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橋梁談合

 その3
 仕切り屋・神田創造容疑者の素顔

横田一

 初出:日刊ゲンダイ
掲載日2005.8.24
 
 「神田さんは雲の上にいるような方。仕切り屋として10年にわたり君臨してきました」(建設業者)。

 鋼鉄製橋梁の仕切り屋の神田創造容疑者(70)が独占禁止法違反容疑で逮捕された。しかし関係者の人物像は「人のいいオッサン」。犯罪とは全く無縁のような人物が、なぜ堀の中に落ちてしまったのか。

 59年に北海道大学北大工学部土木工学課を卒業し、日本道路公団に入った神田容疑者は、生え抜きの技術系職員(技官)だ。橋梁との出会いは、40歳頃に東北自動車道の建設工事に関わったこと。山間部の路線で橋やトンネルが多かったため、この現場で「橋梁の専門家」として目覚めたという。

 第二の転機は、東京第一建設局第一部長や計画部長を経て企画調査部長(87年11月)に就任したこと。企画調査部(現・企画部)は技官の人事を担当し、天下りの差配もする中枢的な機関で、出世の登竜門ともいわれているからだ。実際、神田容疑者はこの後、大阪建設局長や常任参与を経て、92年には技術系の最高ポストとされた理事を射止めた。一貫して技術畑を歩み、頂点を極めたのだ。

 公団職員はこう振返る。

 「神田さんはいつもニコニコしていて、部下の話にも耳を傾ける良き上司でした。技術系職員(技官)と事務系職員が対立することが多い公団で、事務系からも『いい人』と好感を持たれていた。大きな権限を握る理事になると、傲慢に振る舞いを始める人は珍しくありませんが、神田さんは偉ぶるところが全くありませんでした」。

 実は、こうした人望の厚さこそ、「仕切り屋の絶対的条件」と建設業者は話す。「談合では参加メンバーの信頼感が不可欠。『あの人が決めたのだから従うしかない』と納得し、仲間割れしないことが必要なのです。その点、神田さんは自己中心的ではなく、業界全体の共存共栄を考えるバランス感覚に優れていた。それで仕切り屋に抜擢された。実際、自らが天下った横河ブリッジだけが儲かる割り振りはしなかった」(建設業者)。

 公団を退職した翌95年に横河ブリッジに天下った神田容疑者が、約10年間も仕切り屋を続けられたのは、それ相応の理由があったというのだ。仲間への気配りは他にもある。

 「工事の割り振りは数人で出来る仕事量なのですが、わざわざ談合組織『かずら会』の中に地区幹事などのポストをいくつも作った。OB仲間に仕事を分け与え、天下りの存在意義を失わないようにするためです」(公団関係者)。

 談合業務のワークシェアリングというわけだ。受入れ側の業者もこう話す。

 「OBは一週間に数回出社するだけで、暇を持て余している。要所の会合に顔を出し、“ボーリング”(情報収集)をする位の仕事しかないのだから当然です」

 逮捕直後、神田容疑者は公団の現職の関与を強く否定していたという。「現職の分まで罪をかぶり、公団を守るつもりだったのでしょう。組織の『切られ役』になることを覚悟したとしか思えません。理事時代に役回りとして仕切り屋を始め、退職時には『やっと足を洗える』と開放感に浸っていたのに、OBになって再び仕切り屋に抜擢されてしまった」と公団職員は言葉を詰まらせた。

 身内での評価は高い神田容疑者だが、公金浪費の一翼を担っていたことは紛れもない事実である。