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世阿弥と日蓮の足跡をたどる佐渡の旅

両津湊の金沢屋旅館

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
2018年9月18日公開
独立系メディア Media E-wave Tokyo  
無断転載禁
佐渡現地視察総合目次    
 
  両津港  両津湊の金沢屋旅館  金沢屋展示物@  金沢屋展示物A
  加茂湖  加茂湖と両津湊  両津湊と町並@   両津湊と町並A
  両津湊の食堂・よろこんで    両津湊の鬼太鼓(オンデコ)


 今回の佐渡旅行は、ひょんなことからはじまった。

 というのも、毎年、夏休みに東京から北軽井沢にある研究所の別荘に1週間ほど保養に出かけているが、すでに15年間それを繰り返していると、少々マンネリ化してくる。

 そこで、グーグル地図で北軽井沢から直江津経由で佐渡に行く道路検索をしたら、結構、短時間で佐渡に行けることが分かった。そこで夏休みの後半、三泊四日で北軽井沢から車で佐渡に行くことを計画した。

 8月に入ってからの計画、ネックとなったのは宿泊だった。

 当然のこととして、大部分のホテルや旅館は満杯、民宿もほとんど満杯だった。あきらめかけていた時、Web検索で「金沢屋旅館」という旅館をみつけた。すでに8月に入っているのに、電話したら、狭い部屋なら何とかぎりぎりとれるという。ただし、素泊まりでだけと。そこで3泊宿泊を予約した。一人当たり一泊約4950円である。

 場所は佐渡の両津湊の中心地だ。下の写真は青山が撮影した「金沢屋旅館」の全景である。何とも情緒あるレトロな建物であある。

 そこでWebでこの「金沢屋旅館」を調べたら、なんとその昔、遊郭だったことが分かった。今年他界された桂歌丸さんの落語に出てくる遊郭とほとんど同じ間取りや構造の遊郭を旅館にしたものだ。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

◆遊郭とは

 遊郭は、安土桃山時代にさかのぼる。別称として廓(くるわ)、傾城町(けいせいまち)ともいう。広義には、芸妓を含んだ花街(はなまち、かがい)や、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)など私娼街も含めた通称である。

 「廓」は、「城郭」と同じで囲われた区画を意味する語。一区画にまとめられたのは、人の行き来を制限して治安を守り風紀を統制することが目的だった。江戸吉原の「お歯黒どぶ」が有名である。近代の遊郭は、必ずしも大きな物理的障壁で囲まれていたわけではなく目印程度の境界であることもあった。

 その他、江戸時代に公許の遊廓以外で遊女の集まる場所に宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)(飯盛女を参照)や門前町などの岡場所(おかばしょ)があった。明治期においては、1900年に娼妓の居住地と貸座敷(遊女屋)の営業地が同一地区に指定され、この指定された公娼街を俗に遊郭と呼んだ。

出典:Wikipedia

 食事なし、部屋にトイレなし、風呂なし、インターネット接続なし、など何から何までなしづくめだったが、なんといっても8月過ぎに予約、それも3泊の予約ができたのは奇跡的であった。

 8月15日、北軽井沢から車で関越トンネルを抜け、直江津港から小木港にフェリーで到着後、夕方に「金沢屋旅館」すると、女将が温かく出迎えてくれた。

 旅館には、江戸末期から明治初期にかけて収集したという陶磁器や掛け軸などの文物が多数展示してある。まるで博物館か民俗資料館に入ったみたいだ。

 下は両津湊にある「金沢屋旅館」の位置である。フェリーがつく港には歩いて7分、車なら2分程度の位置にある。


出典:グーグルマップ

 下は両津湊の範囲を示している。「金沢屋旅館」は両津湊のちょうど中央にあることが分かる。

 両津湊を含む両津は、1954年から2004年まで、新潟県の佐渡北部にあった両津市(りょうつし)であった。平成の大合併以前に存在した県下20市中で最小の人口であったが、島でただ一つの市で、島内最大の人口を擁していた。しかし、2004年3月1日に、合併して佐渡市の一部になった。


出典:グーグルマップ

 下は両津湊の町並みである。これまたなんともレトロだ。電柱や電線がなければ、江戸時代の宿場町である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 写真中、ベンガラ色の格子戸があるのが金沢屋旅館である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


つづく