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身延山久遠寺 6.補遺:七面山
Keishiin of Mt.Shichimensan

青山貞一・池田こみち (環境総合研究所顧問)
 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年8月19日
 



七面山


七面山は身延山の西方にある霊山で、山頂の敬慎院には法華経の守護神である七面大明神を奉祀しています。

 2021年8月12日の青山貞一・池田こみちの身延山久遠寺訪問では、時間などの関係で久遠寺、奥之院訪問までであり七面山を訪問することは出来ませんでした。次回訪問したいと考えております。

 但し、宿泊の関係で身延町から34km程、早川を上流に向にある宿泊先(早川町)まで行ったこともあり、七面山の北側の麓を車で通ったことになります。、

 そこで、ここでは身延山久遠寺 6 補遺:七面山として、七面山と日蓮上人、お万の方などに関連する資料から以下を紹介いたします。


身延山と七面山、富士川、早川の位置関係
出典:グーグルマップ


・七面山     
主な出典:Wikipedia

 七面山(しちめんさん)は山梨県南巨摩郡にある1,989mの山。三角点は1,982.4m。日本二百名山の一つに選定されています。

 東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳、青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なります。

 
山頂東北部の約73haが歴史的に久遠寺の寺領であり、現在も周囲を早川町に囲まれた身延町の飛地です。

 敬慎院は身延山の西方、標高1982メートルの
七面山山頂近くに位置する寺(宿坊)です。七面山はかつて修験道の山として知られていました。


グーグルマップをもとに池田こみちが作成

 注)上の地図には、「敬慎院」の位置が示されています。

 敬慎院は七面大明神を祀る(法華経信者の守護神、身延山久遠寺の裏鬼門を守る神・身延流祈祷本尊)です。

 特に春と秋の彼岸の中日には富士山頂上からの御来光が有名で当日朝は多くの参拝者、カメラマンで混雑します。

 登山口は山梨県早川町ですが、
山頂一帯は身延町飛地になっています。毎年9月18日夜 - 19日朝まで久遠寺より法主が登山し例大祭を行ないます。境内の裏には枯れることのない池があり、そのほとりには池大善神が古来祀られています。なお、七面山の裏は和端渓といわれる名硯の産地雨畑があります。


・信仰の山     主な出典:Wikipedia

 文永11年(1274年)に日蓮が開いた身延山久遠寺、また法華経を守護するとされる七面大明神(七面天女)を祀る信仰の山で、日蓮書状(「日蓮上人遺文」)にも記されており、日蓮の高弟である日朗が開いたといわれます。

 各所に崩落が見られるため「ナナイタガレ」「オオガレ」とも呼ばれ、日蓮書状にも崩落の様子が記されています。

 
山頂近くの標高1700m付近には敬慎院があり、多くの人が宿坊に宿泊しています。敬慎院から山頂付近にかけては富士山の好展望地として知られます。

 
敬慎院には名物とも言える非常に長い敷布団があり、宿泊者はその布団に並んで寝ます。なおその敷布団を収納する際はロール状に丸めて行きます。

 奥の院には影嚮石(ようごうせき)という七面天女由来の磐座があり、その周りを回りながら願い事をするとよいといいます。

 頂上には一の池、二の池、三の池等、池があります。一の池正面の祠には水晶玉が祀られています。

 富士山のほぼ真西にあるため、春分・秋分の日には、富士山山頂からのご来光が望めます。


・七面山 敬慎院    主な
出典:身延山久遠寺

 法華経の聖地として名高い七面山は、南アルプスをめぐる山々のうちのひとつですが、山岳信仰をもって広く知られている標高1982メートルの美しい霊山です。

 七面山が身延山とともに法華経信仰の聖地となったのは、文永11年(1274)日蓮聖人が身延山に入山されて以来のことです。

 日蓮聖人は身延山に草庵をかまえ、法華経読誦の日々を送りましたが、その草庵をとりかこむ山々のうち西方にひときわ高く屏風のようにそびえたっていたのが七面山です。

 
現在の七面山は、山頂に近い平坦地に身延山久遠寺に属する敬慎院があり、登詣する人々で賑わっています。この敬慎院には、身延山を守護する鎮守神として七面大明神がまつられています。

 そして霊山の大自然は、登詣者の苦行にこたえるかのように、眼前に一大パノラマを展開します。

 七面山への登詣は、険しい山坂を越えて行くものでたいへんな苦行を伴いますが、その道程が修行の道であり、祈りの道です。七面山の麓から山頂に行くには、表参道と裏参道のいずれかを利用しなければ登っていくことはできません。

 所要時間は個人差がありますので一概には言えませんが、登拝口から山頂までの片道を大人で4~5時間が目安です。


・日蓮大聖人と七面天女

 1277(建治3)年のある日、御草庵から少し上ったところにある大きな石(現在の妙石坊境内にある高座石)の上で、日蓮大聖人はいつものように南部実長公をはじめとする弟子や信徒に法を説いていました。

 やがて若く美しい女性がどこからともなく現れ、静かに座に着き合掌礼拝し、大聖人の説法を熱心に聴聞しはじめました。

 弟子や信徒たちが見慣れないこの女性を不審に思ったので、かねてより本来の姿をご存知だった大聖人は「皆に正体を見せてあげなさい」と告げました。

 女性は微笑みながら「水を少し賜りとう存じます」と応えたので、大聖人は傍らにあった水差しに入った身延沢の水を女性の手のひらに一滴落としました。

 すると、この美しい女性はたちまち本来の龍の姿を現じたのです。

 そして、もとの美女の姿に戻り、「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえて、お山を護る法華経の護法神として、人々に心の安らぎと満足を与え続けましょう」とお誓いになると、雲に乗って七面山に飛び去っていきました。

高座石

日朗上人と南部実長公

 日蓮大聖人は七面大明神のお棲まいになる七面山に登り、大明神をお祀りしたいとお考えでしたでしょうが、残念ながらその願い叶うことなく1282(弘安5)年にご入滅されます。

 その後、1297(永仁5)年9月19日、六老僧の一人日朗上人と南部実長公(この当時には出家して日円上人)はついに七面山登山を果たし、七面大明神をお祀りしました。

 このことより、日朗上人を
七面山敬慎院開祖とし、9月19日を開創の日として、毎年大祭を行っています。


敬慎院
Source: WikimediaCommons

七面山大祭

女人成仏とお萬の方


 七面大明神は多くの信仰を集めていますが、もともと女人禁制の七面山がその禁を解かれるのは江戸時代を待たねばなりませんでした。

 徳川家康の側室で、紀伊家の祖頼宣(よりのぶ)、水戸家の祖頼房(よりふさ)の生母である養珠院お萬の方は法華経の熱心な信徒で、ことに身延山22世心性院日遠上人に帰依しました。

 
お萬の方は女人成仏※注参照)が説かれる法華経を守護する七面山への登詣を強く願い、登拝口に程近い白糸の滝で7日間身を清め、ついに女性として初めて登頂を果たしました。

 その法勲を讃え、白糸の滝の傍らには銅像が建てられています。

 
注)女人成仏=古来より地位が低くみられてきた女性も仏になれる
  と説いた教えで、法華経の教説の特色の一。女性には仏になれな
  い五種のさわり(五障)があるとされるが、法華経提婆達多品では
  女性の成仏の現証として八歳の竜女の即身成仏が説かれる。日
  蓮大聖人も女人成仏を法華経が諸経より勝れている点として強調
  している(日蓮宗小辞典・法蔵館より引用、一部改変)。



白糸の滝とお萬の方像
Source: WikimediaCommons

白糸の滝とお萬の方像

七面山 敬慎院    
主な出典:山梨県

 七面山山頂に伽藍を構え、身延山と法華経の信仰者の守護を誓った七面大明神をお祀りしています。

 宿坊は1名から1000名の団体まで宿泊可能。宿泊の方は七面大明神のお姿を辞する御開扉式と勤行に参列して頂きます。お坊さんによる分かりやすい七面山の歴史や、堂内の御案内も評判です。境内から眺む富士山と朝の御来光も絶景です。

 七面山はもともと女人禁制でしたが、徳川家康の側室であるお萬の方が、この白糸の滝にうたれて祈念をこらし、衆僧の阻止をふりきって登詣をはたし女人にもその道を開きました。それ以来、女人禁制がとかれたのと、七面大明神の威光や霊験がますます広く響くようになったので登詣者が増加し、この法勲を永くたたえるために銅像がたてられました。


言い伝え:いわれ

 
日蓮大聖人が身延山で御説法中、妙齢の女人が現れ、いぶかしがる聴衆の声に花瓶の水を一滴与えるとたちまちの内に竜の姿に変化しました。教化を受けた女人は「私は七面山の池に住む者。身延山と法華経を信じる者を守護する事を誓います」と言い残し七面山の方角に飛び去りました。七面山大明神として祀られ720年以上の歴史がございます。


身延山久遠寺・宝物館へつづく