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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所(概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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 本稿はWikipedia のルーマニアの歴史からルーマニアのホロコースト部分を抜粋し、多くの注をつけたものである。青山貞一

前略

 1923年のルーマニア憲法では、クザの民族キリスト教徒守護同盟(Liga Apărării Naţional Creştine)の反対やヤシでの極右学生の暴動を受けながらもこれらの要求が承認された[60]。イオン・I・C・ブラティアヌ(Ion I.C. Brătianu)内閣によって行われた農地改革により、土地借用に関する問題も決着をみた。

 注)ヤシ
  ヤシはルーマニア北東部、モルダヴィア地方の中央に位置する都市。
  ルーマニア東部の主要都市の1つで、かつてのモルダヴィア公国の首
  都。ルーマニア第2の都市でもある。ヤッシーとも。ヤースヴァーシャー
  ルというのはチャーンゴー人に好まれる言い方でもある。

  現在は同名のヤシ県の県都である。

 戦間期のユダヤ人共同体の政治的代弁者は、ユダヤ人党とルーマニア・ユダヤ人連邦党に二分された[61](後者は1989年以後に再結成されている)。同じ時期、トランシルヴァニアの改革派ユダヤ教徒と、国内の残りを占める正統派ユダヤ教徒の間で宗教儀礼上の分裂も明らかとなっていた[62]。一方でベッサラビアはシオニズム、特に社会主義者の労働者シオニズム (Labor Zionism) に最も寛容であった。

 注)ベッサラビア(ルーマニア語:Basarabia)
  ベッサラビアは、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア
  公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割
  譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。


 そのような状況ではあったが反ユダヤ主義は広がりをみせ、1920年代後半にはファシズムの風潮と融合していった。これらはいずれもコルネリウ・コドレアヌの鉄衛団の創設と成功を促し、グンディリスム (Gândirism) という反ユダヤ主義の新たな主張を生んだ。

 注)鉄衛団(ルーマニア語、英語:Iron Guard)
  鉄衛団は、1927年から第二次世界大戦の初期にかけて、ルーマニアで起
  こった極右の反ユダヤ主義民族運動、およびそれを推進した政党。1940
  年から1941年まで政権を獲得した。


 学生や教師の間では高等教育におけるユダヤ人配分論(Jewish quota、ユダヤ人の人口割合を制限する構想)が高い人気を誇った[63]。歴史家アンドレイ・オイシュテアヌの分析によれば、アレクサンドル・C・クザの暴力的主張によって反ユダヤ主義の評価が芳しいものではなくなっていたため、右翼の知識人にも反ユダヤ主義を公然と支持することを拒む者が相当数あった。しかし数年後にはそうした警戒は顧慮されなくなり、反ユダヤ主義は"精神の健康"として誇示されるようになった[64]。

 1937年5月16日、専門知識人協会連盟(Confederaţia Asociaţiilor de Profesionişti Intelectuali din România)が連携団体からの全ユダヤ人構成員の排除を評決し、国に対して彼らの諸認可を取り消して市民権を再査定することを申し立てた[65] 。この施策は専門家組織からのユダヤ人排斥の動きとして最初のものであり、非合法ではあったものの支持を受け、この場合は「英雄的な決定」が合法性に成り代わったのであると論評された[66]。オイシュテアヌによれば、この発議は続く年に可決された反ユダヤ的な諸々の規定に直接的な影響を与えた[67]。

 鉄衛団の脅威およびヨーロッパの一大勢力としてのナチス・ドイツの出現、さらに自身のファシズムへの同調により、広く親ユダヤとみなされていたカロル2世(愛人マグダ・ルペスクはユダヤ人とされる)は人種差別を規範的なものとして受容するようになった[68]。

 1938年1月21日、カロルの執行部(クザとオクタヴィアン・ゴガが率いた)は、前内閣がウクライナ系ユダヤ人が非合法的に市民権を得るのを許していたと論難した後、市民権の資格を見直し[69]、1918年から1919年の間に市民権を得た全てのユダヤ人に申請のやり直しを求める法案を通過させた(再申請の期限は20日間という極めて短いものである)[70]。

 1940年、イオン・ギグルトゥ内閣はナチス・ドイツのニュルンベルク法と同等の法律を採択した。その内容は、ユダヤ教徒とキリスト教徒との異宗教間結婚を禁止し、人種に基づいたユダヤ人の定義を定めるものであった(父方・母方を問わず祖父母にユダヤ人が含まれる者をユダヤ人と規定)[71]。


ルーマニアのホロコースト

ヤシ・ポグロムの犠牲者

 鉄衛団と民族主義者の連立政権が1942年に樹立していた間、80もの反ユダヤ規定が議会を通過した。1940年10月終わりに始まった鉄衛団の強固な反セム民族運動では、ユダヤ人を拷問にかけ、彼らの商店を略奪し(北部の都市ドロホイで起きたポグロム)、ブカレストで起きた民族蜂起とポグロムで頂点に達し、120人のユダヤ人が殺害された[72]。イオン・アントネスクはただちに暴力をやめさせ、鉄衛団によって創り出された混沌が残虐に暴動を制圧した。

 この時からルーマニアは戦争に突入したが、ユダヤ人に対する凶行は一般的なものとなっていった。1941年7月に10,000人以上のユダヤ人が犠牲となったヤシ・ポグロムが最も有名である。

 鉄衛団が粛清されると、ナチス・ドイツと同盟したアントネスク政権が圧政とユダヤ人虐殺、そしてより少数のロマ人の虐殺を続けたのだった。

 1941年7月から8月には、ヤシ、バカウ、チェルナウツィといった都市で地元民が率先して黄色のバッジ(ユダヤ人であることを示すダヴィデの星の形をしていた)をユダヤ人に強制した。同じような条例が政権によってわずか5日間(1941年9月3日から8日まで)課されたが、アントネスクの命令で無効となった[73]。しかし、地元の発案において、バッジは特にモルダヴィアとベッサラビア、ブコヴィナの諸都市(バカウ、ヤシ、クンプルング、ボトシャニ、チェルナウツィなど)で特に以後も付けられていた[74]。

 2004年にルーマニア政府によって発行された国際委員会報告によると、ルーマニア国内、戦地となったベッサラビア、ブコヴィナ、トランスニストリア(Transnistria、第二次世界大戦中、西進してきたソビエト連邦軍が占領したルーマニアの一部を指す名称。現在の沿ドニエストル共和国とほぼ同じ場所)で、280,000人から380,000人にのぼるユダヤ人が殺された[75][76]。

 1941年、バルバロッサ作戦以後進軍するルーマニア軍は、ユダヤ人のパルチザンにより攻撃を受けたと主張した。アントネスク将軍はトランスニストリアへのユダヤ人の追放を命じた。よってベッサラビアとブコヴィナにいた80,000人から150,000人の間の人数であったというユダヤ人が、国策プロパガンダによって共産主義者の手先とみなされた。

 注)バルバロッサ作戦
  バルバロッサ作戦(ドイツ語: Unternehmen Barbarossa 、英語Operation
  Barbarossa)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたドイツ
  国によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。今日では独ソ戦
  序盤の戦闘の総称とされる場合もある。枢軸国以外にも、親枢軸のスペ
  インやフランス国(ヴィシー政権)が派兵している。


 しかし"追放"は遠回しな言い方であった。東へ向かう"死の列車"に乗ってユダヤ人が追放される以前に、この追放過程の一部が多くのユダヤ人が無慈悲に殺害されるのを可能にしたも同然であったのである。


 ブコヴィナとベッサラビアで最初の『民族浄化』から逃れた人々のごく一部だけが、生き残って列車に乗せられ、トランスニストリアで強制収容所へ入れられた。さらにアントネスクの殺害担当班によるユダヤ人を標的とした殺害が行われた(公文書が、彼の直接の命令と関与を証明していた)。

 ルーマニア軍は、トランスニストリアを占領した時、ユダヤ人を検挙することを命じられていた。無数のユダヤ人たちがオデッサ、ボグダノヴカ、アクメツェトカ強制収容所といった地で1941年と1942年に虐殺された。オデッサで1941年秋から1942年にかけ起きたオデッサの虐殺 (Odessa Massacre) では、ルーマニア軍によって100,000人以上のユダヤ人が銃殺された。


奪われて発砲した後のブカレストのセファルディック寺院
(軍団の反乱とポグロムの間に起こった出来事)
Source:Wikimedia Commons
By unknown/uncredited - Matatias Carp, Cartea neagră. Suferinţele evreilor
din România: 1940—1944. I: Legionarii şi rebeliunea, Dacia Traiană (Socec),
Bucharest, 1947 (accessible through <a rel="nofollow" class="external text" href="http://digitool.dc.bmms.ro:8881/R?RN=709438175">DacoRomanica
(Bucharest City Library)</a>), Public Domain, Link

 アントネスクは1943年にナチス・ドイツから圧力を受けたにもかかわらず、ユダヤ人追放を停止した。彼は連合国側との和平を模索し始めたのである。一方で、同時期彼は残っていたユダヤ人共同体に重税を課し、強制労働を強要していた。

 アントネスク政権の奨励をもって戦時中、13隻のボートがルーマニアを発ってイギリス保護領パレスチナへと向かった。このボートには13,000人のユダヤ人が乗っていた(13隻のうち2隻が沈んだ。ドイツの圧力が加わってから国外脱出の努力は続けられなくなった)。

 ベッサラビア、ブコヴィナ、かつてのルーマニア、ドロホイ県で暮らしていた320,000人のユダヤ人の半数が、ルーマニアが第二次世界大戦に参戦した1941年の数ヶ月で殺害された。最初の殺害後でさえ、モルダヴィア、ブコヴィナ、ベッサラビアのユダヤ人はさらなるポグロムにあい、ゲットーに集められていた彼らは強制収容所へ送り込まれた。

 これらの強制収容所を建設・運営していたのはルーマニア人であった。この地域での死者数は定かでない。しかし、少なく見積もった概算でおよそ250,000人のユダヤ人(そして25,000人のロマ人)が東部地域で殺された。

 一方、トランシルヴァニアにいた150,000人のユダヤ人のうち120,000人が戦時中ハンガリー人の手で殺されたのである。

 ルーマニア兵は、占領した地域でユダヤ人を虐殺するドイツのアインザッツコマント(親衛隊が運営した準軍事組織、アインザッツグルッペンの一局)と行動を共にしていた。アントネスクの政府は、ルーマニア旧王国(19世紀半ばに2公国が合同してルーマニア公国となった当時の領土)からベウジェツ強制収容所へと多くのユダヤ人を追放する計画を練ったが、実現することはなかった。

 東欧・中欧の多くの国々でくっきりと対照をなしたが、在ルーマニアのユダヤ人の多数が戦争に生き残った。彼らは広い年齢層で、強制労働、財政的刑罰、差別的な法律といった過酷な状況から生還したのである。しかし、犠牲者の人数は、エリ・ヴィーゼル委員会によるとルーマニアは、"枢軸国全ての中で、ドイツ本国の他のどの国々よりも、多くのユダヤ人を死に至らしめた責任を負う"とみなされている[76]。


脚注

Ornea, p.397; Veiga, p.246, 264

Royal Decree, 1938, art.6

Glenny, Misha. The Balkans: Nationalism, War and the Great Powers 1804-1999. p.455-57

Decree, 1940; Ornea, p.391-393

Oi?teanu (1998), p.230-231; Andrei Oi?teanu suggested Wilhelm Filderman, the Jewish
community's president, influenced Antonescu's decision

Oi?teanu (1998), p.231

Chapter 11 - Solidarity and Rescue, Wiesel Commission - "Final Report of the International Commission on the Holocaust in Romania" [1]

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Sachar, Howard M.:Israel and Europe: An Appraisal in History

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"The Golden Dynasty - Chapter 15". Nishmas.org. Retrieved 2014-04-28.
ヤシポグロムの犠牲者
Source:Wikimedia Commons
By An unknown journalist - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://adevarul.ro/locale/iasi/imagini-atroce-timpul-pogromului-
iasi-7_52a73f70c7b855ff569a824e/
2_52a7410bc7b855ff569a8b83.html">Cartea Neagră</a>,
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ファルティチェーニのユダヤ人殉教者の記念碑
Source:Wikimedia Commons
By Original uploaded by <a href="https://he.wikipedia.org/wiki/User:Calarasu
" class="extiw" title="he:User:Calarasu">Calarasu</a> (Transferred by <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Aviados" title="User:Aviados">
Aviados</a>) - Created by author., Public Domain, Link
ヤシからカララシまたはポドゥルイオアイへのルートに沿って、ルーマニア人はポグロムに続いてヤシから強制送還されたユダヤ人を運ぶ列車から死体を取り除きます。ルーマニア、1941年6月下旬または7月上旬。
Source:Wikimedia Commons
By <span lang="en">Unknown author</span> - Historisches Archiv der Stadt Koln,
Public Domain, Link
イアシュ通りのユダヤ人遺体29 6 1941
Source:Wikimedia Commons
By a unknown jurnalist - Cartea Neagră, Public Domain, Link
イアチのユダヤ人に対する大規模な行動の一部を描いた写真
Source:Wikimedia Commons
By a unknown jurnalist - Cartea Neagră, Public Domain, Link
イアチのユダヤ人に対する大規模な行動の一部を描いた写真
Source:Wikimedia Commons
By unknown jurnalist - Cartea Neagră, Public Domain, Link
トランスニストリアでのルーマニア人の護衛によって殺害されたユダヤ人のルーマニア人強制送還者。東部戦線の背後にある絶滅の「弾丸によるホロコースト」段階で実行されたいくつかの虐殺の1つ。元のキャプションによると、この特定の犯罪は、現代のウクライナのコトフスクのすぐ外にある「ブリズラ(バルズラ、ビルズラ)とグロズドヴカの間」で行われました。この特定の殺害については、カープの本の259ページにあるカープも詳しく述べています。同じページのカープのメモによると、これはベッサラビアのユダヤ人がトランスニストリアに到着した最初の船団であり、ヴェルティウジェニの強制収容所からの距離を歩いて作られた。この3月の間引きに関する情報は、最終報告書、2004年英語版Polirom版にも掲載されています。p。139。
Source:Wikimedia Commons
By <span lang="en">Unknown author</span> - Matatias Carp, Cartea neagră. Suferințele evreilor din România: 1940—1944. III: Transnistria, Dacia Traiană (Socec), Bucharest, 1947,
planșa X, p. 250 (accessible through <a rel="nofollow" class="external text" href="http://digitool.dc.bmms.ro:8881/R?RN=709438175">DacoRomanica
(Bucharest City Library)</a>), Public Domain, Link
ブカレストポグロムの正体不明の(切断された)犠牲者。ブカレスト食肉処理場で拷問を受けて死亡した数人のユダヤ人男性の1人。遺体は収集下水道から取り出されました。
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By unknown/uncredited - Matatias Carp, Cartea neagră. Suferinţele evreilor
din România: 1940—1944. I: Legionarii şi rebeliunea, Dacia Traiană (Socec),
Bucharest, 1947 (accessible through <a rel="nofollow" class="external text" href="http://digitool.dc.bmms.ro:8881/R?RN=709438175">DacoRomanica
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イアジーポグロム記念碑の犠牲者
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ルーマニアのユダヤ人(2002年の国勢調査)
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Olahus</a> - <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>,
CC BY-SA 3.0, Link
地方の主な民族(2011)
Source:Wikimedia Commons
By <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Andrein" title="User:Andrein">Andrein
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results of the 2011 census, CC BY-SA 3.0, Link
地方の主な宗教(2002)
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</a> - <span class="int-own-work" lang="en">Own work</span>,
CC BY-SA 3.0, Link