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身延山久遠寺 1:概要
Kuon Temple in Mt.Minobu

青山貞一・池田こみち
 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年9月9日
 

山梨県身延町にある身延山久遠寺
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 


身延山総合目次
久遠寺1  久遠寺2  久遠寺3   久遠寺4  塔頭  奥之院  七面山
法華経1
 法華経2  法華経3  法華経4  法華経5


本文

 2021年8月12日、私達は、休養中の群馬県の北軽井沢から真南にある山梨県の身延町にある身延山久遠寺を訪問しました。以下のグーグル地図はその後、開通した中部横断道の南部分による走行距離と所要時間を著しており、私達が久遠寺を訪問した際は、174kmで4時間以上かかっていました。


出典:グーグルマップ

 以下は日蓮上人の足跡・年表です。

 青山貞一・池田こみちは、今まで千葉県鴨川市、神奈川県鎌倉市、新潟県佐渡市、東京都大田区池上をそれぞれ2~3日間づつ訪問してしており、日蓮上人の足跡については大きくは山梨県身延町だけが残っていました。今回、山梨県身延山久遠寺を訪問したことで、日蓮上人の足跡をほぼ辿ることができました。
 
◆日蓮上人の足跡・年表  

安房 1222年 千葉県安房小湊(現鴨川市)で生まれる (誕生寺)。 
安房 1233年 千葉県安房鴨川の清澄寺で修行。薬王丸と命名。
    1237年 修行に出る(出家) 諸国の寺を訪ね仏教を学ぶ。 
安房 1242年 清澄山に登り
「戒体即身成仏義」を著す。
鎌倉 1251年 幕府がある鎌倉へ。
鎌倉 1260年 
「立正安国論」を著し前執権北条時頼に上程
伊豆 1261年 幕府に捉えられ伊豆、 伊東に流刑(伊東法難)。
鎌倉 1263年 流罪を許され鎌倉に戻る。
安房 1264年 安房小湊近く小松原で法難にあう(日蓮寺)(小松原法難)。
甲斐 1269年 富士山の中腹に登り中腹に法華経を埋めて鎮国に擬す。
鎌倉 1271年 極楽寺良観と雨乞い祈雨対決。鎌倉、霊光寺
鎌倉 1271年 捉えられ佐渡へ配流と決定。
藤沢 1271年 藤沢の龍ノ口で処刑寸前の法難に会う(龍ノ口法難)。
    --刑場跡、その上に後に立つ龍ノ口寺。仏舎利塔。
佐渡 1271年 佐渡に配流決定、寺泊到着。
佐渡 1271年 佐渡・塚原の三昧堂に住む。
佐渡 1271年 塚原から一谷の地に移される。
           「
立正安国論の最終章執筆
佐渡 1272年 
「開目抄」を著す。
佐渡 1273年 
「観心本尊抄」を著し、法華侵攻の神髄を著す。
鎌倉 1274年 佐渡流刑の放免。鎌倉に戻る。
鎌倉 1974年 幕府からの要請に対し蒙古襲来が近いことを伝える。    
     しかし聞き入れられず。その後、甲斐の国にある身延山へ。
甲斐 1274年 波木井実長の招きを受け身延山へ。
甲斐 1274年 以降9年間身延滞在。
甲斐 1275年 
「撰時抄」を述作
甲斐 1276年 
報恩抄を著す。
甲斐 1278年 重い病気を患う。
甲斐 1281年 極度な衰弱。
甲斐 1282年 弟子らと身延山を下り常陸の国に湯治に向かうが好転せず。
武蔵 1282年 途中、武蔵国池上に。
武蔵 1282年 臨終近く6人の弟子を定め、法事を託す。
武蔵 1282年 池上で入滅。葬送の儀。
武蔵 1282年 仮宝塔を設置し安置。

出典:青山貞一・池田こみち作成


 今年の8月身延山に行くは前後は雨ばかりでしたが、なぜか、身延山を訪問した2021年8月12日だけは、朝から一日中晴天でした。


 
北軽井沢を出発したのは午前8時半、途中さしたる渋滞もなく、下の写真にある身延山久遠寺の入り口に着いたのは、午前11時半でした。


身延山久遠寺の三門
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900
 

 
久遠寺関連の敷地は身延山、七面山を含めると非常に広大ですが、以下は訪問した身延山久遠寺の全体平面図です方位は地図中上がほぼ東となっています。


身延山久遠寺
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900
 

 
身延山久遠寺は、日蓮が佐渡流刑を解かれ鎌倉に戻った後、9年に渡り滞在した場所です。日蓮はその後、体調を悪くし、常陸(茨城県)に湯治に行く途中、武蔵国(東京)の池上で入滅しました。

 
以下は、身延山久遠寺の公式Webによる久遠寺の由緒(縁起)です。

◆身延山久遠寺概要  
出典:身延山久遠寺

 鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。

 当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長公(さねなが)公の領地でした。

 日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。

 このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。

 日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「
身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。

 翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。

 そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。

 その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、
日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。

 日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は連綿と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。日蓮聖人が法華経を読誦し、法華経に命をささげた霊境、身延山久遠寺。総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。


 750年の長きに亘り連綿と歴史を紡ぐ身延山久遠寺。宗祖棲神の霊地身延山では各種研修会や修行体験を開催しています。また身延山に寄宿しての僧侶育成制度も設けています。

身延山久遠寺の歴史

 文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、
佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念しました。

 弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「
身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという。

 日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下りましたが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去しました。

 「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られました。当地では足かけ9ヵ年の生活でした。

 日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人数で生活をしていたと考えられています。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの
身延山をインドの霊鷲山に見立て、信仰の山として位置づけています。

 遺文の3分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられています。身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮の遺言通り今日まで護られています。

 室町時代の文明7年(1475年)には、11世法主日朝により、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転されました。

 戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成されました。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して確固たる地位を確立しました。

 その後、日脱、日省、日亨の三師以降壮大な伽藍を整えて正徳2年(1712年)山内に133坊と最盛期を迎えました。

伽藍消失の歴史

 寛保4年(1744年)下之坊より出火し山内の11坊が焼失しました。

 安永5年(1776年)
七面山の諸堂を焼失しました。文政4年(1821年)西谷御廟の八角堂と拝殿を焼失しました。

 文政7年(1824年)祖師堂から出火大雨の中13棟が焼失しました。文政12年(1829年)五重塔から出火し28棟を焼失し、山内寺中町方の大半も焼失したといいます。

 慶応元年(1865年)中谷の仙台坊から出火し支院17坊小堂8棟を焼失し、さらに延焼して上町、中町、上新町、横町、片隅町、下町の計100軒以上が焼失しました。

 その後、復興されるも、明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火により再び伽藍や寺宝を焼き尽くしましたが、74世法主日鑑の尽力とその後の法主等の力により現在に至っています。

 久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「
身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されています。身延文庫には「諸宗部」に分類されている他山・他衆により筆記・書写された典籍類も含まれています。


身延山久遠寺<2>につづく