼らはゲットーに送られ、急いで家を出なければならなかった。住宅内の家具は激しく乱れており、一部は血で染まっていた。凍ってしまった調理済みの食べ物がテーブルの上にあり、ミルクが凍ってしまった哺乳瓶がはいった乳母車が屋外の雪の中にあった[16] [51] [86]。

 あるドイツ人家族の家の壁には「ママ、さようなら」と書かれていた[86]。数年後、そのときに子供だったドイツ人の生存者は、「ラトヴィア人がここに住んでいた」と言われたが、ユダヤ人のことには触れられなかった[86]。もう1人のドイツ人生存者、ルース・フォスターは、彼女が大虐殺について聞いたことを次のように述懐している:

 私たちが到着する3日前に、彼らはリガとその周辺の町からゲットーに入った3万人のラトヴィアのユダヤ人を殺害したことが判明しました。彼らを群れにして近くの森に連れて行き、そこには、以前にロシア人捕虜たちが彼らのために墓を掘っていました。

 彼らは完全に服を脱がなければならず、脱いだ服をきちんと整理しなければならなかった。そして、彼らはピット(穴)の縁に行き、機関銃でなぎ倒されました。だから私たちがリガに来たとき、私たちはそのかわいそうな人々が追い出されて殺された後の家に住んでいたのです。


 - リン・スミス著、「思い出す:ホロコーストの声」、pp。100、114、128。

 2ヵ月後、ゲットーに到着したドイツのユダヤ人は、そのときなお、地下室や屋根裏部屋で殺害されたラトヴィアのユダヤ人の遺体を発見していた[87]。

ヴァンゼー会議(Wannsee Conference)

 ラトヴィアのアインザッツ・コマンド2の指揮官であるルドルフ・ランゲ(Ludolf Lange)は、悪名高いヴァンセー会議に招待され、いわゆるユダヤ人問題に対する最終解決案についての彼の見通しについて提案した。ナチスは、射殺が何百万人もの人を殺すための実現可能な方法であるとは思わなかった。

 なぜなら、親衛隊部隊でさえ、同盟国であるオストジュデン(東部地域のユダヤ人)とは対照的に、同化したドイツのユダヤ人を射殺することは不快なことだったからである[35][88]。バルト地方のドイツ軍政当局の長であるヴィルヘルム・キューブは、ドイツのユダヤ人全般を殺害することに反対しておらず、“我々独自の文化圏から来た者たち”であるとするドイツのユダヤ人に対して、ドイツ人兵士によってたまたま殺されたと反論した。[89] [90]。

現場での後の行動

詳細情報:Sonderaktion 1005

 1943年、証拠を残すことに明らかに懸念を示したヒムラーは、ルンブラの遺体を掘り起こして焼却するよう命じた。(ドイツ占領下のポーランドのベルゼック絶滅収容所でも同様の措置がとられた)。この作業はユダヤ人の奴隷労働者を派遣して行われた。鉄道で旅している人々は、遺体を燃やす臭いを感じたことだろう。[3]

 第二次世界大戦中に子供だったラトヴィア共和国大統領、ヴァイラ・ヴィーチェ=フレイベルガ(VairaVike-Freiberga)は、2001年に開催された60年周年記念式典で、大量虐殺について語った。「ルンブラからの煙が流れてくると臭いがした。そこでは、証拠を消すために死体が掘り起こされ、焼却されていた。」[91]。

正義

 ルンブラの殺人犯の一部は司直の手にかかった。ヒンリッヒ・ローゼ(Hinrich Lohse)とフリードリッヒ・ヤンケ(Friedrich Jahnke)は西独の裁判所で起訴され、投獄の刑に処せられた[92] [93]。ヴィクター・アライス(Victors Arajs)は西ドイツで長い間逮捕を逃れたが、最終的には1979年に終身刑を宣告された[94]。

 ヘルベルツ・ククールス(Herberts Cukurs)は南アメリカに逃げ、そこで暗殺された、とモサドの調査官らが述べている[95]。エドゥアルト・シュトラウヒ(Eduard Strauch)はアイザッツグルッペン(Einsatzgruppen)事案で有罪判決を受け、死刑判決を受けたが、死刑が執行される前に刑務所で死亡した[96]。 フリードリッヒ・イェッケルン(Friedrich Jeckeln) は1946年2月3日、ソ連当局の前で裁判の後、リガにおいて公開絞首刑となった[97]。

-本稿終了-


ルンブラのユダヤ人墓地  出典・Source:Wikimedia Commons
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脚注

1. Ezergailis 1996b, p. 239.

2. Einsatzgruppen trial, p. 16, Indictment, at 6.F: "(F) On 30 November 1941 in Riga, 20 men of Einsatzkommando 2 participated in the murder of 10,600 Jews."

3. Ezergailis 1996b, pp. 4-7, 239-70.

4. Edelheit, History of the Holocaust. p. 163: "Aktion Jeckeln, named after its commander, Hoeherer SS- und Polizeifuhrer Friedrich Jeckeln. Undertaken in the Riga ghetto, the Aktion took place between November 30 and December 7, 1941. During the Aktion some 25,000 Jews were transported to the Rumbula Forest and murdered."

5. Ezergailis 1996b, pp. 211?2.

6.Einsatzgruppen judgment, p. 418.

7. Riga trial verdict excerpts, as reprinted in Fleming 1994, pp. 78?9.

8. Ezergailis 1996b, p. 33n81.

9. Fleming 1994, p. 88.

10. As Lohse appeared in 1941 in an announcement in Latvia newspapers following the German occupation.

11. Stahlecker report, at 985: "Special detachments reinforced by selected units -- in Lithuania partisan detachments, in Latvia units of the Latvian auxiliary police -- therefore performed extensive executions both in the towns and in rural areas."

12. A serious and deadly (approximately 400 Jews murdered) riot in Riga in early July 1941 was one exception.

13. Stahlecker, report, at 986: "In Latvia as well the Jews participated in acts of sabotage and arson after the invasion of the German Armed Forces. In Duensburg so many fires were lighted by the Jews that a large part of the town was lost. The electric power station burnt down to a mere shell. The streets which were mainly inhabited by Jews remained unscathed."

14. Friedlander, The Years of Extermination, at page 223, refers to the Stahlecker report as evidence that Nazi efforts to induce local pogroms were in general failures in the Baltic states.

15. Stahlecker report, at 984-85: "It proved much more difficult to set in motion similar cleansing actions in Latvia. Essentially the reason was that the whole of the national stratum of leaders had been assassinated or destroyed by the Soviets, especially in Riga. It was possible though through similar influences on the Latvian auxiliary to set in motion a pogrom against Jews also in Riga. During this pogrom all synagogues were destroyed and about 400 Jews were murdered. As the population of Riga quieted down quickly, further pogroms were not convenient. So far as possible, both in Kowno and in Riga evidence by film and photo was established that the first spontaneous executions of Jews and Communists were carried out by Lithuanians and Latvians.

16. Winter, "Rumbula viewed from the Riga Ghetto, at Rumbula.org

17. Stahlecker report, at 987: "In this connection it may be mentioned that some authorities at the Civil Administration offered resistance, at times even a strong one, against the carrying out of larger executions. This resistance was answered by calling attention to the fact that it was a matter of carrying out basic orders."

18. Reitlinger, Alibi. p. 186n1.

19. Browning, Matthaus. Origins of the Final Solution, pp. 305?7, 406.

20. The reply, coming from Bratigam, of Rosenburg's bureau on December 18, 1941, after the murders, was essentially that Lohse should follow instructions from the SS: "Clarification of the Jewish question has most likely been achieved by now through verbal discussions. Economic considerations should fundamentally remain unconsidered in the settlement of the problem. Moreover, it is requested, that questions arising be settled directly with the Senior SS and Police Leaders.

21. Stahlecker report, at 987: "In Riga the so-called "Moskau suburb" was designated as a Ghetto. This is the worst dwelling district of Riga, already now mostly inhabited by Jews. The transfer of the Jews into the Ghetto-district proved rather difficult because the Latvians dwelling in that district had to be evacuated and residential space in Riga is very crowded, 24,000 of the 28,000 Jews living in Riga have been transferred into the Ghetto so far. In creating the Ghetto, the Security Police restricted themselves to mere policing duties, while the establishment and administration of the Ghetto as well as the regulation of the food supply for the inmates of the Ghetto were left to Civil Administration; the Labor Offices were left in charge of Jewish labor."

22. Fleming 1994, plate 3.

23. Fleming 1994, pp. 99?100: "There can be no doubt that the Higher SS and Police Leader Friedrich Jeckeln received the KVK First Class with swords in recognition of his faithful performance: his organization of the mass shootings in Riga, 'on orders from the highest level' (auf hochsten Befehl).

24. Friedlander, The Years of Extermination, at page 267: "The mass slaughters of October and November 1941 were intended to make space for the new arrivals from the Reich."

25. Friedlander, The Years of Extermination, at page 267

26. Ezergailis 1996b, p. 241: "On November 12, Jeckeln received his order from Himmler to kill the Jews of the Riga ghetto." Other sources give the date of Himmler's order as November 10 or November 11. Fleming, Hitler and the Final Solution, at 75

27. Fleming 1994, pp. 75?7.

28. Eksteins, Walking Since Daybreak, page 150

29. Ezergailis 1996b, pp. 241?2.

30. Jeckeln interrogation excerpts, reprinted in Fleming 1994, pp. 95?100.

31. Klee and others, eds., The Good Old Days. pp. 76-86.

32. Ezergailis 1996b, pp. 240?1.

33. Rubenstein and Roth describe Jeckeln's system (p. 179): "In the western Ukraine, SS General Friedrich Jeckeln notices that the haphazard arrangement of the corpses meant an inefficient use of burial space. More graves would have to be dug than absolutely necessary. Jeckeln solved the problem. He told a colleague at one of the Ukrainian killing sites, 'Today we'll stack them like sardines.' Jeckeln called his solution Sardinenpackung (sardine packing). When this method was employed, the victims climbed into the grave and lay down on the bottom. Cross fire from above dispatched them. Then another batch of victims was ordered into the grave, positioning themselves on top of the corpses in a head-to-foot configuration. They too were murdered by cross-fire from above. The procedure continued until the grave was full."

34. The Tribunal's judgment states (p. 444): "In some instances, the slain persons did not fall into the graves, and the executioners were then compelled to exert themselves to complete the job of interment. A method, however, was found to avoid this additional exertion by simply having the victims enter the ditch or grave while still alive. An SS eyewitness explained this procedure.
'
35. The people were executed by a shot in the neck. The corpses were buried in a large tank ditch. The candidates for execution were already standing or kneeling in the ditch. One group had scarcely been shot before the next came and laid themselves on the corpses there.'"

36. According to the judgment of the Tribunal in the Einsatzgruppen case (p. 448): "It was stated in the early part of this opinion that women and children were to be executed with the men so that Jews, gypsies, and so-called asocials would be exterminated for all time. In this respect, the Einsatzgruppen leaders encountered a difficulty they had not anticipated. Many of the enlisted men were husbands and fathers, and they winced as they pulled their triggers on these helpless creatures who reminded them of their own wives and offspring at home. In this emotional disturbance they often aimed badly and it was necessary for the Kommando leaders to go about with a revolver or carbine, firing into the moaning and writhing forms." This situation was reported to the RSHA in Berlin, and to relieve the emotional sensitivity of the executioners, gas vans were sent as an additional killing system. Angrick & Klein 2012, p. 152.

37. From the transcript of the Einsatzgruppen trial:

38. Ohlendorf: Some of the unit leaders did not carry out the liquidation in the military manner, but murdered the victims singly by shooting them in the back of the neck.

39. Col. Amen: And you objected to that procedure?

40. Ohlendorf: I was against that procedure, yes.

41. Col. Amen: For what reason?

42. Ohlendorf: Because both for the victims and for those who carried out the executions, it was, psychologically, an immense burden to bear.

43. Green series, Volume IV, p. 443, quoting Einsatzgruppe commander Paul Blobel.

44. This also allowed some deniability because should the bodies be discovered, the claim could be made that since the victims had been shot with Russian bullets, the NKVD or some other Communist organization was responsible.

45. The Tribunal's judgment in the Einsatzgruppen case states (p. 444): "In fact, one defendant did not exclude the possibility that an executee could only seem to be dead because of shock or temporary unconsciousness. In such cases it was inevitable he would be buried alive."

46. Ezergailis 1996b, p. 242.

47. Browning. Nazi Policy, p. 143.

48. Ezergailis 1996b, pp. 243?5.

49. Ezergailis 1996b, pp. 248?9.

50. Fleming 1994, pp. 83?7.

51. Max Kaufmann, a ghetto survivor, reported one "Altmeyer" as one of the guards forming up the columns of Jews in the ghetto on the morning of November 30, but whether this is the same person with whom Bruns spoke is not clear from the sources. Kaufmann 2010, pp. 60?1.

52. Fleming 1994, pp. 80?2

53. Michelson, Frida, I Survived Rumbuli, pp. 74-7.

54. Ezergailis 1996b, pp. 247?8.

55. Kaufmann 2010, pp. 59-61.

56. Browning, Matthaus. Origins of the Final Solution, p. 396.

57. Hilberg, Destruction of European Jews. p. 365.

58. The Einsatzgruppen judgment stated (p. 418): "In time the authors of the reports apparently tired of the word 'shot' so, within the narrow compass of expression allowed in a military report, some variety was added. A report originating in Latvia read --

59. 'The Higher SS and Police leader in Riga, SS Obergruppenfuehrer Jeckeln, has meanwhile embarked on a shooting action [Erschiessungsaktion] and on Sunday, the 30 November 1941, about 4,000 Jews from the Riga ghetto and an evacuation transport from the Reich were disposed of." (NO-3257)

60. And so that no one could be in doubt as to what was meant by 'Disposed of', the word 'killed' was added in parentheses."

61 . Roseman, The Wannsee Conference. pp. 75-7.

63. Fleming 1994, p. 89.

64. Browning. Nazi Policy, pp. 52-4.

65. Kaufmann 2010, pp. 61-2.

66. Ezergailis 1996b, p. 252.

67. Kaufmann 2010, pp. 60-1.

68. Ezergailis 1996b, p. 267n55.

69. Ezergailis 1996b, pp. 192, 267.

70. The 10 kilometer distance is supplied in Ezergailis 1996b, p. 251.

71. Ezergailis 1996b, p. 251.

72. Kaufmann 2010, p. 63.

73. Ezergailis 1996b, pp. 253?4.

74. Reprinted in Fleming 1994, pp. 95?100.

75. Fleming 1994, p. 88.

76. Reichskommissariat Ostland was the German name for the Baltic states and nearby areas which they had conquered.

77. Ezergailis 1996b, p. 254.

78. Ezergailis 1996b, p. 259.

79. Michelson, Frida, I Survived Rumbuli. pp. 77-8.

80. Kaufmann 2010, pp. 63-4.

81. Kaufmann 2010, pp. 64?5.

82. Friedlander, The Years of Extermination. pp. 261-3.

83. Michelson, Frida, I Survived Rumbuli. pp. 85-8.

84. Ezergailis 1996b, pp. 256-7.

85. Kaufmann 2010, pp. 68-9.

86. Michelson, Frida, I Survived Rubuli. pp. 89-93.

87. Ezergailis 1996b, pp. 257?61.

88. Kaufmann 2010, p. 150.

89. Eksteins, Walking Since Daybreak. p. 150, citing Press, Bernard, Judenmort in Lettland, 1941-1945, Berlin: Metropol 1992. p. 12.

90. Dribins, Leo; G?tmanis, Armands; Vestermanis, Mar?ers (2001). Latvia's Jewish Community: History, Tragedy, Revival. Riga: Latvijas V?sturnieku komisija (Commission of the Historians of Latvia).

91. Friedlander, The Years of Extermination. p. 262: "A few months later, on June 26, 1942, SS Obersturmfuhrer Heinz Ballensiefen, head of the Jewish section of Amt VII (research) in the RSHA, informed his colleagues that in Riga his men had secured (sichergestellt') about 45 boxes containing the archive and library of the Jewish historian Dubnow.

92. Kaufmann 2010, p. 70.

93. Smith, Remembering. pp. 100, 114, 128, reporting statement of Ruth Foster.

94.Reitlinger, Alibi. p. 282: "As early as October 1941 Jews had been sent from Berlin and other Reich cites to the already hopelessly overcrowed Lodz ghetto. Before the end of the year deportations had followed to ghettos in the Baltic states and White Russia."

95. Smith, Remembering. p. 113, reporting statement of Ezra Jurmann: "We arrived in the ghetto and were taken to a group of houses which had obviously been left in a hurry: there was complete turmoil, they were completely deserted and they had not been heated. In a pantry there was a pot of potatoes frozen solid. ... Complete chaos. Ominous. On the walls, a message said, 'Mama, farewell.'"

96. Ezergailis 1996b, pp. 254-6.

97. Breitman, Architect of Genocide. p. 220, discusses Himmler's concerns about the effect on his men's morale of the mass killings of German Jews at Riga and elsewhere.

98. Friedlander, The Years of Extermination. pp. 362-3.

99. David Cesarani, Eichmann: His Life and Crimes (Vintage 2005). p. 110.

90. "Styopina, Anastasia, "Latvia remembers Holocaust killings 60 years ago" Reuters World Report, November 30, 2001". Archived from the original on March 10, 2005. Retrieved 2009-03-10. .

91. Bloxham, Genocide on Trial. p. 198.

92. Ezergailis 1996b, pp. 16, 245-8.

94. Bloxham, Genocide on Trial. pp. 197-9.

95. Kuenzle, Anton and Shimron, Gad, The Execution of the Hangman of Riga: The Only Execution of a Nazi War Criminal by the Mossad, Valentine Mitchell, London 2004 ISBN 0-85303-525-3.

96.Eduard Strauch (German wikipedia).

97. Edelheit, History of the Holocaust. p. 340: Jeckeln was " ... responsible for the murder of Jews and Communist Party officials ... convicted and hanged in the former ghetto of Riga on February 3, 1946.

参照
Historiographical
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Further reading
Katz, Josef, One Who Came Back, University of Wisconsin Press, (2nd Ed. 2006) ISBN 978-1-928755-07-4

Iwens, Sidney, How Dark the Heavens?1400 Days in the Grip of Nazi Terror, Shengold Publishing (2d ed. 1990) ISBN 978-0-88400-147-8

Michelson, Max, City of Life, City of Death: Memories of Riga, University Press of Colorado (2001) ISBN 978-0-87081-642-0

External links
Media related to The Holocaust in Latvia at Wikimedia Commons

The Holocaust in Latvia and Latvia's Jews Yesterday and Today

Remembering Rumbula

Killed in Rumbala forest

Ministry of Foreign Affairs of the Republic of Latvia, Holocaust Education, Research and Remembrance in Latvia, 16 Sept 2003

(in German) Berliner Zeitung, Das Lange Warten des Abram Kit, 29 October 1997

(interviews with Rumbula survivors)

出典:Wikipedia英語版より日本語に翻訳
English Version of Wikipedia Rumbula massacre


欧州におけるナチスドイツの強制収容所。
ルムブラ大虐殺はラトヴィアのリガ近くの森林で行われた。
地図上、上部中央より少し右側にある。
出典・Source:Wikimedia Commons

この地図は西側(左側)がバルト三国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)、中央が
ベラルーシュ(ソ連時代は白ロシア)、南西(左下)がポーランド東部、さらに
北から北東(右上)がソビエト(現在のロシア)の位置を示している。
ルンブラ大虐殺は西部ラトヴィアのカイザーヴァルトのすぐ北にある。
出典・Source:Wikimedia Commons



ラトビアのホロコーストのもう1人の加害者であるナチフランツウォルタースタレッカーが
この地図を作成しました。棺に描かれ、ルンブラ虐殺の前にラトビアに
まだ35,000人のユダヤ人が残っていたことを示しています。
レポートによると、エストニアは「ユダヤ人がいない」(judenfrei)です。
出典・Source:Wikimedia Commons
By <a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Franz_Walter_Stahlecker" class="extiw" title="en:
Franz Walter Stahlecker">Franz Walter Stahlecker</a> (1900–1942) - <a rel="nofollow" class="external text
" href="https://web.archive.org/web/20111027061531/http://www.ushmm.org/museum/exhibit/online
/kovno/mass/coffin.htm">United States Holocaust Memorial Museum</a>. See also: <a
rel="nofollow" class="external text" href="http://www.ushmm.org/priv_acc/disclaimer/">
USHMM general disclaimer</a>. (image originally was uploaded on en.wikipedia by <a href=
"https://en.wikipedia.org/wiki/user:Goodoldpolonius2" class="extiw" title="en:user:Goodoldpolonius2">
en:user:Goodoldpolonius2</a>), Public Domain, Link
Memorial marker in Rumbula forest (Holocaust Site - Riga)
ルンブラの森、記念碑(リガのホロコーストの地)
Source;Wikimedia Commons
By <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.flickr.com/people/
41000732@N04">Adam Jones</a> - <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/Flickr" class="mw-redirect" title="Flickr">Flickr</a>: <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.flickr.com/photos/41000732@N04/5835646151">Memorial Marker -
Rumbula Forest Holocaust Site - Riga - Latvia</a>, CC BY-SA 2.0, Link

Memorial marker in Rumbula forest (Holocaust Site - Riga)
ルンブラの森、記念碑(リガのホロコーストの地)
Source;Wikimedia Commons
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title="User:Avi1111">Avi1111</a> dr. avishai teicher -
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出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
 ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇

出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇

出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
Rumbula's Echo Excerpts: Survivors Remember
the Mass Murders at Rumbula(Moive)
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
この写真はベルリンからリガに到着した際のものでユダヤ人が送られてきた。
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
出典:RUMBULA A JEWISH TRAGEDY IN LATVIA (Movie)
この写真はベルリンからリガに到着した際のものでユダヤ人が送られてきた。
ラトヴィアアにおけるルンブラのユダヤ人悲劇
これは有名な写真。処刑寸前のユダヤ人女性。場所は類似の
大虐殺があったバビ・ヤール大虐殺である。
ルンブラでも、ほぼこのような形でユダヤ人が殺害されたものとも思われる。
Source:Wikimedia Commons
Door generally ascribed to Carl Strott (Nazi war criminal), but some sources differ.
- U.S. Holocaust Memorial Museum, image number 19121, Publiek domein, Koppeling

この写真はリトアニアのヴィュニスにおける大量虐殺虐地、ポナリーのものだが、
ルンブラの森の大虐殺でも同じ方法で行われたものと推察される
Source:Wikimedia Commons
By Source (WP:NFCC#4), Fair use, Link
この写真はWikipedia のアインザッツグルッペン(移動虐殺部隊)の解説で
使用された写真だが、これとほお同じ形式で大量虐殺がお行われたものと推察される。
Source:Wikimedia Commons
Public Domain, Link

この写真はリトアニアのヴィュニスにおける大量虐殺虐地、ポナリーのものだが、
ルンブラの森の大虐殺でも同じ方法で行われたものと推察される
Source:Wikimedia Commons
CC BY-SA 3.0, Link